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スピリチュアルマスターの独り言9「奇跡」

中学生の頃、イギリスのポップアイドルが大好きだった。毎日ファンレターを書いていたら返事が来た。イギリスにハマって、大量の本を読んで、将来はイギリス人のラガーと結婚したい、とちょっとだけ考えたことがある。

その後、子供の頃から憧れていた音楽高校、音楽大学でピアノを学んだ。当時は、体力がなく、いつも病気がちで入院ばかりしていたので、卒業したら医大生の彼と結婚すれば良いと思っていた。

大学4年の頃、短大で勉強していた友人が、幼児教育科にはピアノの授業があり、講師が来て教えている、と言った。それを聞いて「あ〜いいな〜そんな仕事もあるんだな〜」と一瞬思った。

しばらくして、両親の故郷にある短大から「講師になりませんか」と電話がかかってきた。沢山の応募者の中から、地元で長い間音楽教育を牽引してきた重鎮の推薦によって、その年は私一人が非常勤講師として迎え入れられた。

そこに勤めながら、どうしても海外で働きたくなった。どういうシステムになっているのかも分からないまま、世界中の日本人学校に手紙を書いて自分を売り込んだ。短大講師3年が過ぎた頃、海外旅行した。そこで知り合った人と仲良くなり、気がついたらその国の日本人学校で現地採用の音楽教師、夜は日本語学校講師と二つのビザを取得して働いていた。

帰国した年の4月から東京の日本語学校に教務主任として働いた。そこで始めての授業の日、教室にたった一人の学生が来ていた。まだ春休み中で全員が揃っていなかったのだ。その人は、イギリス人でラグビーをするラガーだった。そのラガーと9月に結婚した。そして思い出した。そう言えば昔、そうなるといいな、と思ったことを。

イギリス人の夫と英語学校を創った。音楽を使って子供に英語を教えるというアイディアを実践した。彼と力を合わせ、一人の生徒からスタートした弱小スクールが、荻窪に家を買うまでに発展した。

やむ負えない事情があって、二人の子供達をインターナショナルスクールに通わせることになった。もし、私がそのインターナショナルスクールで音楽の先生になったら、こんな風に教えたら楽しいな、と想像したことがある。すると一週間もしないうちに学校から電話がかかってきた。そして私は音楽教師として採用された。自分の英語学校では音楽で英語を教え、インターナショナルスクールでは、英語で音楽を教えた。若い頃からいつも二人分ぐらいの仕事をしてきた。

私が教師となったおかげで、学費割引が与えられた。幼稚園から小6までは、割引で通わせることができた。

下の子が小6になった頃、私は離婚した。上の子は、ほぼ一対一で教育する年間300万円のインターナショナルスクールに通っていた。そういう教育が必要だったのだ。音楽とピアノを教えまくって学費を稼いでいた。やがて下の子供も中学生となり、上の子と同じスクールに通い出した。荻窪の家を売ったお金はあっという間になくなった。

私の勤め先の学校の閉校が決まった。仕事がなくなる。下の子を区立中学に編入させようとしたが断られた。どうしていいか方法が見つからず必死に祈った。学校の授業の後はピアノのレッスンを山のように教えて、発表会も開催した。発表会で自分も弾けるようにチーズをかじりながら夜まで練習していた。恐怖で押しつぶされそうだった。ひざまづいて祈り続けた。すると「あと一週間待ってて」とガイドが言った。

一週間が過ぎた頃、その夜もチーズをかじりながらピアノを練習していた時、電話が鳴った。他のインターナショナルスクールからだった。すぐに音楽教師としてフルタイムで働いてもらいたい、と言われた。その学校には中学もあった。下の子はこの学校に転校することになり、学費は教師割引で大幅に減った。300万が30万ぐらいになった。契約書にサインをしながら涙が止まらなくなった。優しい理事の女性が、苦労しているんですね、と慰めてくれた。感謝が止まらなかった。

2010年の暮れ、あることが判明した。元夫と子供達がイギリスに移住する計画を立てていたのだ。「あなたではこの先大学と高校に通わせられないだろう」とこれまで学費をほぼ無視してきた元夫が言った。イギリスの教育費は無料だったのだ。ショックと悲しみで絶望した。ただ祈った。子供の最善だけをお願いした。しばらくして、イギリス移住の計画は消えた。イギリスの教育が有料化になったのだ!!イギリスの法律が急に変わったのだ。引き続き、私が子供に教育を与え続けることになった。大変でも、私にはできると確信した。こんなに守られているんだから!

下の子が中3になった。しかし、高校に行かせる道がなく、ただただ毎日祈った。やがて東日本大震災が起きた。在日外国人が激減した。学校から生徒が減った。高校は作らない方針だった学校も、生き延びるために高校を作ることになった。下の子の進学先が急に生まれたのだ!

生徒が減った学校は、依願退職者を募った。好条件を見た途端、私は「とうとうスピリチュアルな仕事だけに移行するときが来た」とただ分かった。定収入がなくなる恐怖は言葉にはできない。清水の舞台どころではない、飛行機から飛び降りる、嵐の海に飛び込む、ような心持ちで上司のオフィスをノックした。「私、退職します。ただ、子供はここで学びつづけ、高校に進学します。なんとかして!」と交渉した。下の子の高校の学費は無料となった。

その後、神聖な世界は私を使いまくってくれた。イギリスのスピリチュアルスクールを日本に招くから始まって、翻訳もしろと言われた。いつも最初は、私には無理、お金もないし、誰も私のことを知らないし!と反抗するのだが、いつも実現した。どうやってこなしていたのか分からないほど、すざまじい量の講座、ワークショップ、翻訳作業、執筆、海外講師セミナー開催、通訳まで、働きまくった。年に2回は海外で学び、常にスカイプでも学び続けた。

下の子はアメリカの大学の東京キャンパスに通った。彼もすごかった。好成績で奨学金を受け続けた。イギリスの祖母が亡くなり、その遺産が大学後半の学費を払ってくれた。無事に卒業する直前、私は宮古島に移住させてもらえた。上の導きでマンション不足の宮古島で、ちょうどいい303号室が与えられた。長男も仕事と住処を得てここに移住した。

下の子は大学卒業後、しばらくデザイナーとして自営しながら宮古島で私と一緒に過ごした。その2020年は、親子3人コロナ禍の島でレジャー満喫というご褒美のような時となった。そして、2021年、下の子はとても国際的なデザインオフィスに就職して東京に戻って行った。子供の夢と希望も叶ったのである。

神聖な世界と共に生き、与えられる仕事に集中していれば、どんな時も奇跡が起きる。聖書Roman 8-28 All things work together for good! そのもので生きてきた私の、ほんの一例である。


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