「カバコフとボルタンスキー」 2022越後妻有大地の芸術祭-2
今回は、2022年6月18、19日に行った妻有大地の芸術祭で見た、イリヤ・カバコフとクリスチャン・ボルタンスキーについて。現地に置いてあった書籍を、帰ってから改めて図書館で借りて、ぱらぱらめくって、目についたところを思うままに書いてみる。
イリヤ・カバコフ
「イリヤ・カバコフの芸術」沼野充義編 五柳叢書 五柳書院 から
この後、このユートピアはセイレンの歌声のようだ、とも述べている。
この文章が掲載されているのは、ヴェネツィアビエンナーレ(1993)をめぐる、ボリス・グロイスとの「対話」。妻有大地の芸術祭で見た「プロジェクト宮殿」などは、そういうユートピアを我々の「鼻先」に括り付けるままにしておくように、決してそれに手をつけないようにするための訓練なのかもしれない。
もうちょっと読もう。
示唆に富むのと同時に難解なところであるが、日本のカバコフ受容の多く(もちろん自分を含めて)は、皮肉が込められていないカバコフをそのまま受け取り、その前の「世界をモデル化しようとする試みへの批判」というたぶん孤独な戦いであった部分を読み落としているのではないか、と感じた。
しかし、そうしたカバコフに変化があったのか。あったとすればなぜなのか。上にカバコフの返答もあげたが、こうした移行であるならば常に起こっているのではないだろうか。システムの自己修復性という観点は興味深いが。
その他、現地にあった書籍
「イリヤ・カバコフ自伝 60年代―70年代、非公式の芸術」鴻英良 訳 みすず書房
「プロジェクト宮殿」鴻野わか菜・古賀義顕 訳 国書刊行会
「ユートピア文学論」沼野充義 作品社
「熱狂とユーフォリア」亀山郁夫 平凡社
(以上2冊は舞台作品の美術をカバコフが担当したという関わり)
クリスチャン・ボルタンスキー
「クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生」クリスティアン・ボルタンスキー、カトリーヌ・グルニエ 佐藤京子 訳 水声社 から
聞き手はキューレーターでもあるカトリーヌ・グルニエ。
物語を大切にするというボルタンスキー。物語をそのまま保存するというのではなく、そのきっかけ、分岐の無限性に賭けているのだろう。
(p303で語られている、日本へ初めて行ってテレビ番組に出演したというのは「11PM」?)
現地で見た「最後の教室」についての本人のコメント。ボルタンスキーは、軽い印象の作品と重い印象の作品を交互に作ることが多いという。この「夏の旅」と「最後の教室」という同じ廃校を取り上げた作品対もその一例。あと、このようなインスタレーションの場合、作品をめぐる状況や環境など、一見外部要因に見えるものも作品は意欲的に自身に取り込んでいく、という点も面白かった。
また、物語に戻ってきた。世界の果ては自身の何かを開くなのかも。
ひょっとしたら、自分が「最後の教室」を見ていた時に感じていたのは、ちょっと重い見方だったのかもしれない。こうした作者の言葉を聞いてまた現地を訪れると、また違ったふうに作品を感じられるのかもしれない。それは「作者の意図」だから重要だということではなく、その体験が自分自身の「物語」の次の展開につながっていくことへの期待となるから…
p303からの「日本のこと」は、聞き手が訳者の佐藤京子自身。それから、この本のタイトルは1968年のボルタンスキー初の個展「クリスチャン・ボルタンスキーの不可能な人生」をもじってつけられた。
その他、現地にあった書籍
「クリスチャン・ボルタンスキー 死者のモニュメント」湯沢英彦 水声社
(この本から、現地で見つけたこんな箇所を(チラ見しただけなので、ディテール違うかも)
世界中の電話帳から極めて多くの名前を集めてアーカイブにするという作品がある。この本の著書湯沢氏は、この試みは、アーカイブを破綻させること自体が目的なのではないか、と思い作者に尋ねてみる。と、返ってきた答えが「いや、単にいろいろな名前を見てるのが好きなだけだよ…」)
(2022 07/02)
関連書籍
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?