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「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 マックス・ヴェーバー

大塚久雄 訳  岩波文庫  岩波書店

プロ倫でござい…


「異端者たちの中世ヨーロッパ」小田内隆を読んで、異端者…特にワルド派のディアスポラ小集団の発展を見たくて、次に読むのはこちら…マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(通称「プロ倫」)にした。
通称が世間に知れ渡っている本ナンバーワンではないだろうか…

というわけで「プロ倫」は、今の…言ってみれば近代資本主義が、宗教改革後に出てきたプロテスタントの一派(西欧全体ではなく)独自の宗教倫理から形成されたものであること、合理的なるものは(本来は)多義的である概念なのに、現代社会においては上記の「精神(エートス)」に一義に決められてしまっている…という粗筋(笑)。なんかリーマンショックが逆説的に証明してしまったような…そんな感じ…
ま、とにかく読み始めますわ…

鉄の檻と自己再生産


こういう古典的著作読む時いつも感じるけど、後に批判されて形成されていく視点も、もう既にここに含有されているのではなかろうか、と。

 今日の資本主義的経済組織は既成の巨大な秩序界であって、個々人(少なくともばらばらな個人としての)にとっては事実上、その中で生きなければならぬ変革しがたい鉄の檻として与えられているものなのだ。
(p51)


出ましたね、「鉄の檻」。
全くばらばらな個人なんて存在が、現実には存在しえないことはウェーバーは百も承知なことも書いておいて…

 経済生活の全面を支配するにいたった今日の資本主義は、経済的淘汰によって、自分が必要とする経済主体ー起業家と労働者ーを教育し、作り出していく。
(p51)


ここではウェーバーが社会実在論的立場から論じていることがわかる。社会というものは、一旦産み出されてしまうと、個人とは別物となってしまう…と。
でも、社会って何?この引用した文にも含みがあるように、自己再生産するシステムそのものなんじゃなかろうか?ゲーム理論とか自己言及とか、そういう今をときめく?社会学理論の芽も、ここにはある…のかな?
(2012 04/16)

資本と財産、資本主義と伝統主義


引き続き、プロ倫から…

 近代資本主義が、人間労働の集約度を高めることによってその「生産性」を引き上げるという仕事を始めたとき、到る所でこのうえもなく頑強に妨害しつづけたのは、資本主義以前の経済労働のこうした基調だった。
(p65)


資本主義以前の経済労働…他のところでは伝統主義…というのは、できるだけ多く働いてお金を稼ごうとするよりも、労働時間を少しでも減らそうとか、同じ時間働くならのんびりやればいいやとかいう…まあ、「普通」の考え方。よく経済学で間違えやすいのが、「普通」の人が「経済人」である、とする前提でものごとを考えようとするところ。まあ、自分も「普通」だが(笑)…

でも、近代資本主義を生み出したのは、こういう普通さではなく、ある種の宗教的情熱を持っている人、この引用箇所の前にある長い注の中で言うと、財産と思わずに資本と思う人。財産は守るものだが、それが資本という意味付与をされると、生み出すもの、ちょっと変な言葉で言うと攻撃的なものに変わる…
で、宗教と労働というこの一見ミスマッチ?なものを結びつけるのが、「天職」という概念…ということらしいのだが…
さて、では「普通」の人はいったいどう働くのか?
(2012 04/17)

プロテスタンティズムの倫理と近代小説家の精神


今朝読んだところから、自分はウェーバーが「近代資本主義の精神」なるものが、資本家・企業家だけでなく…例えば近代小説の祖なんて言われている人達にも当てはまるのでは?とか考えた。自分の作品を「資本」にして、また次の作品を休みなく、ある作家内の倫理に従って、「生産」していく。19世紀フランス文学に商業やジャーナリズムをまな板に載せた作品が多いのは(よね?)、一方ではその対象を批判しつつ、一方では自らがその批判対象にのっかって(依拠して)書いている…自己言及化に自ら気づいているから…なのか? それは理由となっているのか?
(2012 04/18)

資本主義の精神と合理主義


プロ倫は大きく二部構成になっているようで、その第1部の第2章の終結部分を読み終えた。っても4、5ページくらい…
その最終箇所には、この本でウェーバーが論じようとしている「資本主義の精神」というものと、いわゆる合理主義というものは違うのだ、という説明がされている。
それから、その前の部分では、利子と宗教について、この二つのベクトルの調整(商業の発展と、いろんな宗教(カトリシズムも当然)に見られる利子禁止事項)…ここも歴史突っ込むといろいろおもしろそうな箇所…が出ていた。
(2012 04/19)

職業選択の自由…


第3章に入った。そこではこの間書いた天職という概念がルターの聖書翻訳から出てきた、ということの証明が書かれている。
中世後期に一般的だったトマス・アクィナスでは、秩序重視・この世界はキリストの身体だとして、身分固定で職業は世襲性が望ましいとなっていたのに対し、ルターではやがて各人が(神の)呼ぶ職業を見つけなさい、ということになる(英語では天職という言葉はコーリングというらしい)。

でも、ルター派ではその後(どっちかといえば)秩序重視になって、結局のところ「天職」という概念導入にしか「資本主義の精神」形成には役立たなかった・・・のではなかったのか?
(2012 04/23)

プロ倫はルター自身の資本主義観について。ルター自身では、後期スコラ学より資本主義の見方は否定的という。それも年を追うごとに…
(2012 04/24)

理念形讃歌…


やっと第一部を読み終えた。
最後はウェーバーの最重要概念である理念形讃歌??(一般的に言えば、理念形の必要性…)。現実が曖昧模糊で絡み合っているからこそ、このような理念形を差し出すことで見えてくるものがあるのではないか、と。

前世紀末から今世紀(の、初期)にかけて、構造主義を経て、どっちかと言えば、対象自身の内的運動から世の中を見る考え(ルーマンなどのシステム理論、ドゥールーズなどの差異の理論、フーコーの対人関係還元社会学?など)が盛んだと思っているのだが、このウェーバーの理念形という装置はもう時代遅れとして捨てるべきものなのか? 或いは逆に、先に挙げた今の理論も結局のところウェーバーの中に納まってしまうものなのか…両極端のこの中を揺れ動きながらそれぞれの位置が定まっていく…
(2012 04/25)

予定説…


昨日ちょっと読んだプロ倫から、ようやくカルヴァン側にやってきた…の予定説。 
この予定説なるものは、宗教の教義からいってカルヴァンの最重要なものではないかもしれない、とウェーバーは最初に断った上で、それでも歴史的に重要な変化を与えて来たものだから。としてこれを取り上げている。 
では、予定説とは何か、というと、よくわからないのだが(笑)、なんだか予め人類の救世主となるべき人間は決められていて、でもそのことは他人にも本人にも(最初は)わからなくて、突如その人の内面に現れてくるらしい、とかそういう説だったような。 

これが、ウェーバー的に何処が重要かといえば、まず、一人一人が宗教的共同体から孤立化したこと。誰にも自分が何ものかわからず、また知らせる術もない、というところから。このことは現代からみればどうってことのないことかもしれないのだけれど、当時の人間観からすれば凄まじい暴力的な考えだった、という。でも、これなくては、後のあのフランクリンの「時は金なり」は生まれえなかった。だって共同体で分け合えばいいのだから。 
(2012 04/29)

容器と道具


まずはp168の注から、引用者の都合により適当に抜粋(笑) 

自分が救われていることを確証するのだということが忘れられないキリスト者は、神の目的のために活動し、しかもその活動は非人格的なものとなるほかはない。…人間的な対人関係は…容易に被造物神化ではないかとの疑いをうけることになる。 

ここ読んで、自分はすぐにフラナリー・オコナー短編集にあった刺青の男の話(刺青してきた夫をいきなり追い出してしまう妻)を想起してしまったけど…一方でウェーバーが言及しているのは、ピューリタニズムの盛んな国では人格に信頼を置く独裁政権に対する抵抗が強いというところ。ウェーバーにとっては当時のドイツとの対比しても気になるところ…らしい。

 自分を神の力の容器と感じるか、あるいはその道具と感じるか、その何れかである。前者のばあいには彼の宗教生活は神秘的な感情の培養に傾き、後者のばあいには禁欲的な行為に傾く。
(p183)


(なんで「ばあい」が平仮名なのかよくわからないけれど…)
前者がルターやパスカル(もちろん相違はあるが)で、後者がカルヴァン。らしい。考えようにとっては、後者の方が受動的にも思えるが… 
後、気になるところとしては、ミルトンなどピューリタニズムの詩人が幼い頃受けた厳格な予定説教育ってどんなもの?とか、神の道具になることと職業訓練との関わり(ここ、この本のテーマ的には重要なところ…だけど、ちょっと理解しにくかった…)など。 
(2012 04/30)

中世修道士とカルヴァニズムの連続性

 それは自然の地位を克服し、人間を非合理な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意志の支配に服させ、彼の行為を不断の自己審査と倫理的意義の熟慮のもとにおくことを目的とする…(後略)
(p201)


まあ、こういう精神的要素が合理的人間像なんでしょうけど、それはここでウェーバーが言っているように、中世の修道院から引き継がれてきたものだった。それをカルヴァニズムは世俗的道徳と倫理にまで適用した。
さっきの引用文、デカルトの方法序説に現れている「方法」とそっくり。そこからまた別の歴史が始まる…
(2012 05/01)

神の手?


今日のところはカルヴァン本人の主張とは異なる発展について。カルヴァンは自分が神から「選ばれて」いるか、そしてもし選ばれているのなら、神は自分をどのように「利用」しようとしているのか、こういった点については個人では理解不能である、としていた。
だが、後の一派によると、それは可能である。神の手が見える。そしてそれによって神による救いを儲けることができるのだ…という思想まで達する。ここで言う神の手はアダム・スミスのとは違う。あれは複数人数の市場に関する記述だから…
あと、カトリシズム及びルター派と、ピューリタニズムの倫理的差を述べているところで、ウェーバーが英米とドイツを比較して、(なんだか溜め息混じりの?)予想をしているのも気になる…こここそ、ナチズムへの予言的な箇所…
(2012 05/02)

時計という思想


(厳密な引用ではなく抜粋)…

 宗教上の「恩恵の地位」を現世から信徒たちを区別する一つの身分と考え、この身分の保持はなんらかの呪術的=聖礼典的な手段でも、懺悔による赦免でも、また個々の敬虔な行為でもなくて、「自然」のままの人間とは明白に相違した独自な行状による確証、によってのみ保証されうるとした。
(p286)


この行状というものが、資本主義の精神たる合理的生活というもの。という第二章第一節まとめ。
で、第二節は資本主義精神への変化について。いよいよ冒頭で挙げられたフランクリンの時は金なりとの関連が…

 神の栄光を増すために役立つのは、怠惰や享楽ではなくて、行為だけだ。したがって時間の浪費が、なかでも第一の、原理的にもっとも重い罪となる。
(p293)


日常の時間を区切って計測可能なものにしようとした、西洋での端緒はやはり修道院。それを世俗にもたらしたのが宗教革命ー特にピューリタニズム。という図式。
彼らは官職につくことを嫌い、田舎より都市に理想的生活があるとした。少なくとも初期は。
(2012 05/07)

働かざるもの食うべからず?


プロ倫の冒頭の「時は金なり」と並ぶ、あるいはそれ以上に資本主義というか現代社会に影響を与えた思想?が出てきました。それがこの「働かざるもの食うべからず」。なんだかパウロ(?)に源をもつこの言葉、富者にとっての戒めの言葉である以上に働けない人、過酷な労働条件で働いている人への言葉の暴力だよね。
宗教のように人の内面に入り込むものは怖いよね。次に歴史の流れから読むべきはフーコーか?
(2012 05/08)

ユダヤ教とピューリタニズム…

 確定した職業のもつ禁欲的意義の強調が、近代の専門人に倫理的な光輝をあたえるように、利潤獲得の機会を摂理として説明することは、実業家に倫理的な光輝をあたえる。
(p317)


今週中には読み終わりたいプロ倫の、そのまとめみたいな文章。ここて言う専門人というのがいったい何を指すのか。自給自足の農民でもなく、都市の日雇い労働者でもなく、まあサラリーマンなんでしょうけど…何かに専門化することによって、別の人格的な何かを失っていく始まりでもある…でも、ここで描かれている近代図式が今崩されているのもまた事実。

今日のところはそこから、ユダヤ教とピューリタニズムとの差違について。まあいってみれば利用しやすいところだけ利用した…という感じ。明らかに旧訳聖書よりは利用?しやすかったみたい。んで、何を一番取り入れたかというと、選民思想。というと、民族主義を連想するかもしれないけど、それより他人との差違化、個人化、内面化の方が重要。ここいらに、近代人…現代人に半分くらい?尾を引く、近代人成立の謎を解く鍵がある…はず…
(2012 05/09)

遊びの脅迫


いよいよ佳境に突入し始めた…
モーセ第二戒に、自分の像を造ってはいけない、というのがあるらしいのだが、ウェーバーはこれがピューリタニズムと近い、と考えているらしい。個人的な楽しみはそれがたとえ博愛的なものであれ、(神の)義務的なものを妨げる…ここでウェーバーはカント哲学を挙げているのだが、確かに似てるかも。格率とか。

さっきの個人的な楽しみはだめ、の思想が、それには寛容的だったカルヴァンを越えて過激になったのがピューリタニズム。といっても、上層部には芸術的理解者もいる、と弁護もしているのですが。とにかく、イギリスや(ある程度)オランダで芸術一般が不毛だとウェーバーが考えるのはそこに原因がある。シェークスピア劇場を閉鎖したりとか、レンブラントの問題とか、ファッション問題とか、音楽とか…国王がピューリタンに向けて、日曜日にはもっと遊べ、と脅迫した?という話や、労働組合との関連、消費社会は裏返しなのか発展形なのか等々…
(2012 05/10)

合理性と宗教性


さて、やや落ちついて?、全体的なまとめに近づいてきているプロ倫。理論の全体の流れに対してなんか自分の中で、一つのミッシングリングがあるような…それとも二つ?

それが標題に挙げたところ。人間の合理性なるものは人類というものの発達とともに備わってきたもので(だから他の動物にとってはそれがその動物にとって合理的とは必ずしも言えない)、この合理性というものそのものが近代に新たにできたわけではない。もちろん宗教性についても同じことが言える。それを禁欲というバイアスで結びつけたのがピューリタニズムという理論…この二つを結びつけるものとは…あるいは、もともと同じもの…だったりして…

あと、利潤を目的とするのは悪だけど、結果とするのは善である…というのも、理論(というか話というか)としてはわかるけど、まだ何かに引っ掛かっている…気が…
引っ掛かり…過ぎ?
(2012 05/11)

ヴェーバー名文劇場…

プロ倫をようやく読み終えた。では、たまんない名文を一つ。長いけど。

 ピュウリタンは天職人たらんと欲したーわれわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人ー直接経済的営利にたずさわる人々だけでなくーの生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう。 
(p364-365)


注意したいのは、ここで「力を貸す」となっているところ。ヴェーバーも訳者の大塚氏も決してプロテスタンティズムの倫理だけが、近代資本主義を造り出した要因である、としているわけではない。他にもいろいろ・・・(略(笑))・・・あと、ヴェーバー説のユニークなところは、「資本主義の精神」は経営者側だけでないく、労働者側にも存在し、また存在しなければ近代資本主義は成立しなかった、としているところ(引用文のちょい前のところで)。この辺はフーコーとも関わる部分だなあ。 

あ、たまんない名文、アンコール(笑)。

 将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活がおこるのか、それともーそのどちらでもなくてー一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階まですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。 
(p366)


たぶん、選択肢のうち、前二者はすでにヴェーバー自体が諦めていることでしょう。たぶん・・・となると、末人か・・・自分も、末人。登ってみたら階段なくなってた・・・ 
(「」で囲まれている部分は、何かの(聖書とかの)引用なんでしょうか?) 

この名文たち、どこに貼り出しておく?(笑)。 

あ、そいえば、このログの冒頭に挙げた、前読んでた「異端者たちの中世ヨーロッパ」のワルド派小集団との関わりの件。うむ、ウェーバーがこだわる教会と信団(キリへとゼクテ)のところとか、中世修道士の世俗外禁欲とか、その辺りかな、関わりは・・・
(2012 05/13)

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