「ユリシーズ」 ジェイムズ・ジョイス
丸谷才一・永川玲二・高松雄一 訳 集英社文庫 集英社
(読んだ記録は少しだけ。もし再読したら記録は新たに作る予定…)
読書中記録寄せ集め
ユリシーズ中。このダブリンのある6月の1日を捕らえた作品はまた、一つの詩が形成されていく物語でもあるようで。
失われた時を求めては小説だった。それが。この2大長編は呼応するものがあるよう。
(2007 04/03)
20年を1日に凝縮
ユリシーズも3冊目まで読み終わり、残すは最終巻。(文庫版)
第15挿話は幻覚のオンパレードなのだが、最後にダブリンが燃えて戦争が始まる幻覚がある。現にユリシーズ執筆は第一次世界大戦中にかかっており、そこが反映されているのかもしれない。この日以降の歴史の萌芽は全てこの1日にありって感じがする。
トーマス・マンの「魔の山」の最後も(そこだけいえば)似たようなところがある。両者とも時間が主人公なのかも。
(2007 05/10)
昨日、ユリシーズ読み終わった。
今はその訳本にも監修?として参加している結城英雄氏のジョイスの解説新書を読んでいるところ。
第17挿話で夜空に自分達の軌跡でもある星々の銀河見上げた2人。「・」の記号を通過し、第18挿話の大地の脈動のようなモリーの独白となる。格好よく言えば死と再生の瞬間。
(2007 05/18)
続いては、関連本いろいろ(結城氏の本は記録がない…)。まずはジョイス論が中心テーマの本から。
「6月16日の花火」丸谷才一より
6月16日はユリシーズの日。ユリシーズの第一人者、丸谷才一氏の評論を集めた本。そのうちの最初の2編を(といっても、書かれたのはこの本に収められた中では最近)。
最初のは、主要人物3人の三角関係と、アイルランド史における最も有名でなおかつユリシーズでも再三言及しているパーネルの三角関係との関係について。丸谷氏は6月16日終了後、ブルーム夫妻は結局もとのまんまになるのでは、と考えているみたい。
次のは、第15挿話「キルケー」の幻覚について。最初フロベールとドストエフスキーの戯曲体小説手法を概観して文学史に位置づけたあと、「キルケー」に出てくるブルームの幻覚(ダブリン市長になるなど)は、トリエステからチューリヒに移り住んだ時にみた春を迎える祭りに出てくる冬の王様人形を見て具体化したのでは、と述べている。冬の王様人形は最後には火をつけられて(火薬入っているので)吹っ飛んでしまう。このカーニバル的な、喧騒と奪冠の円環回帰は、他にも「フィガネンス・ウェイク」のウェイク(誰かが亡くなったあと、その死体の横で酒盛り騒ぎをする)などにも現れる。バフチンやマーシアの論文を参照・発展させながら、円環の歴史観と直線の歴史観を対比しジョイスは明らかに前者であると結論づけていく。
(2010 12/27)
「モダニズムの詩学 解体と創造」丹治愛より
第3章は歴史的決定論からの「目覚め」としてのユリシーズ。主に第2挿話「ネストール」から。芸術家になろうとしてアイルランドを脱出したスティーブンは、失敗してダブリンに戻る。芸術家としてのダイダロスと、そこからの墜落というイカロス。こうした神話の重ね合わせは、エリオットに物語の通時的語りから、類似、イメージといった共時的語りへの転換とされる。スティーブンはアリストテレス的な「質料に対する様々な形相が殺到する運動」というのを導入し、アイルランド民族主義の、またキリスト教的、ヘーゲル的決定論から自由になろうとする。それはニーチェやキルケゴールから受け継いだもの。
「非存在」でありながらそこに在るというそのような存在、これこそ可能性にほかならないのだ。そして「存在」としてそこに在る存在は、まさに現実の存在であって、現実性にほかならない。とすれば、生成の変化とは、可能性から現実性への移行なのである。
(p70 「哲学的断片」キルケゴール(1844))
(2019 09/15)
第4章(一昨日、昨日)
第4章は「ユリシーズ」の「セイレーン」挿話から、音楽と言葉。芸術家としての作家は常に音楽(シニフィアンしか存在しない)に憧れている。しかし言葉を使用する文学では、それを完全実現することはできない。「セイレーン」挿話では、後から出てくる擬音語(「ジングル」等)を脈略なしに突然出してみたり、新規な擬音語を作ったりしている。言語芸術たる小説は後でシニフィエの網に再構築されざるを得ないのだが、それでも意味からの解放をかいま見せてくれる。
(2019 09/17)
「ジョイスのための長い通夜」大澤正佳より
「ジョイス随想2」。ビートルズとジョイス、ライト・ヴァース(小歌)と「ユリシーズ」、そして「SOS」。
最後の随想から。
彼(クヌートという研究者)によれば、SOSは『ユリシーズ』の構造そのものを示唆するシグナルであって、中央に位置するOはこの作品の円環構造、循環的回帰運動を表し、その両側に控える二つのSは作品の冒頭および結びを示す、ということになる。『ユリシーズ』という球形の宇宙に二匹の蛇が寄り添っている図は、たしかにジョイス好みの中性的な趣きがある。その一方、新しいものに旺盛な好奇心を示すジョイスのことだから、一九一二年国際無線通信会議で制定されたモールス符号SOSを一九〇四年のダブリンを舞台とするこの作品にそしらぬ顔で滑りこませる芸当くらいやりかねないと思われる。
(p204)
(2021 01/11)
ズヴェーヴォは前にも出てきた通り、トリエステで彼の英語教師にジョイスがなり、彼の作品を認めてそして「ゼーノの苦悩」をうみださせたのだが、一方ジョイスもズヴェーヴォから影響を受けている。それはちょうどスティーヴンとブルーム(ズヴェーヴォもユダヤ人)の関係でもあったようだ。
『ユリシーズ』のブルームの部屋の本の中に、コナン・ドイルの『スターク・マンローの手紙』がある。これはドイルの著作であるが、ホームズものではなく宗教的な自伝的作品。一方、ジョイスがイタリアで読んでいた中には『コロスコの悲劇』がある。これまたドイルの宗教的作品。
ドイルが維持し続けた強い宗教的関心と彼がホームズにおいて発揮した強靭な論理性実証性は、そのいずれもジョイスの内面にみごとな照応を示している。
(p330)
第一次世界大戦後のドイルは、彼の中で今まで危うく均衡していたこの二つが徐々に宗教性へと引っ張られていくことになったのだが、それを引き継いだのがジョイスであった。
(2021 01/20)
続けては、ちょっと角度を変えて…
「時間割」(ミシェル・ビュトール)と「ユリシーズ」
今日、ビュトールの「時間割」読み終えた…んーっと、すぐ最近読んだ本とむりやりにでも比較してしまう癖がある自分は、「ユリシーズ」と比べてしまう。
だが、この2作品は関係大あり。何せ「時間割」の迷宮はダイダロスが作った。ダイダロスとは他でもない、スティーブン・「ディーダラス」のことだから…
まず、異なる点から。まあ、なんてか読後感が違うのね。緻密でほの暗いビュトールと、放言的で明るいジョイス。あとは語りの人称かしら。日記だから当然1人称のビュトールと、3人称ってか誰が語っているか全くわからんジョイス。
続いて共通点。
まずは、両者とも神話がベースになっている。20世紀文学らしい。続いては時間。ジョイスは1日、ビュトールは1年。この区切りが大切。
言ってみれば、方法は似てるが、気分が違うといったところ。ただ一番の共通点は「麻痺」というテーマかも。その点では町を通りがかる多数の人々こそ、主人公なのかも。
(2007 06/13)
「ブダペストの世紀末 都市と文化の歴史的肖像」ジョン・ルカーチより
注にジョイスとハンガリー文学との関わりの注があった…ああ、そうそう、ユリシーズの主人公?ブルームはハンガリー系ユダヤ人だった。ジョイスはトリエステで語学教師している時にハンガリー文学と接したらしい。トリエステは当時ハンガリー帝国内。そこでハンガリーの詩人アディ(だったかな?)を知ったり、ハンガリー語特有の膠着語からユリシーズの重層的語りが出てきたり、フィネガンズ・ウェイクの方にも影響あるみたい…そういう方向からハンガリー人研究者が研究した論文があって、翻訳も出ているみたい…読んでみたい。
(2012 01/29)
「詩人たちの世紀 西脇順三郎とエズラ・パウンド」新倉俊一より
第5部「ユリシーズ、私の「ユリシーズ」?-『キャントーズ』への案内から
『キャントーズ』には叙述の論理もない。あるのはホメロスよりとった〈地獄下り〉と、オヴィディウスからとった〈変身譚〉だけで、これらに中世や現代の歴史上の人物がまぜ合わされているだけだ
(p261 パウンド自身の評)
ジョイスは『ユリシーズ』の評をパウンドにしてくれるようにエリオットに頼む。これに応えてパウンドは「ユリシーズ、秩序、神話」の書評を書く(1923)。その過程でパウンドはジョイス作品の神話的構造に注目し、『キャントーズ』を見直して、オデュッセウスの放浪を主題とする。ただこのオデュッセウスは、ホメロスやジョイスのように「帰還」はしない。「ダンテの『神曲』で描かれたユリシーズのように、故郷に帰らずジブラルタル海峡を越えて、さらに未知の世界に乗り出すあの精神の冒険者だ」(p262)
(2021 04/18)