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「ベルリン・アレクサンダー広場」 アルフレート・デーブリーン

早崎守俊 訳  河出書房新社


罰が始まる

物語は主人公が刑期を終え刑務所を出るところから始まるのだが…

 罰が始まる。
(p12)


といきなりあって、ベルリンの喧騒真っ只中に読者もろとも連れ込まれてしまう…という構造になっているみたい。
(2012 09/09)

罰と詐欺師


今日から「ベルリン・アレクサンダー広場」を開始。これまたかなりの大作。
昨年これを購入した時に書いたが、物語はある男が刑務所を出るところから始まる。その男にとっては街に出ていく方が「罰」。その他、家の屋根が崩れ落ちるのでは、という恐れも抱いていて、そういう精神状態の症状ってあったような。
で、そういう男の前にこの長編で最初に現れたのが、謎?のユダヤ人。彼は男にあるアルバニア出身の詐欺師っぽい男の話(これなどマンの「フェリックス・クルル」思い出す)をするのだが、要するに「自分の歩いていく道は、周りの人達が(当人達はつゆ知らず)作っているので、注意深くそれを見つけて歩いて行け」と言いたいらしい。
罰と詐欺師、この二つの異なるベクトルがどうなっていくのか、それがこれからの読みどころ…ですかね。
(2013 02/07)

歌と広告と乗降方法その他


「ベルリン・アレクサンダー広場」2日目。第2巻の最初にとっかかったところ。この小説の一つの特徴として、なんかの当時流行っていたような歌や、かかっていたレコードのリズムだけの描写、なんかの広告、それからベルリンの市電の乗降方法説明など、雑多なものの唐突な記述。この小説と並び称されるジョイス「ユリシーズ」とも共通する部分で、2つとも都市小説と言われる所以でもある。登場人物の意識に引っ掛かった何物か、という意味合いもあるだろう。
で、一方「ユリシーズ」と異なるのは時代設定。「ユリシーズ」は出版時から20年くらい遡った、しかしその間にはヨーロッパを精神的にも変えた第一次世界大戦がある。一方「ベルリン・アレクサンダー広場」はほぼ出版時と同時代に第一次世界大戦後に設定している。世界大戦後という意味ではウルフ「ダロウェイ夫人」と同じだけど、「ダロウェイ夫人」では世界大戦後ということが重要で、「ベルリン・アレクサンダー広場」では同時代(あるいは、未来への不安)ということが重要な気がする。
(2013 02/08)

上へ、または下へ

ビーバーコフ(一応主人公…)が繊維商になっての口上がなかなか楽しい。

 煙というものは、あまりにも充満しすぎると、その軽さのために上のほうへ上の方へと逃げようとする。・・・(中略)・・・煙には自分の状態がどうなのかがわからない、頭をかかえ込もうとするがそんなものはない、考えたくともそれができない。
(p85ー86)


この部分、なかなか面白いけど、なんかこの時代の一般大衆のことを言っているような、いないような。
(2013 02/12)

どうやらナチス側に退役軍人の勧めでついたらしいビーバーコフは、居酒屋仲間のインターナショナル仲間と喧嘩になる・・・というところ辺りまで。
(2013 02/16)

「ベルリン・アレクサンダー広場」は第3巻。小説というより劇のト書きの集積という気もしてきた。

 しかし、それは色もなく漠としてうつろなひろがり、そのなかへかれの足もずるずるとすべりこむ、やがてかれはどぼりと落ちこんで、左のほうにねじれる、そして下のほうへ、どんどんと下へ。
(p126)


これはビーバーコフの居眠りの描写なのだが、以前読んだところで煙が上に行くという表現があったが、今度は下。
(2013 02/19)

追い立てられる家畜たち

「ベルリン・アレクサンダー広場」。第4巻冒頭。通りの看板や貼り紙から始まって、とあるビルの住人を下から上へ。そして、そのビルの中に住む酒浸りのビーバーコフ…と流れていく。都市の重層性。
(2013 02/20)

今朝の「ベルリン・アレクサンダー広場」はなんだかよくわからないけれどビーバーコフからいっとき離れて、家畜組合の建物を見て回る。そこに何度もそれこそ執拗に描かれるのは追い立てられる家畜。豚や牛。本筋となんらかのアレゴリーがあるとは思うけど、それが何なのかは今の自分にはわからない。
(2013 02/21)

家畜の後は泥棒へ…
(2013 02/22)

僧は敲く、アレクサンダー広場


「ベルリン・アレクサンダー広場」は第4巻から第5巻へ。第4巻の建物の垂直方向から、第5巻の広場の水平方向へ、といったところだろうか? そいえば、この小説の主人公はビーバーコフではなくて、アレクサンダー広場そのものだったはず。
この第5巻冒頭でこれまた執拗に繰り返されるのは、アレクサンダー広場での地下鉄工事の鉄鎚。たたく、たたく、たたく。第4巻の家畜描写が何かの暗示であったように、こちらも何かの暗示なのだろうか(なんの説明にもなってない気が…)
(2013 02/23)

今日は(というか昨日から)少女売買?(というか入れ替え)の仕事?の場面…の中に突然「ローカルニュース」など入ったりして。なんかテレビ局かラジオ局? そこから本筋に戻る語り手(というかナレーター?)の口調もいろいろで…ますますわけわからなくなってきた…
(2013 02/26)

後退する教養小説


タイトルは「ベルリン・アレクサンダー広場」の解説で訳者早崎氏が作品を評して使った言葉。

で、本文は無理やり盗賊一味に連れ込まれて、前に女のことでからかった男に気絶するまで殴られ打ち捨てられる、という第5巻の結末。でも、朝は来る…

 多くの零のついたおそろしい数のなかにあっては、それは錯誤であり、誤謬てしかないのだ。
(p244)


おそろしい数の代表は、太陽であったり世界の進行であったりするのだが、それにも関わらずデーブリーンは錯誤であり誤謬であるものを愛でたいとしているのは確かだろう。今、夜明けの時、ビーバーコフは倒れている。
(2013 03/01)

空気と気配の文学


「ベルリン・アレクサンダー広場」より第6巻。

 まわりの壁はぶちこわされ、別の空気が、暗やみが流れこんできた。かれらはまだフランツのベッドのそばにすわっているのだ。
(p262)


本当はかれら(昔のフランツの仲間であるヴィショウ達)は、フランツの部屋の下の居酒屋にいるのだけど。で、この暗やみの空気の正体は大鎌を研いでいる死神なのだという。死についての深い洞察・・・ではなく、何かの地口か流行り歌みたいなのが絶え間もなく入ってくる。
次は、またしても?こんな文章。

 そんな気配、そんな気配そんな気配なのだ。なにかばかげたことが起こりそうな気配である、なにか催眠的なことがやがて起こりそうな気配である、そんな気配なのだ、そんな気配なのだ、しかもそんな気配からそれ以上なにも出てきはしない。
(p272)


ペーストの連打失敗ではない(笑)。解説で早崎氏はこの小説が現代にあまりにも近いことに読者は驚くであろう、と言っていたけど、自分ならその証拠をここからあげたい。まさに、今の気配、今の空気。この文の後に、また市電の注意事項が出てきてこの節は終わる。注意事項も置かれた位置により読み方も変わる。確実に危険は迫っている、注意!
(2013 03/03)

ワイマール共和国の空気


この小説読んでいるとワイマール体制と言われていたこの時代の不安定さがよく伝わってきます。広告や飲み屋等々の華やかな表と、盗賊団やアナーキストあるいは全体主義的な政治集会等々の裏と…それが雰囲気として歌やら地口やらで伝わってくるのが、この小説。こういうところも今と近いものがある、と自分は思う。
(2013 03/06)

健康と病気の倒置


やっとビーバーコフが「政治の季節」を通り抜けたところ。その通過儀礼がテーゲル(彼の元いた刑務所のあるところ)のベンチで見たアブラハムが息子イサクを犠牲にする…という旧約聖書のリズミックバージョン?なのも意味深。そのリズムは翌朝?の記述にも二日酔いみたいに残っているし。

 神経を病んでいるやつは健康なんだってさ。
(p327)


引用はまだ政治集会にでていたビーバーコフと話していたある大工の言葉。なんか不条理な言葉をぽっと出してきてますが、ある意味これが以降の20世紀を規定する言葉なのかも。いろんな事例は見渡せばいろいろある。
(2013 03/08)

いきなり「ビーバーコフについて語ることなどそんなにないのだ」と言われても、もう300ページ以上彼に付き合ってきた読者はどうすればいいのか…
(2013 03/09)

「ベルリン・アレクサンダー広場」の本来の主人公はベルリンという都市であるが、それは底を規定するリズムという形で現れる。流行歌から家畜の鳴き声、旧約聖書まで…そのリズムがビーバーコフの進路を一つずつふさいでいくのだ。なんて思ったりして…
(2013 03/11)

今日のところは、ビーバーコフが前に巻き込まれたプムス一味に今度は正式?に入り、一仕事(盗み)したところ。
(2013 03/14)

「ベルリン・アレクサンダー広場」では、唐突に始まる当時のいろいろな小噺が主筋のビーバーコフの流れとややパラレルにエッセンスが相似に流れる…巧く言えないが…そういうところの典型例な箇所が…
(2013 03/15)

ビーバーコフは本当にアレクサンダー広場に再び立ったのか?

 その特殊棟はひらけた地形、広大でまったく平坦な土地にあって、風も雨も雪も寒冷も、また昼も夜も、あらんかぎりの力でその建物にふりそそぐことができる。
(p494)


この特殊棟というのは、ビーバーコフが捕えられ、送り込まれた精神病棟のことだが、ずっとこの作品通してビーバーコフにつき合ってきた読者はなんだかこの表現がビーバーコフに対して随分言われてきたことではないかと気づく。そして、もう一押し、この特殊棟についての表現はベルリンという都市そのものにも当てはまりそうではないか。

 われわれはうす暗い並木路を歩んできた、最初はひとつの街灯も点いてはいなかった、ただわかっていたのは、この路はながくつづく、しだいにしだいにあかるくなり、最後には街灯がともる、そうなればやっとそのあかりのもとで通りの名を書いた標識を読むだろう、ということだけであった・・・(中略)・・・倒れてかれは眼を開いた。街灯がかれの頭上にあかるく輝いていて標識が読めた。
(p533)


通りの名とはなんであろうか。作者?が何度も「多様な人々がいて、多様な生き様がある」と語っているところをみると、それぞれに違う名前ではないだろうか。ビーバーコフの標識はビーバーコフにしかわからない。
それとともに、この人生の比喩とも読める文章が、なんというか、この作品の読中、読後感になかなかぴったりくるのだ。標識が読み取れないところをみると自分はまだ街灯がともるポイントにはたどり着いていない、まだ歩まなければならない、のだろう。
ということで、一昨日の金曜日くらいから、ストーリーがビーバーコフの愛人ミーツェとラインホルトの関係に絞られてわかりやすく(この文章でいう「しだいにあかるくなり」)、ひょっとしたら3月中に読み切れないのではないか、と思っていたこの作品も、やっとさっき読み終えた。筋が絞られるのと同時に、今まで挿入されてきた様々な歌の切れ端などが、ここにこのピースが合うぞとかいうように再登場してきて、読者を渦に巻き込んでいく。そういう手法面の言及ももっとここでできたらよかったが。
最後は、最近はよくある?「終わり方が2通りある小説」。
(2013 03/17)

昨日のp494の文章で描かれていた精神病院(ブーフ病院だったかな?)は、実際にデーブリーンが働いていたどころらしい。
(2013 03/18)

補足:「ベンヤミン・コレクション2 エッセーの思想」から

ベンヤミンの「ベルリン・アレクサンダー広場」論

 海に対しては、もちろん、実にさまざまな態度をとることができる。たとえば、浜辺に寝ころんだり、寄せては砕ける波の音に耳を傾けたり、波に打ち寄せられる貝殻を拾い集めたりできるーこのようなことをするのが叙事詩人である。だがまた、海を航行することもできる。…(中略)…このようなことをするのが長篇小説作家なのだ。 
(p336)


ベンヤミンの「長篇小説の危機」というエッセイはデーブリーンの「ベルリン・アレクサンダー広場」に関して。これをベンヤミンはジッドの「贋金つかい」と対極にある、しかしどちらも長篇小説の危機を表した作品として論じる。

 モンタージュという様式原理が「長篇小説」を破砕する、構造的にも文体的にも破砕する。そしてこの原理は、新たな、非常に叙事的な可能性を開くのである。 
(p341)

 デーブリーンのこの本では、不幸がその陽気な面を見せつける。不幸は人間たちといっしょに同じテーブルに着く。けれども、だからといって会話が途切れることはなく、人びとはきちんと座り直して、料理に舌鼓を打ち続けるのである。 
(p345)


前者の文では、つぎはぎ、コラージュ、モンタージュ・・・とかいうのは、デーブリーンと共にベンヤミン自身がそこに立脚する技法。技法のみならず、それはベンヤミンの「経験の貧困」な現代に対する態度でもある、そしてそれはデーブリーンも同じことではないか。 
後者の文は、ディケンズとも共通するところ。不幸が「料理」だという表現が面白い。 
(2015 01/31)

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