「ナボコフ 訳すのは「私」」秋草俊一郎 より、ナボコフのロシア語詩と英語詩
東京大学出版会
特別企画?ナボコフの詩についてこの本から抜粋
銃殺(1927 ロシア語)
こういう夜がよくある、横になると
ベッドがロシアの方に流れ出し
ぼくは谷間に向けて運ばれる、
銃殺されるためにそこへと運ばれるのだ
[中略]
腕時計のチクタクが
呆然とした意識と出会い、
亡命の幸福な
加護をぼくはとりもどす。
しかしぼくの心よ、どんなにおまえが望んだところで、
ずっとこのようにあったのだ、
ロシア、星々、銃殺の夜、
そしてチェリョームハでいっぱいの谷間!
(p215-216 ここではチェリョームハはロシア語)
なによりやわらかな言語(1941 英語)
数多くのものに、くちびるをだまして
はなればなれにする言葉を私は発してきた(すなわち、プラシ/チャイ、
「グッド/バイ」と) 家具つきのフラットに、街なみに、
空に溶けていく乳白色の文字に-
まずお目にかかれぬダサいデザインに、
トンネルの騒音に邪魔され、
すばやく過ぎる木々に注釈され、
潰れたバナナの皮とともに捨てられた小説に-
うらぶれた街のおちぶれた給仕に、
癒えた傷口と 親指のない手袋に-
そしてまた おそらくもっと普遍的な
情緒をもって知られるものたち たとえば愛に。
かくのごとく人生とは、果てしなく遠ざかっていく
果てしなき汀線だった…。これでおしまいね。と、
そうつぶやいて、あなたは手を、
それからハンカチを、それから帽子をふる。
これらすべてに私は 死を告げる言葉を発してきた、
すみずみまで調律し、調教した言語を使って。
誰か古のソネット詩人のように、
後の世によって喝采されるそのこだまが私にも聞こえたほどだ。
しかし、今や汝も行かねばならぬ、まさにここで私たちは別れるのだ、
なによりやわらかな言語、我が唯一なる真なる言葉、私だけの…。
そして残された私は、石でできたぎこちない道具で
心と美を掘りあてようと、一からあがき直さねばならない
(p285-286)
(2023 03/04)