胃袋に収まらない文章について
この人の話していることが書かれてたり、この人について書かれているものなら無条件に読む。そんな人が何人かいる。
仮にそのひとりがAさんだとする。Aさんのことは勝手に天才だと思ってる。同時に自分自身をときに持て余し、そこに生成されたどうしようもない穴によく陥るし、その穴から発せられる思索の言葉に僕はよく絡め取られる。
その言葉はいちいち問いにあふれてるし、ひとつの問いが別の問いの箱を開けてしまい、そこから出てきた「答えのないもの」が散らばることもよくある。
自分で自分のことを面倒くさい人間だと自覚してるところも勝手に親近感を抱いてしまう。
面倒くさい人間には何かしら通底するコードのようなものがある。
自分の生き様と言葉はうまく切り離して操ろうと思えばできるんだろうけど、あえてそれをしない。器用じゃないからできないというほうが正解なんだろうけど。
そのために、自分という存在が面倒くさくなる場面が多々出てくるのだ。
ふつうなら、そんな面倒くさいものに惹かれたりしないのかもしれないけど、Aさんにはすごく惹かれてしまう。なんだろう。面倒くさい言葉たちのどれもが、頭の中でこねくり回されたものではなく「人間」そのものだからだ。
その人が生きてることと、その人のいろんな言葉が、どこに行くにも「くっついてる」人って、そうはいない。言葉がどうしようもなく生きてるのだ。愛しさと切なさと強さと弱さを持った言葉。陳腐な表現をしてしまうけれど。
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この前も、あるところで本当に偶然、Aさんについて書かれた(というかほぼ全面Aさんの特集だ)紙媒体を見かけ手に取った。
読んでいくうちに、なんか変だなと思いはじめ、だんだん中身が入ってこなくなる。
どこにもAさんがいないのだ。いつも生き様と言葉がくっついてるはずなのに、Aさんの姿もAさんの言葉も面倒くさい気配も見当たらない。なのに、Aさんが語った特集になっているという不思議な誌面が展開されていた。
もちろん、記事の内容はきちんと正しく書かれている。過不足もない。だけど、そこにAさんはいなくて、まるで適当なスマートスピーカーがいかにもそれっぽく話してるような感じがした。
あるいは小麦の味がまったくしなく、食べた気がしないパンを食べてるような気分だった。
これじゃ、まるで気が利かない役所の広報じゃん(そうじゃない役所の広報も、もちろんある)。
そして、思わずはっとした。そんなことを、僕もやってしまってないか。ぞっとした。自分で自分にびくっとなった。
きれいに、あるいはうまくまとめたつもりで、その人がどこにもいない文章を書いてしまってたとしたら怖い。そのことに気付いてすらいなかったら怖すぎる。
見た目だけで味のまったくしないパンを焼いて「うまく焼けた」と思っても、誰も満たすことはできないのだ。味が合う合わない。好き嫌いはもちろんあっていい。というか、ないほうがおかしい。
なんとも言えないその人の生き方と味があって、はじめてパンも文章も胃袋に収まるんだと思う。