僕とおばあちゃん。

僕はずっと長崎の山の上で育った。引っ越しも高校卒業までしたことがなくて、うちはずっとあそこだったのだろうと思って育ったのだが、そうではなかった。両親も祖父母も色んなところに住んだことがあって、僕が産まれる年、同居を始めたのがあの家だった。

諸事情で今はもうなくなってしまったが、生まれた時からあの家で、生まれた時から家族みんながいた。特におばあちゃんは、小さい頃から何をする時も一緒で、親族一同認めるおばあちゃん子だった。おばあちゃんもたぶん親戚の中で一番僕を可愛がっていた。

春になったら山に登って山菜をとって、お彼岸には一緒にお味噌を作って、近くの商店へも一緒にお買い物へ行っていた。

中学が家から遠いところへ行くことになり、なかなか一緒にいる時間も減ってしまっていたけれど、僕の帰りを必ず待っていたし、朝もお見送りしてくれていた。

中学高校と家が遠くて乗り継ぎがうまくいってバスで1時間半なのだが、帰りは乗り継ぎが大抵うまくいかない。バスは20分に一本くらいで大体遅れているのが当たり前なので、帰りは2時間から2時間半くらいかかる。

僕の高校は部活動に積極的ではなくて、18時には完全下校が徹底されていたので、家に着くのが大体21時前。街を通り過ぎて、山道をバスが登っていく。うねうね、うねうねと。

最寄りのバスも家から少し下のカーブを曲がったところ。帰り道は逆にカーブを曲がると家が見える。少し飛び出た形に家があって、カーテンを開けるとバスを降りて登って来る人たちが見える。

バスを降りると、大体真っ暗なのだが、必ず目線の先の方でふっと光が揺れる。おばあちゃんが、覗くのだ。本当に毎日だ。カーテンの隙間から漏れる光で影になって、おばあちゃんの影が揺れる。大きく手を振ると、影がほのかに笑う。

少しそれが恥ずかしくて、気づかないふりをしてみたり。驚かせようとして、バスを降りてダッシュして、バスより早く家の前を通り過ぎ、バスが通り過ぎておかしいなと首をかしげているおばあちゃんの前にワッと驚かせてみたり。ちょうどその窓のところに一人がけのソファがあって。じいちゃんの定位置なのだが、その時間だけはおばあちゃんが座っていたそうだ。高校3年だけ寮に入ってしまったのだが、高校2年が終わるまでの5年間毎日毎日、おばあちゃんは僕の帰りを待っていてくれた。

歳をとって、体が弱ってきて、親が仕事の都合でで佐世保との行き来をしなければいけなくなり、どうしても施設に入れなければ行けなくなってしまった。その頃僕は北海道にいて、なかなか帰れなかったけれど、帰って施設に顔を見せに行くと、とても喜んでいた。

リハビリを手伝っていると、理学療法士さんに

「お孫さんが来とるけん、元気の良かね!いつもそれくらいがんばらんば!」

と言われて、バツが悪そうに笑っていた。元気でいようと頑張ってくれたのだとも思うし、シロキの家族は全員見栄っ張りなので、おばあちゃんも見栄を張っていたのかもしれない。

働き始めて一年目。いつもは8〜9時だけど、その日は練習や試作がしたくて6時前には職場にいた。片付けをして、準備をして、着替えようとした時に、携帯が光っているのに気づいた。朝が早いし画面には兄からの表示。嫌な予感がした。開いたら、おばあちゃんが亡くなったとのこと。深夜に来ていた。なんですぐ気づかなかったんだろう。とりあえずすぐ連絡した。

弱ってはいたけど、今日明日どうのこうのっていう状況ではなかったと思っていた。なんとなく最期はあえると思っていた、でも会えなかった。

とにかく悲しかった。いつかは来ると思ったし、長生きだったし、当たり前のことではあるんだけど、とにかく悲しかった。それ以外の感情が全くなかった。

長崎が好きになったのも、食べ物が好きになったのも、僕がこんな人間になったのも、おばあちゃんのおかげ。たくさんのものをもらっておきながら、返せずじまいだったことが、今でも心の奥底にこびりついている。罪悪感のような。申し訳なさのような。笑顔で挨拶に行くけれど、きっとおばあちゃんも何も思ってないけれど、何本線香をあげてもきっと消えることはないと思う。想い出も、罪悪感も。ずっと一緒だ。

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