「サルガッソーの広い海」 ジーン・リース
小沢瑞穂 訳 池澤夏樹=個人編集世界文学全集
ジーン・リースは「二十世紀イギリス短編集」で「あいつらのジャズ」という短編が収録されている。
この訳は1996年出版(みすず書房)だけど、この前にも別の翻訳あり。リースはこの他、「あいつらのジャズ」の他にも、岸本佐知子氏が自伝的長編第一作を訳していて、短編もぽつぽつ訳されている。意外に?邦訳は恵まれている。
ジーン・リースはドミニカ国(共和国ではない方)の生まれ。祖先はイギリス出身だが、スコットランドとかウェールズとかやはりそちらの方。ドミニカ島は佐渡島より小さく奄美大島よりは大きい。北にはグアドループ、南にはマルティニーク。ドミニカ国はこの辺で唯一カリブ族が残っていて、ある程度の自治も行っているという。名前はペンネーム。本名はエラ・グヴェンドリン・リース・ウィリアムズ。
白いゴキブリ
「ジェイン・エア」との関係で、第一部(三部構成は偶然にも「灯台へ」と同じ)はジャマイカに設定されているが、舞台のクリブリという農園はリースの出身ドミニカに近いという。
第一部、古い白人と新しい白人、この差は奴隷解放以前か以後かというところにあるらしい。主人公アントワネット(「ジェイン・エア」ではバーサ)は母のアネットと障害を持つ弟、クリストフィーヌ(召使だけど、ダーと言う乳母のような、召使という範疇を越えてもう一人の母親と言っていいような存在。池澤氏解説のラフカディオ・ハーンの小説にもあるようにある程度一般的だったらしい)と住んでいた。「白いゴキブリ」と周りの黒人に蔑まれていたり、唯一できた遊び友達に服盗まれたり。
空地だった隣に「新しい」白人の一家がやってきて、やがてそこのミスター・メイソンと母は再婚する。家の経済状況は良くなったが、今まで蔑みだけだった周りの黒人たちからは徐々に憎まれていき、「東インド諸島」(これがどこを指すのかよくわからなかったけれど、「苦力」という言葉があったから、本当のインド?)から労働者を入れようとした時、黒人たちに囲まれて放火される。
弟は亡くなり、母は狂気に落ちる(元々母はここから逃げ出そうとメイソンに言っていたが、メイソンは聞く耳持たず)。アントワネットは修道院生活に入る。ここまでで一番安定した生活…しかし17歳になった時、メイソンがやってきて引き取る。メイソンはある計画を持っているらしい。それが「ジェイン・エア」のロチェスター氏との結婚話である(とは明言してないけど)…というところで第一部が終わる。
第一部最後、母親の葬式の回想から
なんの断りもなく、次々と話者とか場面が移り変わる書き方。果たして、アントワネットの「明日」はどんな日なのだろう。
というわけで、第二部は語りをロチェスター氏に変える。リースはこの第二部が一番難しかったと言っていて「あのいまいましい第二部」と呼んでいたという。
第二部はジャマイカからリースの本拠地、ドミニカ国に移る。ロチェスターはジャマイカに来て一か月後にアントワネットと結婚する。しかもそのうち2週間は熱病でふせっていたという。
(2021 04/11)
閉じること、開くこと
うーん、なかなか手強いテクストだ。最近読んだ中では、表層だけ掬って読んでいる感が一番強い…ロチェスター、アントワネット、クリストフィーヌ、ダニエル…それぞれがいがみあっているのだけれど、コードが違ってすれ違って話し合いにもなってない、他者の声に自分の思いを投影させて完結させているような気がする。しかもそのうちの一人に絞っても納得できないで…例えば、ロチェスターは、アントワネットは、相手を愛しているのだろうか。当人が言うほど。
と、いう感じなのだが(もちろん、わからないのは「ジェイン・エア」をまだ読んでいないということもある。でも解説の池澤氏も「何か読み落としているのでは?」と読むたび思う」と書いているから、手強いのは折り紙つき…)、とりあえず引用してみよう…
すれ違いポイントをそっと教えてくれる箇所その1(といっても今数えられるのはここだけなのだけど)。近代資本主義の精神教育(イギリスでも流行ったし、日本では心学とかいろいろ)は、今の現代社会に生きる人々から見える以上に、世界的、歴史的に見渡すとかなり異質、特殊なものなのだろう。でもアントワネット側が特殊ではない、とはそれも思えないし。
狂気になるのは、ひょっとして海の音を聞けないから、と思ってしまう。あるいは狂気なるものは現地社会と西洋社会が接した時に、西洋社会側が現地社会のある一側面を切り取ってそう名付けたものに過ぎないとも言えるのかも。といっても、現地社会が純粋無垢だとかいう意味ではなく、その社会内でも危険な萌芽を抱えていたが見えないようにして生活していた、と(まだ自分でも掴めてないけれど)。
上記で言いたいことは、支配被支配とか西洋人非西洋人とかいう図式ではなく、ある人の世界の見方が開いているか閉じているか、ということ。アントワネットもロチェスターも進むにつれどんどん閉じていってしまっている気がする。
試しに、幾つかの小説選んで、異文化理解の濃淡をマッピングしてみよう。もちろん?異文化理解できました、めでたしなんていう作品はなくて、いずれもその難しさを捉えているのだが。
バルガス「物が落ちる音」が半分くらいだとすると、「サルガッソーの広い海」は1、2割? 戻ってこなかったリョサ「密林の語り部」と拒否されて自殺したベルナルド・カルヴァーリョ「九夜」(読んでないのに取り上げるとは…)この二つはなんだかコインの裏表のような気がする。後者はほとんど「ソラリス」状態…ということで、極北が「ソラリス」(まあ、試論だから…)
(2021 04/12)
厚紙の家にさまよいこむ幽霊(読者もまた)
「前」っていうのは「灯台へ」の第二部ではないよね。せっかく併録されているんだから、そのくらい遊んでも…
物語に現れる家の概念の変容について…
というのはともかく、「おまえは」とかいうのは家に言っているというより、ロチェスターが自分自身に言っていること。彼はアントワネットが狂っていると考えているみたいだが、それ以上に彼自身が狂っている。
第三部
厚紙というのは意表をつく比喩だ、と読んだ時は思ったけど、この厚紙の家というのは「ジェイン・エア」という本自体ではないか、という指摘が前に見た本にされていて、納得。ではジェイン・エアはそっちからこっちの厚紙の家に入ってきているのか。
ここまでくると完全にそういう仕掛けであることがわかる。幽霊とされていたのはアントワネットの方ではなかったか。でもジェインもアントワネットもその他大勢の女もこの列に加わって長い連鎖をなしているなら、どっちが先でどっちが後かなんて些細なことではないか。
そしてお互い入り込んだ厚紙の家で火をつける。
家、ヴィジョン、他人の理解…実は併録2作品に共通するテーマは多いのかも。
(2021 04/13)