「方法異説」 アレホ・カルペンティエール
寺尾隆吉 訳 水声社 フィクションのエル・ドラード
第一執政官-私
今日(厳密に言うと昨日寝る前)から、カルペンティエール「方法異説」を読み始め。
ロア・バストスの「至高の我」、マルケスの「族長の秋」と並んで、1974年から75年にかけてまとめて出た「三大独裁者小説」の一つ。
このタイトルはもちろんデカルト「方法序説」を踏まえているのだが、以前はどちらかというと「方法再説」と呼ばれていた。寺尾氏はそこを敢えて変えているわけで、そこも考えながら…
とりあえず今日は第1章。どうやらパリの邸宅にいるらしい中心人物の独裁者である第一執政官。そこで部下や娘などとの対話がされるのだが(この章で既に2回もデカルトに言及)、ユーゴーとかサン=サーンスとかの実在人物に混じって、エルスチールとかヴァントゥイユなど「失われた時を求めて」の人物が出てくるところが楽しい(カルペンティエールは自分の想像する以上にプルーストに影響を受けているのか)。そんな名前の中にしばらくすると、ダヌンツィオとかバイロイトのワーグナー息子夫妻とか、はたまたゴビノーとか、この先を予感させるような、人種差別(優生学)と全体主義を想起させる名前がちらほら。
そんなこんなしていると、大使が来て「自国で放棄が起こった」と知らされる。ここから放棄を鎮圧するための指示を次々と出していく…で、これまでは「私」、「我々」と言ってきた中心人物の呼称が、ここから「第一執政官」と三人称に変わる。こうした変更はこれからも定期的にされるのだろうか。ここも読みどころかな。自国は、太平洋と大西洋を併せ持つ国、らしいのでメキシコがモデル最有力(ディアス政権を多く下敷きにしているみたいだし)、でも街の風情などは作者が長く住んだベネズエラの要素が強いという。
あと、「第一執政官」という役職名がぱっと見、独裁者らしくない…「啓蒙」独裁者(ラテンアメリカに多いという)にはぴったりなのか。
(2022 01/07)
「私」再考
「臭い」が三連続しながら、空気感伝わるキューバの娼婦?の家へ行く第一執政官。現地の情景を頭に浮かべながら読んでいると、あれ、第一執政官は「私」ではない…では、「私」とは何者か(振り返ってみれば、第1章でも放棄前にも「私」という表記はあった(p18から20にかけてとか)。
続けて読んでいくとこんな文章が展開される。
括弧はまだまだ続きp46の後半近くで閉じられる。
長く引用したが、「私」という人物が第一執政官に近い人物でありながら何か別の企みというか気持ちで側にいるということがわかって俄然面白い展開に。
「深呼吸」以降の文は、自分の物思いから、現時点に気持ちを戻す時の所作。今、放棄軍(もう一つ学生放棄というのもあるらしい)を抑えに列車で向かっているところだけれど、そこに「記憶の底に眠っていた物事」を呼び覚ました…ままではいられないのだろう。
段落変えが極端に少ないので、切りにくい。「白の闇」の方がまだ切りやすい…
(2022 01/08)
ラテンアメリカ独裁者の典型例?
第2章、の3、4節。前のとこりでちらりと出てきた「ガリア戦記」や(たぶんドビュッシーの)「ペレアスとメリザンド」もここで伏線回収し、今のところ時系列に進んでいることもあって、読みやすい(章立も細かくなってるし)。
3節は、雨季の始まりの驟雨に追われ洞窟に入った第一執政官一同が、その洞窟内で壺に入った6体ものミイラを見つける(「ガリア戦記」(当時と今の戦争の共通点を見出す)と「ペレアスとメリザンド」(洞窟に響く音楽というところ)がここで出てくる。
4節は、敵軍アタウルフォをビジャ・デ・ラ・ベロニカに破り、その町がこの第一執政官の生まれ故郷だという記述。
自分がカルペンティエール読んでて好きなところの一つは、こうして情景が細密に描かれているところ。
今日の後半では、もう一つの学生達の放棄(学者の指導者が逃亡した後も、石の彫刻家(この人物、作者カルペンティエールのお気に入りらしい)が反乱を率いる)を鎮圧するが、その際の殺戮がフランスで話題となり、殺戮時にはなんだか観光写真のように写真撮っていたフランス人写真家が、こっちでは新聞に写真を流している(この写真家は後に自殺する(って展開もあるある…))。この報道の揉み消しに、パリに療養に来ていた第一執政官は躍起になる…その一つのネタがあの洞窟で見つかった6体のミイラ…が、そこで第一執政官にとっては一番のネタになる出来事、サラエボでの暗殺事件とそれによって引き起こされる第一次世界大戦が起こる。
これは、文章どうのこうのよりは、カルペンティエールが描きたいラテンアメリカの「啓蒙独裁者」という形態がよくわかる箇所。そしてこうやって国を留守にする期間が長くなると、国にいる将軍(今度は前回の鎮圧で活躍したあのホフマン将軍…ドイツ贔屓という理由もあるのだろうか)が放棄するというのも、また前回と同じでこれもよくわかる。カルペンティエールのいろんな著作の中で、この作品は結構史実に近い方なのではないだろうか。
「私」に関しては解説に少し。この「物語の後ろに隠れた語り手」というのが何者なのか(そもそも実在するのか)が最も気になるところ。
(2022 01/09)
垂直な街と旧市街屋敷群の変容
第3章、第8節から
各節の冒頭にはデカルトの言葉が掲げられている(ない節も存在する)けれど、この第8節の言葉は…本当にデカルトの言葉? 少なくとも、明晰な理性という思想とは反対に位置するデカルトもいる。そして物語本編も徐々に欲望の側に吸い寄せられていく。
この辺りからカルペンティエールの言葉の勢いが止まらなくなってくる。ページ一面に連なる文字という外見こそ変わらないものの、やや静かに展開してきた物語が突然狂騒し始めてくる。20世紀の急速な進行を感じさせるとともに、作者自身の思いつきが作者自身にも止められなくなったかのような印象を与える。
第4章に入り、第9節でホフマン将軍の最後を短く描いたのに続いて、解説によると1929年のキューバ、マチャード独裁政権下でのカピトリオ建設を下敷きにしたという、第10、11節(今日は10節まで)の独立百周年事業。ここに至って急速な勢いは最高潮に達し、行き過ぎた好景気は常に失笑を誘う。そんな節から同じページの2箇所を。
かなり長くなってしまったけれど、読んでいて情景がまざまざと浮かんでくる。カルペンティエールは建築にも造詣が深いことで有名だけど、こういう建築と社会という視点にも目を向けていた。
(2022 01/11)
レタスを噛む亀、爆破される宮殿
独立百周年祭、第10節が勢いでまくしたてたとすれば、次の第11節は速度はややゆっくりめでユーモアが目立つ。例えばこんな箇所。
「お飾り的公共法人」というのもなんかよその国の話と切り捨てられない苦味を持っているし、なぜわざわざ「それほどでもない額」と断り書き入れるのかよくわからないし。
ドイツへの宣戦布告で奪った自国の鉄道で、嬉々として列車の運転をしている第一執政官の姿も笑える。
そんなこんなで祝典が終わって翌日の朝の情景から一文を。
この直後、第一執政官専用の浴室で爆発が起こる…
コンクリートの世紀
第12、13節(これで第4章終わり)
第12節
第11節最後の爆発騒ぎの調査のため、多くの無関係な人々が連行され虐殺され、「アカ文学」として「赤と黒」や「緋文字」まで没収され(「「赤ずきんちゃん」忘れてますよ」となじった書店員も連行され)、第一執政官とペラルタが押収された「資本論」や「共産党宣言」など読んでいると、町中の鐘が鳴り響き、街も大変な騒ぎに。第一次世界大戦が終結したのだ。
…実際、無関係ではないですか…
こんなところで出されるデカルトにも困ったものだけど…デカルトを利用しつつ、デカルトの精神とは全く異質な政治進行が「異説」の言わんとするところなのだろう。
第13節
戦争直後で疲弊しているフランスへの義援金集めなどしつつ、リオデジャネイロやブエノスアイレスにも負けないオペラ劇場を、ということでオペラ連続興行のゴタゴタ(「アイーダ」で爆竹が多過ぎて?オーケストラボックスで爆発し、ラダメスの格好をしたまま逃げた歌手カルーソーが、市民公序良俗逸脱その他で逮捕され(意外にもカルーソーは上機嫌))、オペラ興行のうちに砂糖は1/10以下に値下がり。カーニバル最中に武力抗争が激化して銃撃が相次ぐ。
カルペンティエールの得意の音楽と建築の話題が止まらない…以下は後者(建築)の記述から。
これは、第一執政官というより、カルペンティエール自身の経験だったのではないか。
そして20世紀というのは、こうした元々液体系なもの、石のようにそれぞれの固有性が消失していること、何にでも加工できる安価な原材料…というものから始まるのではないだろうか。もしかしたら小説というモノ自体も…
(2022 01/13)
発明家の世紀
第14節。また長い引用から始める。
世界大戦の戦間期にはこうしたラテンアメリカ諸国の発展を想像した意見もあったのだろう…しかし内容もさることながら、いったいこの意見を語っているのは誰? 作者カルペンティエール…では、ないだろう、おそらく。冒頭から第一執政官に寄り添っている「私」なのだろう…しかし、あまりにも第一執政官に近過ぎる(内面化し始めている)と思うのだが。
第15節、様々な爆破事件を始めとする混乱の中で、庶民の間に裏の全てを取り仕切るエル・エストゥディアンテ(キューバやペルーの社会主義的思想家がモデルだとカルペンティエール自身は述べているらしい)の名前が急浮上し神話化する。いらいらする第一執政官だったが、そこに唐突にこのエル・エストゥディアンテが逮捕されたという知らせが入り、第一執政官と会見することになる。
こうして下から上を見る記述が当分続いたあと、同じように上から下を見る記述も「民俗学的産物」として書かれる。こうして声に出さない応酬が延々続いたのち、太文字の意識内発言を挟んだやり取りが続く。カルペンティエール自身はたぶん思想的には革命家に近い位置にいるとは思うのだけれど、ここではどちらの側も突き放しているかのようで、この先、話がどうなるのか、「私」と作者の立ち位置がどう変化するのか、注意深く見ていきたい。
(2022 01/15)
「私」の三つの説
第16節
ここから、国も第一執政官自身も急に下り坂。時代的には大恐慌があった頃だろうか。第10、11節の頃の急拡大、と呼応するような旧縮小。
宮殿の周りには、新業態の葬儀屋が静かな曲(「アヴェ・マリア」とか「白鳥」とか)を延々流しており、第一執政官はそれに少し苛立っていた。しかし、とある朝…
これはゼネスト(エル・エストゥディアンテが指揮している)。この時は開けない店を銃撃したり、「第一執政官は死んだ」とデマを流して喜んで外に出た住民を虐殺したりしてなんとか治めたのだが、そこからは落ちていく一方で…
第17節
「私」が久しぶりに出てきて、どうなるのかと思えば、今度は「お前」まで出てくる。「お前」は(元)第一執政官だろうけれど、「私」って結局…
仮説1、「私」も「お前」も第一執政官。「私」とは何かの契機で実現されなくなった彼のもう一つの若い頃の可能性。
仮説2、ペラルタ。この港町のアメリカ領事のところまで連れて行ったペラルタは、首都でのマルティネス新政権に合流した(何回もあった宮殿での爆弾騒ぎも彼が実行していたという)。第一執政官とペラルタの出会いとか過去も謎だし、その辺に…
仮説3、架空の何か、民衆全体の表象、あるいは登場人物に半分だけなり損なった作者(可能性は一番ありそうだけど、多少苦しい)、「アルテミオ・クルスの死」の二人称のような…
第18節
この節において存在感があるのが、(元)第一執政官を匿うアメリカ領事。どうやら彼自身、人生や社会を斜めに見ているようだ。そんな彼に導かれ「根」のコレクションを見た後に、p262から263にかけて、モロー・ゴットシャルクという音楽家の話題が出る。ショパンより評価されていて、ヨーロッパで勲章を10回も受けたという彼は、ある時それらの栄光を全て投げ捨て新大陸に渡り、現地風のダンス曲を書いたり、交響曲にアフリカの太鼓の乱れ打ちを取り入れたりしている、らしい。この人物(あるいはそのモデル)のような人達や事例が、カルペンティエールのキューバ音楽史には出てくるのだろう。
ラテンアメリカの歴史・政治というのは、そういうものらしい…とにかく、この節、カルペンティエールの際限なく続く列挙癖に存分に巻き込まれて愉しむ節。
つる草と木
(元)第一執政官(「エル・エキス」元職とここでは呼ばれている)とマヨララ(婆やみたいな)は、パリに来ている。作品冒頭で出てきたパリの屋敷と同じ。ハンモックも同じ。彼の娘オフェリアがたくさんの若者を連れ込んでいることや、部屋にあった(たぶん)前世紀の絵画(エルスチールも含む)が売られて、現代の芸術(たぶんピカソのアルルカンとかキュビスムとか)に囲まれているのが、エル・エキスには気に入らない。
ここで「私」問題の解答が。昨日の仮説1がどうやら適当な解らしい。日常の「私」と解放されたという「私」と。
マヨララが急に作り出した現地の料理に、第一執政官だけでなく、オフェリアも取り込んで新たなパリの生活が始まる。ノートルダム大聖堂に入った一行は、エル・エストゥディアンテの姿を見て驚く。エル・エストゥディアンテはブリュッセルでの会議の為、キューバのメジャやインドのネルーと一緒に列車に乗り込む直前だった(実際にこの会議は1927年にあった…ってことは前の首都が縮小する恐慌はいわゆる大恐慌とは違うものだったみたい)。
ウルフの「灯台へ」の第二部みたいに、時間の急速な流れが文章中で展開される。そしてエル・エキスは静かに亡くなる。
様々なパフォーマンスと欲望が操っていた「第一執政官」(つる草)は、実物の「私」(木)を越えることはできなかった…ということか。
(2022 01/18)
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