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「今日のトーテミスム」 クロード・レヴィ=ストロース

仲澤紀雄 訳  みすずライブラリー  みすず書房

読みかけの棚から
読みかけポイント:「ベルクソンの現在」からの流れと、序章を少し。

序論
第一章 トーテム幻想
第二章 オーストラリアの唯名論
第三章 機能主義的トーテミスム
第四章 知性へ
第五章 心の中のトーテミスム
人類学の課題(コレージュ・ド・フランスの講演)

「ベルクソン思想の現在」で檜垣立哉氏がブックガイドにセレクト。「今日のトーテミスム」の中で、ルソーとともに大きく取り上げられているのがベルクソン。その関連で図書館から借りてきた。

大雑把にあとがきから、この本(「野生の思考」の序章的作品だとレヴィ=ストロース自身述べている)の概要を言うと、これまで行ってきた〈親族構造〉と〈神話〉の分析のちょうど中間で橋渡し的な位置にあるのがトーテミスムということらしい。(たぶんこの2週間では手つけられないと思うので)、入手した時はベルクソンとの比較含めて頼むよ…
(借りたのは2000年出版のみすずライブラリー版だけど、どうやら2020年に新版出ているらしい)
(2023 01/22)


まずは「ベルクソン思想の現在」から。


「笑い」と「二源泉」
岩波文庫版「笑い」の訳者、林達夫は「改版へのあとがき」でこう述べている、という。

 [レヴィ=ストロース『今日のトーテミスム』の]最終章「内なるトーテミスム」に辿り着いて、私は愕然として飛び上がりざま或る行にくぎ付けにされたのである。それは私もかつて精読したことのあるベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』に言及している箇所で、そこで衝撃を受けたのは、レヴィ=ストロースが下した次の驚くべき断定であった。いわく「この書斎の哲学者は、或る点ではun sauvage のように思考している」と。つまりベルクソンはけっこう「野生の思考」型の人間だと言うのである。
(p216)


ここは「今日のトーテミスム」に是非当たってみよう。
(2023 01/25)

ベルクソンと「野生の思考」

ということで、「今日のトーテミスム」に当たってみた。たぶんこの辺り…
(ちなみに章名は、このみすずライブラリー版では「心の中のトーテミスム」)
まずはアメリカのシウー・インディアンの一賢人?の思想。

 あらゆるものは、動きながら、ある時、あるいはほかのある時に、そこここで一時の休息を記す。空飛ぶ鳥は巣を作るためにある所にとまり、休むべくしてほかのある場所にとまる。歩いている人は、欲するときにとまる。同様にして、神も歩みをとめた。あの輝かしく、すばらしい太陽が、神が歩みをとめた一つの場所だ。月、星、風、それは神がいたところだ。木々、動物はすべて神の中止点であり、インディアンはこれらの場所に思いを馳せ、これらの場所に祈りを向けて、かれらの祈りが、神が休止したところまで達し、助けと祝福とを得られるようにと願う。
(p160)


続けて、ベルクソンの「二源泉」。

 大いなる創造力の流れが物質の中に迸り出て、獲得できうるものを獲得しようとする。大部分の点で流れは中止した。これらの中止点が、われわれの目にはそれだけの生物種の出現となる。つまり有機体だ。本質的に分析的かつ総合的なわれわれのまなざしは、これら有機体の中に、数多くの機能を果すべく互いに協力している多数の要素を見て取る。しかし、有機体生産の仕事はこの中止そのものにすぎなかった。ちょうど、足をふみいれただけで、一瞬にして、幾千もの砂つぶが、互いにしめし合わせたかのごとく一つの図案となるというような単純な行為だ。
(p160-161)


確かに似てる…ベルクソンの方はそのまま読むと「中止」であることが残念そうに書いてあるようにも見えるが、それは現在の世界が完成形であると考える人々(西欧キリスト教の価値観?)の立場に寄り添った表現になっている、にすぎない。
さて、レヴィ=ストロースが考える「親近性」とは…

 連続するものおよび非連続なものという名でベルクソンが呼んでいる現実の二面を総括的に把握しようとする欲求、両者の間の択一の拒否、両者を同じ真理に到達する相互補完的な観点としようとする努力を共にしていることに由来しているように見える。
(p161)


この努力こそがトーテミスムなのだ、という運び。また、そこにラドクリフ=ブラウンも加わるという。トーテミスム、野生の思考、それにここに出てくるデュルケームやルソーについては、また「今日のトーテミスム」読んだ時にね(いつだよ)…
(2023 01/26)

序論も少しだけ。

 ヒステリーの流行とトーテミスムの流行とは時を同じくしている。ともに同じ文明的環境において誕生した。
(p5-6)


ヒステリーもトーテミスムも、その対象となる人々を自分たち(要するに西洋文明)から分けて《自然》の元に属させたい、という19世紀の流れから流行した。
20世紀には、ヒステリーはシャルコーの研究をフロイトが批判したことで、そこには分断はなく連続していることを証明し、トーテミスムの方はこれからレヴィ=ストロース自身が論じていくのだろう(ここで批判されているのはフレーザー)。とりあえず両者の流行とも、その全盛期に崩壊のきざしが見えていた、という。
(2023 02/01)

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