かぁちゃんがくれたもの。
うちの母は、明るい。ずっと話しているし、ずっと笑っていて、たまにぷんすかする。
若い頃は看護師で、めちゃめちゃ攻めたミニスカートをはいたり、昔の写真は毎回髪型が違ったりする。
そんな母が、父と結婚して、兄が生まれ、僕が生まれた。祖父母と同居して、甲斐甲斐しく、本当に甲斐甲斐しく、家族の面倒を見てくれた。
僕が小学校に上がって少し経った頃、小児喘息がひどくなってきた。定期的に病院に通い、薬をもらっていた。それでも、だんだんと発作の頻度があがり、小3の頃の夏休み、毎日のように発作が起きるようになった。
昼間は大丈夫でも、夕方から怪しくなってきて、寝る頃には息が苦しくて横になれなくて、通っていた大学病院へいき、深夜診察をしてもらって、吸入を行うけれど、良くなることはなく点滴をする。すると少し落ち着いてきて、うとうとする。
こんな生活が本当に毎日続いた。本当に毎日だった。
点滴を打つ間は、小児科の共有談話室みたいなところにいる。入院ではないから、部屋はない、点滴が終わるまで、そこの硬いソファで横になる。当の本人は、点滴をすると、呼吸が楽になり、すぐウトウトしてしまう。お腹が減ったりして、冷凍の自販機の焼きおにぎりを買ってもらったり、眠れなければ、病院の時間だけは漫画を買ってもらえて、コロコロコミックが読めたりもした。
そんな日々がつづいたある日、ふと深夜に目を覚ますと、暗い談話室の中、隣で起きている母がいた。今みたいにスマホがあるわけでもなく、何か暇つぶしのものを持ち合わせているわけでもなく、ただ、一点を見つめて、座っていた。母はずっと起きていたのだと、その時気づいた。
わがままばかりの僕に、付き添って、毎晩病院にきて、ずっと眠れずに、次の日は普通に朝からみんなのご飯を作る。どれだけ疲れていただろう。
僕はあの夜の母の目が忘れられない。
強い目をしていた。あれが愛の具現化だと、子供ながらに、悟った。僕はあの目に生かされていた。
両親は、その後入院させた方がいいという先生たちの意見を押し切り、家に吸入器を導入して、宿泊研修や、修学旅行にも、持って行かせてもらった。
おかげで、中学に入学してから、発作は一度も起きていない。
いつからか、喘息だったことを忘れてしまう生活になった。
体が成長した。
吹奏楽を始めて呼吸器が強くなった。
色んな理由があるかもしれないけれど、きっと一番はあの目だと思っている。
そんな僕は、立派なゲイに育ち、しっかりおっさんになっている。
恋人にも恵まれて、仕事も色々大変だけど、故郷に戻ってきて頑張っている。
あの時見た、あの目は僕に強く力をくれた。
きっと、今までも、これからも、あの目に生かされていくんだと思う。
母の日に、特別なことを何もしてあげられていないけれど、本当にありがとうと思う。
母はずっと僕に命をくれている。
僕も返せるものがあるならば、返したい。
親孝行がしたい。そう思う。