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「グランド・ブルテーシュ奇譚」 オノレ・ド・バルザック

宮下志朗 訳  光文社古典新訳文庫  光文社


小説は自らを語り越える…


昨夜はバルザックの古典新訳文庫の標題作(グランド・ブルテーシュ奇譚)を読んだ。妻の浮気相手のスペイン人が小部屋というか隙間にいるのを知った夫がそこを完全密封する、という話だが、その中で2、3度「まるで小説のような」とかいう語り手の言葉が出てくる。
最後のなどはこの小説世界を飛び出しそうな(あとで余裕あったら引用しときたいけど)感じ。でも、小説というジャンルは語るという性質上、始めからそういう胚を孕んでいるのではないか。そう考えてみた。

 最高の物語というのは、全員が食卓についているときのような、特定の時間に語られるものなのである。 
(p43) 


ひょっとしたら、昨夜引用したいなあと思ったのとはなんとなく違う気もするのだが… 
でも、この文もセルバンテスの語りから現代小説まで、家族の小規模化や成員のフレキシブル性に伴って、小説のあり方も変わってくる、ということを連想させる。 
(2013 06/19)

死ぬなら外で?


日曜に買ったバルザック短編集から「ことづて」を昨夜読んだ…って最近はことづてという言葉自体あんまり使わないかな?

語り手と馬車の旅で仲良くなってお互いの年上(って、バルザックは年増女性がお好みだったみたい)の恋人の話で盛り上がっていたその時、馬車が事故る(って表現も変?)。この仲良くなった相手が亡くなってしまい、最後に語り手に恋人(当然?、夫持ちだ…)にことづてを頼まれる…という筋。
その夫妻のところではデリケートながら終始穏やかに終わる…のだが、考えてみれば、この状況は前の「グランド…」と全く同じではないか。

元々は大きな枠物語の中の作品群にしようかとバルザックは考えていたようなので、これら2つの作品に変奏などの関連を持たせたと思われる。まあ、この旅での友人さんが死なずにいたら、きっと閉じ込められていたはず(そいえば、夫の描き方も共通点あるし)…
(2013 06/21)

カーネは本当にイタリア人なのか?


夜チビチビ読んでいるバルザック短編集から、昨夜は「ファチアーノ・カーネ」を。バルザックとしては長いというべきか、それともバルザックらしいというべきか、まだバルザックをそれほど読んでない自分にはわからないが、とにかくバルザック本人っぽい語り手が町中の人々を観察する…というかしてしまうというべきか…マエフリが長いのか。
ここは訳者宮下氏がボードレールを先取りしていると述べているところ。

 そういうときは彼らの願望や欲求など、すべてがわたしの心のなかに入ってきた。あるいは、わたしの心が彼らのなかに入りこんでいくのだった。それは目覚めている人間が見る夢にも等しかった。
(p93)


で、本筋は語り手が庶民の知り合いの結婚式で見かけたクラリネット奏者の語るルパン三世なみの脱獄と盗みの物語。でも中世イタリアの名家の末裔らしい…この男の幻視(金(かねじゃない方)のありどころがすぐわかる)等が、バルザックの人間喜劇の中の2つの世界を結ぶリンクになっているらしい、と解説にはあった…
でも、自分にはなんかこの男の語ること全て妄想でそもそもイタリア人でもないような気しかしないけどなあ…そうなると、「夜のみだらな鳥」や「脱皮」にも近くなるんだけど…

「グランド・ブルテーシュ奇譚」読了報告


今夜は「マダム・フィルミアーニ」。これも前の日記で、バルザックはマエフリが長いかどうか?という話題を出したのだが…どうやら元々長いらしい…この作品など、半分はマエフリ。そのマエフリの部分から。

 われわれはだれもが石版画の原版のごとき存在にほかならず、その無数の複製が悪口によって刷られていくのだ。
(p145)


なんだか20世紀を先取りしたような、例えばピランデッロの短編みたいな、そんな文であり、そんな作品。表向きの筋はハッピーエンドなんだけど(ちなみにこの甥っ子の精神力はセザール・ビロトー思い出させる)、ここまでマエフリしておいて全く腑に落ちない。狐につまされたような読後感…変な作品…

あとは書籍商の現状についての評論とバルザック年表。バルザック年表見てると、自分の経験や観察を作品に活かしているのはもとより、自分の作品に書いたことを後で自分が追体験している感がある。ベネチア行ったり、馬車から落ちたり…
まあ、こういう言い方も定式化し過ぎてるかもしれないけど、自らが人間喜劇を生きた人生だったのだなあ…
今年はバルザックイヤー(にする?)
(2013 06/23)

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