韓国映画「パラサイト」と「ピラミッド」
きっかけは韓国沼TLでみかけた「ミニョクは奥様と不倫していたのでは」という感想だった。
同じ男を好きな女のカン?(パクソジュン演じるミニョクに注視することにより出てくる発想だなと)でも確かに、奥様のミニョクへのあまりの高評価には違和感もある。あやしい。ない話ではない。鋭い指摘だ。
娘の方とのアレコレもあり、既に侵略の完了した自分の縄張りを荒らさない男として、彼はギウを後釜に選んだのでしょうか。ギウへの親切心のつもりもちゃんとあっただろうところが、この物語の悲劇であり喜劇だ。
渡した水石はミニョクにとっては欲望の象徴。しかも多分、その欲望に彼はさほど執着はない。ダへが好きなのかとギウに問われても、はっきりと返答はしなかった。留学先にもっとよい獲物がいたら、彼はあっさり乗り換えるのでしょう。
一方ギウにとって、石は、ミニョクに擬態できる希望の象徴だ。
このミニョクと奥様が不倫してたという仮定で考えると、パラサイトの登場人物は、秘密をもっているもの、あえて口に出さないことがあるものばかりになる。キム一家、家政婦地下住人夫婦はもちろん、パク一家もそうなるのだ。
娘ダへは家庭教師たちとの秘密の恋。息子ダソンは地下住人の存在を絵に描いていた。ではパク社長の秘密とは何だろう?
匂いというのがあの事件の導火線となるわけだけれど、彼は下層暮らしの匂いにかなり詳しかった。あれほど忌み嫌ってたのは、実はもしかして、そこからの成り上がりだからなのではないか?(←これは指摘してる人もけっこういますね)
ギテクに境界線を越えてこないことを望むのは、その境界線を完全なる壁として認識したい願望なのでは。一度越えたならば、戻れない、戻されない、絶対的な境界。そんな彼には境界を越えてくる半地下の匂いは耐え難く不快なものでしかなかった。これが、パク社長がキム一家には明かしていなかった秘密なのでは。匂いに対する心理のからくりをギテクが知っていれば、沸点を越えたようなパク社長への殺意は生まれなかったのではないか?
キム一家、奥様、ダへ、、登場人物の誰の秘密が暴かれても、その発覚の時点で、あのような悲劇となることは回避できたはず。それなのに、カードで組み立て作られたピラミッドのように、崩れそうで崩れない絶妙なバランスを保ったまま、彼らは最終章に突撃してしまった。
これはもちろん偶然なのですが、パラサイトとピラミッドは語感が似ている。貧富の構造もパラサイトでピラミッドである。複雑に依存しあい、下層の富は上層に吸い上げられていく。
「パラサイト」は、そうやって社会上下ピラミッドのような格差を描きつつ、画面左右に振り分けた二つの家族を同時上映しているような映画だと思った。
キム家もパク家も同じ階層の中ではありふれた家族だ。そして愛やお金、持っているもののパーセンテージが違うだけで、実はこの2家族にさほどの違いはないのかもしれない。
左右切り分けた境界線を越えてきた"匂い"が悲劇を呼んだ。ミニョクから引き継がれた"水石"も、ギウにとってはそれを越えるためのパスポートのはずだった。そしてそれは、慾望から希望になり絶望となって、やっと離れた。父親を救いだすために金持ちになるという、可能性が限りなくゼロに近い希望ともいえない願望だけが残った。
適当に善良で適当にずるかった2家族(3家族)のピラミッドは崩壊し、そうして気づくと、その始まりであるミニョクだけは無傷だ。ミニョクがピラミッドの頂点のように思えてくる。ダソンはインディアンとして侵略者を待ち構えていたけれど、侵略者は実は勝者ミニョクだったような気もしてくる。そしてまるであの石は、悪魔の石のようである。
これはミニョクと奥様の関係の仮定から出発したあくまでひとつの解釈。ライトを当てるところを変えればまた違う様々な解釈ができる。そのように作られてる。
「パラサイト」凄い映画ですね。