教養を抱きしめた話
教養は「教室」ではない。ちょっと何言ってるかわからないこと書いてるけど、そう思う。
もう少し丁寧に言えば、誰かの話をちょっと聞いたり、ディクテーションしたり、誰かが書いたものを読んだりするだけでは「教養」にはならないんじゃないか。
もちろん、それらは教養のきっかけだったり入り口だったりする。必要ないわけじゃなく、むしろ必要。
なのだけど「そこだけで」終わってしまうと、本当の教養は見えてない。
じゃあ、本当の教養って何なんだ? という話だけど、すごく個人的に思うのは「それまで見えてなかったものが自分で見えるようになること」だと思う。これは教養のちゃんとした定義ではないけれど。
なんだろう。誰かの話や誰かの書き記したものを補助線にして、自分でそれまで見えてなかった「何か」の存在証明(大げさだけど)をできるのってまさに教養がないとできない。
2次元の世界を2.5次元を経由して3次元にできるような感覚。
だけど、いまって「教養」は結構扱いが冷たかったりする。教養はスキルやノウハウと違って即、何か分かりやすい「価値」に変換できないからだ。
教養が現実的にすぐ何かの役に立つのかと聞かれたら、よく分からない。教養は定量的に計測できるものでもないし。ただ、感覚としては教養がないと「薄っぺらいな」とは思う。
いま現在のやることに対してもだし、もっと時間軸を引き延ばして考えることも教養があるなしで深みとか厚み、広がりが全然違う。
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目の前の「意味」とか「価値」からはあえて遠く離れた世界に、まだ見えてない「もっと意味も価値もある」何かが埋もれていることだってある。
「いまのことばの教育は、はじめから、意味をおしつける。疑問をいだく、つまり、好奇心をはたらかせる前に、教えてしまう」
教養と言えば思い浮かぶ外山滋比古先生は『思考の整理学』でこう述べられていた。
本当はもっと子どもも大人も目の前の「意味」とか「価値」からものすごく離れたところに自分を打ち上げてみてもいいのかもしれない。そのほうが、まだ見えてないものが自分で見えるようになる気がする。
みたいなことを朝から遠く8000万キロぐらい彼方を想って考えた。
そう、去年7月に打ち上げられたNASAの新しい火星探査車「パーサヴィアランス(Perseverance)」が「恐怖の7分間」を乗り越えて無事、火星着陸に成功したからだ。
「パーサヴィアランス」はこれから約2年かけて火星の生命の痕跡を直接地球に持ち帰るためのプロジェクトに挑むのだけど「それが君に何の意味を?」という文脈もある。
たまたま、今回の火星探査車オペレーションチームの一員であるNASAジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratory)のエンジニア小野雅裕(おの まさひろ)さんの書籍制作をご一緒させてもらったというのはきっかけとして大きい。
僕は本当に宇宙が好きな人からすれば、それこそ砂塵のような宇宙への興味だけど、「生命」という部分に関してはずっと興味がある。
それこそ、巷の例のウイルスだって「生命的観点(厳密にはウイルスは生命ではない)」から見たとき、なぜ宇宙はあるのだろうと考えるのと同じように、なぜウイルスという存在があるのだろうと考えてしまう。
そこから、一見、直接は何も関係ないもの同士が結びついて「もしかしたら、これもつながってるのかも」というテーマというかテーゼみたいなものが浮かんできたりもする。いつ何に実を結ぶことなんて描けなくても、そういうものが自分の中に「ある」ことを抱きしめられるだけでも結構しあわせだ。
だから僕は、いま目の前の自分の仕事と直接関係なくても惹かれるのだ。そういう教養だってあると思う。
そして小野さんのnoteを読ませてもらっても、やっぱりそう思う。
妻のディレクションでイラストレーター利根川初美さんが描かれた表紙イラストにも、誰もが持ってる子どもたちの大きな夢や本物の「想いと教養」が詰まっててじっと見ながら泣ける。