見出し画像

「知覚の哲学 ラジオ講演1948年」 モーリス・メルロ=ポンティ

ステファニ・メナセ 編  菅野盾樹 訳  ちくま学芸文庫 筑摩書房


メルロ=ポンティによるラジオ講演(1948年10‐11月)の書籍化。ちくま学芸文庫では、「メルロ=ポンティ コレクション」は持っている(これも拾い読みで終わっている)が、「心身の合一」というのも出ている。これは、この講演でも触れられているマールブランシュとそれからビラン、ベルクソンを絡めて論じたもの(筑摩書房のサイトから)…刊行2007年なので古本で探すか…

仙台ジュンク堂で2冊購入。
平凡社ライブラリー「大森荘蔵セレクション」
メルロ=ポンティ「知覚の哲学」
(2017 06/04)

何故か第3章「感知される事物」と第1章の注から


まず第3章の講演部分から

 私たちの経験には、実際もし私たちの身体の部位からそれらの性質が誘発する反作用を除外してしまうと、その経験がほとんど何の意味も持たなくなるような性質がたくさんあります。
(p137)


性質とは外界の事物のもののこと。若干控えめな記述になっているけど、これはすべての経験がそうであろう。

 蜂蜜はねばねばしていると言うことと、それが甘いと言うこととは、同じことを言う二つの異なるやり方なのです。
(p138)
 精神分析学者の言い方にならえば事物とはコンプレックスなのです。
(p140〜141)


メルロ=ポンティはサルトルやセザンヌ、ポンジュ、バシュラールらを挙げて事物の全体性をここで語っている。

さて、戻って?後回しにしてきた本文の数倍ある訳者注を見ていく。まだ第1章のところも終わってないが。
ここではデカルト、フッサール、メルロ=ポンティの三角関係??が複雑な差異を持って解説されている。一番最初にフッサールの解説書読んで感じた「フッサールってデカルトの二番煎じじゃないか?」という疑問は、フッサール自身、また後の研究者からすれば「フッサールはデカルトの20世紀的継承者である」ということになるらしい。
そのフッサール(特に後期)の遺構をナチスから守りベルギーで保存、解読したメルロ=ポンティにとってフッサールはどうしても超えなければいけない相手でもあった(「見えるものと見えないもの」)。

 対象についての個別的な直感からスタートしながら、これを自由に変容させて得られる多様な像を重ねてゆくなら、その多様性のただなかにつねに変わらぬ一つの項が見いだせるだろう。これが対象の本質にほかならない。
(p43)


ここはデカルトと現象学の共通点。この第1章で行われているメルロ=ポンティのデカルト「省察」批判では、デカルト認識論の重要キーワードである「延長」という言葉が使われず、逆に使用されていない「力」という言葉が使われているというのだが、そこの説明が(「省察」読んでいないから当たり前だが・・・)いまいちわからなかった。メルロ=ポンティは自身の読みに踏み込み過ぎたというわけか?
(2017 08/06)

「知覚の哲学」第2章注から


まずは「転調」について

 いまは、一般的にいって、この種の保存則がいつでも成り立つとはかぎらない点を確認しておきたい。ある存在者に対して転調が遂行された結果〈カテゴリーの転換〉がもたらされ、最初のとは種類の異なる存在者が生成することもある。
(p107)


音楽のみならず、絵画や実際の物の輪郭や、存在者の行動なども「転調」の結果現れたもの、という。転調は同一の曲(など)内での、出てくるパターン(例えば音列)の変化。ただそれが「同一の曲」だともはや感じられなくなる場合もあるというわけだ。ただ、自分的には、ここでの〈カテゴリーの転換〉というのは、p113で挙げられている「変身」というメルロ=ポンティの別の概念そのものなのではないか、と思うのだけど。

 知覚とは基本的に探索運動であって、この事実が視点と視線のこの動きを規定しているのだ。知覚とは単に見ることではない。それは対象が何かを探りながら見る構成的認識である
(p118)


遠近法が「捨てた」とされる知覚の働きが取り上げられている。この為、遠近法で描かれた絵画は時に超現実的なよそよそしさを与え、これが却ってシュルレアリスムの絵画に遠近法が取り入れられることともなる。

さいごは「機会原因説」のマールブランシュとの「対話」。マールブランシュ(1638〜1715)はデカルトの心身二元論の為にできた心身の断絶を「全てを神において見る」と神によって埋めようとした。注目した観点においてはマールブランシュはメルロ=ポンティと共通するものを持つ。

 彼(マールブランシュ)によれば、人間にはその機構を説明できないものの、それにしたがって事物を認識する判断の働きが自然にそなわっているという。
(p129)


ただし、マールブランシュはその働きを「自然幾何学」としてアプリオリにそなえているとした。それに対しメルロはベルクソンの言葉を借りて反駁する。

 知覚の基礎のうえにつくられた科学的機序をまえもって知覚のなかにあるように思いこむのは「回顧的錯覚」にすぎない。
(p130)


近くの哲学・・・
(2017 08/13)

部屋とジャムと私


「知覚の哲学」第3章からメルロとサルトル。

 彼(メルロ=ポンティ)は意識が存在の穴(または裂け目)だというサルトルの向うをはって、それが存在の窪みあるいは襞だという。
(p171)(()内はこっちで補足したところ)
 わたしが手の上に感知する、このねばねばしたものの吸引は、わたし自身に対するねばねばした実体の連続性を表している。わたしはねばねばしたもののなかにわたしを喪失し、流れ込んでゆく。それは、わたしを共犯者に仕立て上げながら、わたしの個体性を蝕むのだ。
(「存在と無」p703)
(p187)


ジャムのなかへと私が流れ込んでしまう(ような気がする)ために、手の上のジャムが不快なのだという。この感覚はわからなくもない。メルロもサルトルもこの自己の境界の不確定性について多く言及してきた。
(2017 08/15)

ソシュールを越えて?
昨夜読んだ「知覚の哲学」第3章。言語記号と言語内容の結び付きの恣意性のソシュールに対し、メルロ=ポンティは全くの恣意性ではないとする。言語は身振りなどと同じ身体表現だから、身体=環境の相互作用は事物とは無関係には存在しえない、と。 
(2017 08/29)

「知覚の哲学」第5章


今回は特に他者の認識について。彼は人類を社会を実在のものとして(唯名論ではなく)捉えるが、予定調和的な考えも退ける。あくまでも身体とともに、他者を含めた「世界内存在」として捉える。ここのところは「盟友」サルトルとは決定的に異なる。 

 他者との最初のかかわりではないような「内的」生活もありません。身体ならびに個人的かつ集合的歴史を有するせいで、私たちが投げ込まれているこうした曖昧な情況に絶対的休息は見つかりません。 
(p305) 


あとヴォルテールの「ミクロメガス」というのも面白そう。世界初のSF? シリウス星人なるものと地球人とのコンタクト? 国書刊行会(らしい!)で出ているそうだけど・・・ 
(2017 09/03)

「知覚の哲学」第6章、画家と詩について


 画家は世界が生まれるその瞬間に立ち会ってそれを絵にすると言われている。この意味で画家は世界開闢の目撃証人と言えるだろう。 
(p352) 
 〈詩〉については、〈詩がある〉というより〈詩をなす〉というのが正しいのではなかろうか 
(p365) 


前者は複数の視点からの見え方を組み入れて新たな画面を製作したセザンヌの、後者は「純粋詩」なるものを提唱したマラルメやヴァレリーの、注の言及から。後者はメルロ=ポンティの「言語はしぐさである」という言語論とつながる。詩とは行動である… 
(2017 09/04)

「知覚の哲学」とりあえず最後まで


というわけで「知覚の哲学」読み終えた。現象学は理論や体系というより運動であり、世界が生成するその刹那を見ていくものということが最後に書いてあった。よく取り上げられていたセザンヌ始め、バルザックやダ・ヴィンチ、それから自身の哲学まで「未完成」の完成を目指していたという。 

解説の菅野氏によるとこの本の主題を一言で言うと「存在論的転回」らしい。彼の後期の哲学の種子は既にこの講演の中に撒かれている。 
でも53歳…早過ぎる死である… 
…これで「知覚の現象学」いける? 
(2017 09/05)

いいなと思ったら応援しよう!