「聖なる天蓋 神聖世界の社会学」 ピーター・バーガー
薗田稔 訳 ちくま学芸文庫 筑摩書房
バーガーとルックマン
訳者はバーガーの「異端の時代」も翻訳(「聖なる天蓋」の方が先)。
バーガーとルックマンは同じシュッツの影響での宗教社会学を展開しているが、ルックマンは現代社会でも「宗教的事例」は様々に展開しているとするのに対し、バーガーはユダヤ教以来の聖俗分離で分かれた俗の部分が聖の部分を駆逐?したが、俗の部分が担保しない限界状況?のため、現代社会は不安に貶められている、という。訳者はどちらの見解に立つかまだ決めかねていると。その為にはシュッツまで立ち戻らなくてはならないと。
バーガーの「社会学入門」もある。
(2020 02/17)
外材化・客体化・内在化
まあ、そこで登場したのが宗教だ、という運びになるのかな。
外在化(人間が世界に向けて流出、行動する)、客体化(人間が作った世界があたかも元々あったかのように見える)、内在化(それをもう一度個人の内に取り込む)…社会の基本的な弁証法的過程の三つの契機
(2020 03/06)
(2020 03/08)
時間経ったので、もう一度…
社会の形成
外在化…人間存在がその物心両面の活動によって世界にたえず流れ出す。
客体化…人間が活動することにより、流れ出たものが、その人間の外部に「現実」として立ち現れる。
内在化…同じ人間による現実の再専有。内的意識に取り込み変容させる。
自己が外部に流れ出るという発想が興味深いと思う。それは他の動物のように生まれてからすぐ自分の世界が確立しているわけではなく、自分自身の営みにおいて作り上げていく、というところからきている、とバーガーは言う。
(2022 08/26)
とても気になるテーマ。そしてそうした体験は、何も特別なことをしなくても、身の回り近くに満ち溢れているのではないだろうか。
ノモスとアノミー、コスモスとカオスとの対立構造はさておき?後半のイメージの鮮やかさに惹かれる。バーガーは文学的素養もあるのでは…
〈同性愛のパニック〉って何?
とにかくこの辺り、非常に文学的なテーマと絡み合っている。
それが現代では人間存在に寄り添った〈科学〉となりやすい。いずれにせよ、こうして形成された秩序が宇宙に〈投射〉される(投射はフォイエルバッハからマルクス、ニーチェへと受け継がれた概念)。
「コスモス化」はエリアーデの概念。
置き去りにされた2つの問い
神聖の現れの共通形態が、文化伝播か人間に共通する宗教的想像力の内的論理からか(p52)
現代科学は神聖を取り除き、徹底的世俗によるコスモス化だという。そこから…
本当に「差し支えない」のか?
とりあえず、以前読んだ第1章までは終了。今度こそ先読み進みようね。
(2022 09/11)
正当化
第2章のテーマは正当化。これはある社会が社会構成員に対して提示する「この社会ではこれこれを守って、こんなふうに生きてね」というものが含まれる総体。特にバーガーは、理論化を求める人々だけでなく、庶民レベルでの正当化を強調している。そこで最も効果的なのが宗教なのだという。
これは(「発展段階」とまでは言えないとも思うけど)先の庶民レベルに対してのわかりやすさをも持ち合わせる。宇宙と同じことがこの家庭内でも言える、とあれば父親の威厳はそれだけで説明つく。そうして神聖な役割を受託した父親は、またその構図を宇宙空間に反射させて見る。
フロイトのいう「喪の仕事」、喪にふくすことによって個人的な感情を宗教的に回収し日常生活に戻すのを入口とすれば、ここの「想起させるものの制度」の宗教儀礼はそうした感情の出口となるのだろう。
十字架上のキリスト像とか、アリー及び仲間の死を忘れないためのシーア派の儀礼祭など、そういう「想起させるもの」にはさすがに事欠かない。
(2022 09/30)
夢、狂気、そして最大なるものは死への直面。「エクスタシー」の文字通りの意味は「平常通りに規定されたままの現実の外に立つ」ということらしい。
こうした仕組みをバーガーは〈社会工学〉と呼ぶ。
こうした〈社会工学〉の例はp90で挙げられている。中世にこうした異端の興隆と弾圧が起こるのは、人間の流動性が増し、他の宗教集団との接触が増したことによる。それが原因で弾圧する社会が結果であり、その逆ではない。またp92には、安定した宗教社会から外に出る個人の視点が書かれているが、これも接触が増加する流れに乗って起こってくる事象。
社会理論的には、バーガーがデュルケームの宗教社会学の弱点を、社会全体を覆わず下位構造の宗教社会が競い合っているような実態を解釈しにくい、と指摘している点が興味深い。
本のタイトル「聖なる天蓋」は、夢、及びそこから覚めていく個人を上から見守るベッドの天蓋、そしてそれに擬せられた宗教を示唆しているのだろうか。
これで第2章読み終わり。
(2022 10/02)
第3章「神義論と被虐愛」
まずは神義論。これは、宗教による不条理現象の説明。バーガーはこの神義論の多くをウェーバーによっていると注で述べているが、そのウェーバーによると、神義論の類型はp98の注にある「現世における代償の約束」「来世における代償の約束」「二元論」「業の教理」の四つになるという。
バーガーの数直線理論?は後ほど(今読みかけているところ)出てくるが、このウェーバーの方はなんとなく字面でわかるような…「二元論」とはマニ教とかよく出てくる、善の世界と悪の世界の戦い的な世界観、「業の教理」というのは「まあ世の中こんなものだから我慢しなさい」とか「お前は前世でこんな悪い行いしてたから仕方ない」とか説明になっていないもの…って、勝手に空想するのは楽しいけれど、あってるのかな?
ノモスは(繰り返しだけど)規範秩序、そして天蓋(キャノピー)、タイトルの「聖なる天蓋」(The Sacred Canopy)。まずは個人の上にあって守ってくれるものという意味で使われたが、(たぶん)この後も別の意で使われそうな予感。
ところが?次に出てきて第3章の章題にもなっている「被虐愛」…と書かれると難しそうに響く(言いにくいし(笑))が、これは「マゾヒズム」のこと。突然なんなのかとも思うが、絶対的神を加虐愛者として崇拝する被虐的愛、これが宗教だと言われると、無神論的感覚の自分としても「これ、大丈夫なのか?」と心配になってくる。ここでいうマゾヒズムはサルトルの「存在と無」で展開されているものを持ってきたらしく、精神分析的意味ではなく、「自己物象化の特殊形態として理解して差し支えない」(p102)…差し支えある(笑)全然理解できない…とも、言ってられないので、うっすらとした理解で先進むことにする。とりあえず「存在と無」が読みたくなった。
こういう説明聞くと、ますますもって、ここでのマゾヒズムから精神分析的解釈を除外する必要性が無い気もするのだが。それはともかく、この本の特徴の一つは、厳密に書かれて理解しにくい文章のあとでこういう鮮やかな比喩や具体例が出てくる、というところ。
乗っていた列車が緊急停止した時、何があったのかを知りたくなり、わかると(事態は止まったままなのに)安心するように、人間とはいかに因果の鎖の中にいると安心する動物なのであろうか。だから宗教も幸福という利益を提供するよりも、徐々に意味のみを差し出すものになっていく。
この予告、とても気になるので先読みしたくなる。社会上で分裂し変革が起こる、という原因がここにある、という。
で、先程書いたバーガー流神義論の類型分類-数直線上プロット技法が登場し、今はその端に社会構成員がほぼ同一化を果たした社会についての記述のところまで。
長くなったけれど、まだ第3章半分も終わっていない…
(2022 10/03)
一応、第3章読み終えたけれど、破壊的な眠さなのでここでは少しだけ。上のバーガーの数直線の一方の端が、小宇宙/大宇宙の連綿と続く子孫へのつながりだとすれば、今日出てきたもう一方の端は、インドのウパニシャッド哲学や原始仏教(パーリ語経典系)の因果鎖とつながりを切られた個人というもの。その間にウェーバーの四類型のいろいろ(現世利益(千年王国など)、来世利益、二元論などが入る。
(2022 10/04)
第4章「宗教と疎外」
この本冒頭の章で、外在化→客観化→内在化という動きで、人間は社会世界を構築するということを見た。ところがそうしたことに気づかず、外の世界と、内在化した自己内の他者を、全く関わりのない「他者」としか認識できない場合もあって、これが「疎外」と言われるもの。
疎外→統合の弁証法という順であって、その逆ではないということ。
またなかなか常識に反したこと言っている…宗教は疎外を執行する…とか。疎外と規範喪失(アノミー)は異なる。前に見たように、宗教は規範喪失から身を守るためにある…その発動が疎外を産む。宗教は他者性のもので、多くの宗教体験が全くの他者としての啓示を語るが、それら他者だと思われたものは実は自己の「投射」(これはフォイエルバッハの概念)なのだという。
(2022 10/05)
一箇所だけ、昨日の続き。宗教を疎外と同一視しないこと、これがマルクスらの主張との違いを出しているところである、とバーガーは言う。
(2022 10/06)
第4章読み終わりで第1部終了(昨日)。
宗教は個人に対しその社会内部に疑問や反抗を持たせないようにするために、個人と社会との弁証法的構造から目を逸らせようとする。これが疎外。一方、脱疎外は逆方向に導く。宗教という一因子が固定された一つの機能しか持たないという単純モデルでは、社会のダイナミクスは認識できない。
(2022 10/08)
第2部「宗教と歴史」の第5章「世俗化の過程」
まずはヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に沿うところから始まり、そしてその「世俗化」の源泉としてのユダヤ教に着目する。これはヴェーバーでいうと「古代ユダヤ教」にあたる。
小宇宙/大宇宙の図式からの脱却。
「外側」というのが重要(強調点もついている)。ヤーヴェという神は土着の神ではなくイスラエル人と契約した『機動的な〉神で、それは契約の箱の持ち運び可能な性格によく現れている、という。この辺り、本村氏の「一神教と多神教」も読み返したいところ(ひょっとして種本?)。
こちらは宗教史的な関心というより、テキスト論的関心。他の要素を取り込む時、そこがどう変容し、オリジナルの箇所とどう調和(あるいは不調和)するのか。こうした古代テクストから落語の噺の変化に至るまで自分の興味をひくところ(だからといってこういうテーマの文献が思いつかないのだけど)…本題に戻って、ここでは創世記の天地創造における、(元の)メソポタミア神話との「カオス」の概念の変化。前者は華麗、後者は孤独。
一方、キリスト教は、こうしたユダヤ教の世俗化のモチーフからの「退行」を示しているという。超越化、合理化の二つの側面においては、カトリシズムとギリシア正教はその住民たちに逃げ道を与え、いわば古代エジプト・メソポタミアへの回帰とも言える傾向がある。ところが、歴史化のモチーフについては、キリスト教はこれを温存したのだ、という。
この種子が芽吹いたのが宗教改革でありプロテスタントである、という流れ。これに加えて、カトリックには教会制度という宗教機能に特化した建物という(唯一ではないが、結構珍しい事象なのだという)特色があり、これが聖と俗を分け世俗化の空間を作り出すのに機能したという。
次章は、非宗教化によりノモスから切り離されアノミーに直面する一般庶民の話らしい…
(2022 10/09)
第6章「信憑性の問題」
近代資本主義経済が発達していくにしたがい、宗教領域は二極化(経済社会の中心は合理化が一番進み、国家と家庭という社会の端に追いやられる)が進む。国家では、宗教はイデオロギー的に残るしかなかった。家庭では…
その特別保護区の宗教(的なもの)は、果たして神聖さを欠いた嗜好的なものにも適用されるのか否か。ここバーガーとルックマンで見解違うところでしたっけ?
あと、2ページ先で、こうした私的宗教性は共同体による力に欠けているため脆弱で、宗教性の対象が次の別なものに変わっていきやすい、という指摘がされている。
(2022 10/10)
アメリカに始まる各宗派の並立という多元的状況。競争相手は宗教だけでなく、「革命」とか「ナショナリズム」とか「性の解放」とかのイデオロギーも含まれる。こうして全体から見ると市場化が進む一方、各宗派内部では官僚制が進む。その結果、宗派ごとの傾向が似てくる。そのため売り込むためには宗教的伝統をイメージ広告に変容して差別化しなくてはならない。あとは、宗教各派がカルテルを組んで寡占状況を作る(完全に統一「独占」ということはない)とか、ますます経済的社会とのアナロジーが進んでいく。
(2022 10/11)
まず第6章残り。
例えばフロイトの無意識の発見は、発見ではなく結果だということ、時代変化によって宗教がになってきた分野が個人の心理的領域に移ってきたことが、フロイトに確認された、という立場。ギンズブルグがいう徴候的読解もその別側面。自分としては惹かれる考え方ではある。この立場が現時点でどのくらいの賛同を得ているのか、反論はどのようなものか、まだ自分はわからないけれど…
第7章「正当化の問題」
19世紀プロテスタント自由主義(フリードリッヒ・シュライエルマッヘル)世俗思想の取り入れと駆け引き
→キェルケゴール→カール・バルト新正統派神学…キリスト教の本質は個人を超えたもの(自由主義の反動)
→ルドルフ・ブルトマン、パウル・ティリッヒ、ジョン・ロビンソン…新自由主義(政治的なものとは無関係)、新正統派神学への反動
先のp263の文章と被っている。宇宙から個人意識なら、もともと個人意識だった幾ばくかは、宇宙へと放射されたのだろうか。
今日で本編は終わり。あとは補遺とあとがき。
(2022 10/12)
補遺と訳者あとがき
「社会学における宗教の定義」では、盟友ルックマンの「本来的に人間的なものはすべてそれ自体で宗教的」(p300)という説には懐疑的。
「社会学と神学」では、〈宗教〉と〈キリスト教信仰〉を分断して前者だけを社会学(等)の対象にしようとする、新正統派神学寄りの分析を前の著書ではしていたが、今ではそうした分断は不要で前者後者どちらにも社会学(等)のアプローチをすべきだという。
(2022 10/13)
昨夜寝る前に最後まで読み切る。
訳者あとがきでは、訳者薗田稔氏の関心に沿って書かれる。バーガーとルックマンの違いと、そこで薗田氏自身の立場については、一昨年2月に読んだ時に書いている。
薗田氏は主に日本の祭りを主要テーマにしている。日本の祭りは聖と俗、ノモスとカオスの分離ではなく、それが交代で現れることによる再生の場でもあるのだ、という。
(2022 10/14)