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「転落・追放と王国」 アルベール・カミュ

大久保敏彦・窪田啓作 訳  新潮文庫  新潮社



何十年ぶりのカミュ。「転落」が大久保氏、「追放と王国」が窪田氏の翻訳。「追放と王国」は六つの短編。「転落」もそんなに長くないので、七つの中短編集としても読める(発表年等は違うのだろうけど)
(…というか、元々「転落」(というタイトルになるまでいろいろ変わっている)を含めた短編集構想だったらしい…補足)
(2023 02/04)

「転落」…同心円の地獄アムステルダム


アムステルダムの酒場(なぜか「メキシコ・シティー」という名前)で誰かが話しかけてくる。

 性格をもたないものは、方法を身につける必要があります。
(p18)


アムステルダムの旧ユダヤ人街の話でこの文章が出てくる。このカミュの時代、ホロコーストはまさに起こったばかりであって、方法を身につけてしまった人々、その方法が合っているのか間違っているのか考えてもみない人々がそれを引き起こした、というのだろう。

 われわれがいまいるところが事物の中心だからなんです。アムステルダムの同心円状の運河が地獄の輪に似ていることに気がつかれましたか。
(p21)


こうしてアムステルダムの地獄めぐりが始まっていく…
(2023 07/23)

地理学的かつ告白調小説

 人生の細々した事柄に至るまで、なにかの上にいる必要があったのです。地下鉄よりバスの方が、タクシーより馬車の方が、中二階よりもテラスの方が好きでした。
 水面下八百メートルくらいまで潜る努力をするやつなんて、わたしには倒錯者かあるいは病的な性格の持ち主の手柄にしか見えません。その裏にはきっとなにかしら犯罪が隠されていたに違いない。
(p31)


語るのは高潔な弁護士。人の為に何かをするのが大好き。というそれが何か行きすぎているような語り方。p31の文章の前段はまだユーモアの範囲内だが、後段ともなると病的な臭いがする。p32には黴なんか自分には関係ないという表現もある。
それが、ある秋の夕方、パリのセーヌ河をポン・デ・ザールにさしかかった時に、それは起こる…

 そのとき、背後で笑い声が響いた。不意を突かれて、急いで振り返ったけれど、誰もいない。
(p47)


その笑い声は特に神秘的なものではなく、友好的な笑い声だったという。これは普通に誰かが笑っていたのに彼が過剰反応したのだろう。と思う。しかし、読み進めていくとp78-79ではセーヌ河で通りかかった時に橋の欄干に身を乗り出そうとしていた女性が、その少し後に河に飛び込み自殺した(笑い声が聞こえた2、3年前)という事件を思い出す。彼は知りながらも何もせず通り過ぎたのだ。

先急いだようだけど、戻ろう。笑い声事件の後、彼は少しずつ高潔に自己充足的に生きていた頃には忘れ去っていた、細々とした記憶の細部を取り戻していく。
次の文は今いるアムステルダムの描写。

 なんて綺麗なんでしょうね、夜の運河は! わたしは黴くさい水の息吹や運河に漬かっている枯れ葉の匂いや花を満載した小舟から漂ってくる物憂い匂いは好きですね。
(p51)


さっき「黴なんか自分には関係ない」とか言ってませんでしたか? それにアムステルダムというのも海面すれすれにある街であるし…あ、だから「転落」なのね…
この後、やっぱり高いところが本当は好きとまた言い出すのだが…

 世界のうちで、一番好きなところはシチリアなんですよ、お分かりでしょう。それも光を浴びたエトナ火山の上から、島と海とを見下ろせるという条件つきでね。ジャワ島も好きですよ。でも貿易風の吹く頃のね、ええ、若い頃に行きました。概して、わたしは島というものが好きなんです。島では君臨することがたやすいですからね。
(p51)


前の彼(言い忘れていたけれど、p15でジャン・バチスト・クラマンスと名乗っている)が戻ってきた。この小説、地理学小説とも言えるのかも。何十年か前に読んだ時には、さっぱりわからずとりあえず最後のページまで目を通してみたという記憶しかなかったのだけれど、かなりな自分好み。それはともかく、クラマンス=カミュでは当然ないとして、シチリア島に関してはカミュの個人的体験が元になっている、と解説にあり。おそらくジャワ島も?
ということで? 地理学小説かつ告白調小説のこの小説、次の舞台はアムステルダム北東の観光地マルケン島。

 左手にはここで砂丘と呼ばれている灰の山、右手には足元まで広がる鈍色の砂浜、正面には弱い洗剤みたいな色をした海と青白い水を映す広大な空。本当にぶよぶよした地獄みたいですな! あるのは水平線だけで、いかなる輝きもない。空間は無色で、生活は死んでいる。一面の喪失、目に見える無とでも言うべきでしょう。人っ子ひとりいない、なによりも人間がいない!
(p81)


ここも元々のクラマンスが好みではない気がするのだが、これは彼と巡るアムステルダム地獄めぐりなのだから…という観点から見ると、こんな果てみたいな場所にもうたどり着いてもいいのか?この小説はp160がラストだからちょうど半分…

 もし猛獣使いが運の悪いことに、檻に入る前に、剃刀で傷でも作ったていたら、猛獣どものお御馳走になってしまうでしょう。
(p87)


クラマンスはとにかく「裁き」を回避しろ、という。この裁きが剃刀の傷という比喩で鮮明に与えられる。

 心から真剣に熱中できたのは、スポーツをしているときとか軍隊時代に楽しみのため芝居を演じているときだけ。この二つの場合はゲームの規則があった。真面目なものではないけれど、みんなが真面目なもののような振りをして喜んでいるやつです。
(p97)


ゲームとは、またゲームの規則とは?

 つまり己の嘘をすべて告白せずに死ぬことはできないというような。
(p99)

 人生のうちに隠された嘘がただのひとつ残っても、死がそれを決定的なものにしてしまうでしょうから。誰だってこの点に関してそれ以上はっきりと真相を知ることはできはしない。だってそれを知る唯一の者は死人であり、その秘密を抱いて眠り込んでいるんですから。ひとつの真実を完全に葬り去ってしまうこと、これはわたしに目眩を与えました。
(p99-100)


死者の一つの嘘を取り出すのは、目の前の海からたった一滴を取り出すに等しい…そもそも、嘘を告白すること自体、また嘘を捏造することなしにはできないのではないか。クラマンスの告白にどれだけの真実とどれだけの嘘があるのか。
とりあえずここまで。

明け方の転落

 沿岸は平らで、しかも霧に包まれているので、海がどこから始まりどこで終わるか見当もつかない。ですからわれわれはなんの標識もないままに航海しているわけです。それでスピードを測ることもできない。いくら前に進んでも、なにひとつ変わりはしない。これは航海じゃなくて、夢ですよ。
(p107)


ここで描かれているのはオランダ、ゾイデル海。今度は二人は船に乗っている。この後のギリシアの航海の話は、これまたカミュの体験らしい。
あと、この辺から「われわれ」言及が多くなってくる。これはクラマンスの意識的なずらし、自分が告白しているようでいて、実は相手に告白させるという企みの前段階。
クラマンスの話は、ある大西洋航路の旅で、あのセーヌ河に飛び込んだ女性の死体が浮かんでいるという妄想に襲われる。

 われわれはけっしてこの巨大な聖水盤から抜け出せないでしょう。
(p119)

 なにかの掟に従うものは裁きを恐れることはありません。裁きは彼が信じている秩序を超えるようなことはないのですから。しかし人間のいちばん大きな苦しみは律法なしに裁かれることなんです。
(p128)

 あそこの連中だって今頃はさ迷い歩いていますよ。わたしにはわかります! 彼らは疲れ切った妻や耐えがたい家庭の方に向かって急いでいるような振りをしながらさ迷っているのです。
(p129)


クラマンスの言う言葉はやはりどこか狂っている感覚があるのだが、時折美しい場面がある。そしてその時はなんらかの真理を捉えてはいるように思える。
次はとうとうクラマンスの家にたどり着く。ここが最後の場面らしい。

 真理は、光と同様に、目を眩ませます。逆に嘘は、美しい夕暮れと同じで、一つ一つの対象をはっきりと浮き彫りにするのです。
(p131)


嘘を抱えたまま死ぬのが恐いのではなかったのかな。この後、戦争中の捕虜収容所で何故か「法王」扱いされてしまった話、それから何もない部屋にあった『潔白な裁判官』の絵、実はこの絵は1934年に盗まれていてこの部屋にある絵がオリジナルだという話…実際にそういう事件があったのかどうかは今のところわからないが、この絵、実はガンのファン・アイクの祭壇用衝立『神秘の子羊』の一部で、描かれた裁判官達は子羊を見に行く途中なのだという…

後半になってきて、宗教的な主題が大きくなってきて、なかなか捉えるのが難しくなってきたけれど、なんとか「転落」読み終わり。最後は聞き手(なんと聞き手もパリの弁護士だという…この話、ループするのか?)に「今度はあなたが告白する番です」という。

 こういう夜、と言うよりむしろこういう朝方、と言うのも転落は明け方に起きるものですから、わたしは外に出て、激情に追い立てられるような足取りで、運河に沿って歩いていくのです。鉛色の空には、鳥の羽根の層は薄くなり、鳩は少し高く上り、薔薇色の薄明かりが、屋根すれすれに、わたしの創造の新たな一日を告げている。
(p156)


解説によると、この小説には聖書へのアンチテーゼが詰まっていると言う。裁きを回避して他人を裁こうとするクラマンスの立場がその到達点。
(2023 07/24)

「追放と王国」…6篇の短編集

1957年刊。「転落」は1956年刊で、元々は「追放と王国」に含まれる予定だったという。

「不貞」


北アフリカの町に住むマルセルとジャニーヌの服屋夫妻。南部の砂漠地帯の町へ商売を広げようとするマルセルに、ジャニーヌはついていく。
砂漠の町に着いた二人は、堡塁の上に上る。そこでジャニーヌは砂漠の遊牧民を見る。

 女は遊牧の民の野営を眺めていた。そこに暮す人間なぞはかつて姿を見たことすらなかった。が、にもかかわらず、もう彼らのことしか考えられなかった。この日までこういう人たちが生きていることすら、ほとんど知らずにいたのに。
(p182)

 何ものをも所有しないが何人にも仕えぬ彼らは、この奇怪な王国の惨めで自由な君主たちである。
(p183)


その夜、一人で起きたジャニーヌはこっそり外へ出て、また堡塁へ向かう。

 星座を形造る最後の星々が、その花房を低く砂漠の地平に落して、動かなくなった。そのとき、耐えがたいやさしさをもって、夜の流れがジャニーヌを涵しはじめ、寒気を沈め、その存在の幽暗な中心から昇り、絶えざる波となって、呻きに満ちるその口にまで溢れ出た。一瞬の後、空全体が、冷たい地上に倒れていた彼女の上に押しかぶさってきた。
(p191)


短編のタイトル「不貞」は、夜の空との「不貞」だったわけか。この後、宿に戻ったジャニーヌと寝ていたマルセルは通常生活に戻ることができたのだろうか。これまで以上に何も伝えることができなくなったのではないか。

短編集タイトルの「追放と王国」について。この2単語が並ぶと「王国を追放された」という連想を引き起こすのだが、「と」が結んでいて並列であるし、予測がつかない。「不貞」読んで自分なりに思ったのは、p183の文に出てきた「王国」はたった一人の追放の身。自由ではあるがそれに到達する為には「追放」されなければならない、「追放」を命じるのは誰か、或いは「追放」は自動詞化できるものなのか。
と思って「解説」見ると、窪田氏は現在人々が置かれている状況が「追放」であって、「王国」は自分でそれら追放の日々から見出さなければならない、とある。ジャニーヌはp182の「自分の知らなかった、しかしもうそれなしでは済ますことのできない何か」というのが、おそらくそれだったのだろう。まあ、解釈は二つ以上併存させることも可能…
(2023 07/27)

「背教者」


(読んだのは昨夜寝る前に)
「不貞」とは語り(こちらは一人称)が違い語り方も随分違うが、場所が近いせいかテーマも共通しているところがあるせいか、前者の違いより後者の効果で同じ爆弾みたいな雰囲気が続く。6篇通して読んだ方がいいのか、間を開けて読んだ方がいいのか。
一人称の語りは最後の一文だけ破られる。
いつの時代か明記してないのだが、キリスト教布教にきた男が捕らえられている砂漠の村。狂ったのかはたまたここに配置した上層部への憎悪のためか、現地の物神の方に信仰が移ってしまう。
先述したように、「転落」のクラマンスのような饒舌体なのだが、これは舌を切られてしまって、頭の中で鳴り響いている声である為、その前の彼はひょっとしてあまり喋る方ではない可能性もあるのでは?

 私は自分の頭上の石に太陽を感ずる。太陽は叩きつける。ありとあらゆる石を鉄鎚のように叩く。それは音楽だ。数百キロにわたる大気と石の振動より成る、真昼の広大な音楽だ。
(p202)


「砂漠の音楽」というような曲があったような…

 善とは一つの夢想であり、疲労困憊の努力をもって追求しても、いつでも延期される計画であり、決してひとの達しない限界である。善の支配は不可能なのだ。悪だけが自己の限界まで徹底することができ、絶対的に支配することができる。その目に見える王国を打ち樹てるために悪にこそ仕えなければならぬ。
(p212)


作者の真意なるものがもしあるのだとしたら、それは完全にキリスト教側でも完全に異教側でもなかろう。解説にあったような「王国」を各自自身で作ることが「追放」された現代人が実行できる唯一のこと、だとしたら、ここでいう「悪の王国」の方が現在の「追放状態」よりも望ましいということになる。それは望むべきものなのだろうか。
(2023 08/01)

「唖者」


木の樽を作る工場での労働組合運動の失敗。工場主の人物も人間的な一面を持っているのだが、労働者たちは何も話そうとはしない。しないのではなく、できないという方が正確。しかし、工場主の娘が急に倒れて救急車で運ばれたことで、ほんの少し空気が変わる。未だ話すことはできなくとも。
この作品の冒頭と結末では海の描写がある。主筋に関しては海は全くつながらないのだけれど、何かの象徴であろうか。それに、次の「客」も結末は海が出てくる。「客」の場合は内陸で海は見えないはずなのだが(そこにも注意しながら次読もう)。
この「唖者」では「追放」の度合いが大きかった。
(2023 08/02)

「客」


殺人を犯したというアラビア人と一夜を過ごし、翌日分岐点、南に行けば仲間のいる地域へ自由へ、東へ行けば官憲のいる街へ、そこに彼を置いて立ち去った学校教師。結局そのアラビア人は東へ向かって一人歩いて行くのだが、学校へ戻ってきた教師は、黒板に「お前は己の兄弟を引き渡した。必ず報いがあるぞ」と書いてあった、という話。解説では窪田氏はこの短編が一番中核であると述べている(解説の順も一番最後)。

 この砂漠のなかでは、誰も、自分もまたこの客も何ものでもない。にもかかわらず、この砂漠の外では、どちらも真の生を生きることはできなかったろう-ダリュはそれを知っていた。
(p254)


ダリュ(教師の名前)は何故知っていたのか。この短編は特に寓話的に読めると思うが、では客とは何だろうか、砂漠とは何であろうか。
アルジェリアからフランスへ渡ったカミュ自身の投影でもある?
短編の最後、先述した黒板に書かれた(地理のフランスの川の図の中に書かれていた)言葉を見つけたあとの文章。

 ダリュは空を眺め、高原を眺め、さらに、そのかなた海までのびている目に見えぬ土地を眺めていた。これほど愛していたこの広い国に、彼はひとりぼっちでいた。
(p265)


前の「唖者」にもあった、最後の海の描写。特にこの短編の場合は内陸高原部が舞台なので、海沿いの街の話である「唖者」よりも印象は強まる。絶対的自由の象徴なのだろうか。
(2023 08/03)

「ヨナ」


パリらしきところにいる芸術家らしいヨナ。今までのアルジェリアらしき舞台とは雰囲気が変わるが、ヨナといえば聖書の「ヨナ書」を西洋人(キリスト教徒)なら思い出すのだろう。解説にもあるように、案外この作品は諧謔味が強い。例えばこんな感じ。

 しかし、彼はじきに、弟子というものは必ずしもしきりに何かを学ぼうとする者ではないことを悟った。むしろしばしばこれに反して、その師を教育しようという無私の喜びのために、ひとは弟子となる。
(p281)


(2023 08/04)

 「己も自分の存在に自信はない。でも今に存在するだろう。それを確信している」
(p294)


存在とは何だろう。この自分は今も、この先も存在している自信がない…

 あそこ、光りつづけているのは彼の星ではなかったか? 彼はそれを見分けて、心は感謝でいっぱいだった。音もなく彼が倒れたときですら、彼はまだ星を眺めていた。
(p310)


星とは何だろう。自作屋根裏部屋で一人絵画を描く瞬間を待っているこの時、彼の周りでは一家の団欒の声がしていた。星とはそれに関連する何かと別の何かの端境にあるものだろう。
ここ読んだ時、ナボコフ「ディフェンス」のラストも思い出した。

「生い出ずる石」


ブラジル原生林の村。堤防技師としてフランスから来た男と、現地のカトリックと先住民の宗教儀式。そしてその間にいるコック…石を教会に運ぶ儀式の途中で倒れたコックの為に、技師は石を運ぶ。ただ、運んだのは教会ではなく、原住民のコックの家。

 その岸が今度は闇と水に蔽いかくされて、かなたに数千キロにわたってひろがる樹木の大陸と等しく、渺茫として野趣に溢れていた。近くの大洋とこの樹海とのあいだに、このときこの荒涼たる河に漂うひと摑みほどの人間は、今やまったく迷い子になったように見える。
(p316)


世界地図を俯瞰するような引き切った視界にはっとする。その位置においては、国を失って放浪するユダヤの民と、今視野に入っているブラジルの一風景の人達が、全く同じように迷い子に見える。

 ここでの生活は大地とすれすれに営まれる。自分をそこに溶けこますためには、何年も何年も、ぬかるみの土、あるいは乾ききった地面にじかに臥て眠らねばならない。かなた、あのヨーロッパでは、恥辱であり、怒りだ。しかし、ここでは、追放か、孤独だ。死ぬまで踊るところの、この憔悴した落着きのない狂人たちに囲まれて…。
(p348)


追放か孤独か。短編集のタイトルを引けば、孤独は王国である。まだまだわからないけれど、孤独が王国という向きより、王国が孤独という向きの方がまだわかるか。

これで「追放と王国」6篇読み終わったけれど、どうだろう、「転落」の方が小説らしさが多いのではないだろうか。それに比べて、「追放と王国」は寓話というか思考実験というか、言ってみればSF的(悪く言えば?図式的)な気がする。一番SFっぽいのは「背教者」。その中で「唖者」は小説寄り。
解説からも少し。

 現実に対する絶望と宗教的な期待との間に立って、カミュはその何れにも与しない、何ものをも希望しないが、また何ものをも諦めない。
(p374)

何れにも与しなく、何ものをも諦めない、となればそこが王国なのだろうか。
(2023 08/05)

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