「転落・追放と王国」 アルベール・カミュ
大久保敏彦・窪田啓作 訳 新潮文庫 新潮社
何十年ぶりのカミュ。「転落」が大久保氏、「追放と王国」が窪田氏の翻訳。「追放と王国」は六つの短編。「転落」もそんなに長くないので、七つの中短編集としても読める(発表年等は違うのだろうけど)
(…というか、元々「転落」(というタイトルになるまでいろいろ変わっている)を含めた短編集構想だったらしい…補足)
(2023 02/04)
「転落」…同心円の地獄アムステルダム
アムステルダムの酒場(なぜか「メキシコ・シティー」という名前)で誰かが話しかけてくる。
アムステルダムの旧ユダヤ人街の話でこの文章が出てくる。このカミュの時代、ホロコーストはまさに起こったばかりであって、方法を身につけてしまった人々、その方法が合っているのか間違っているのか考えてもみない人々がそれを引き起こした、というのだろう。
こうしてアムステルダムの地獄めぐりが始まっていく…
(2023 07/23)
地理学的かつ告白調小説
語るのは高潔な弁護士。人の為に何かをするのが大好き。というそれが何か行きすぎているような語り方。p31の文章の前段はまだユーモアの範囲内だが、後段ともなると病的な臭いがする。p32には黴なんか自分には関係ないという表現もある。
それが、ある秋の夕方、パリのセーヌ河をポン・デ・ザールにさしかかった時に、それは起こる…
その笑い声は特に神秘的なものではなく、友好的な笑い声だったという。これは普通に誰かが笑っていたのに彼が過剰反応したのだろう。と思う。しかし、読み進めていくとp78-79ではセーヌ河で通りかかった時に橋の欄干に身を乗り出そうとしていた女性が、その少し後に河に飛び込み自殺した(笑い声が聞こえた2、3年前)という事件を思い出す。彼は知りながらも何もせず通り過ぎたのだ。
先急いだようだけど、戻ろう。笑い声事件の後、彼は少しずつ高潔に自己充足的に生きていた頃には忘れ去っていた、細々とした記憶の細部を取り戻していく。
次の文は今いるアムステルダムの描写。
さっき「黴なんか自分には関係ない」とか言ってませんでしたか? それにアムステルダムというのも海面すれすれにある街であるし…あ、だから「転落」なのね…
この後、やっぱり高いところが本当は好きとまた言い出すのだが…
前の彼(言い忘れていたけれど、p15でジャン・バチスト・クラマンスと名乗っている)が戻ってきた。この小説、地理学小説とも言えるのかも。何十年か前に読んだ時には、さっぱりわからずとりあえず最後のページまで目を通してみたという記憶しかなかったのだけれど、かなりな自分好み。それはともかく、クラマンス=カミュでは当然ないとして、シチリア島に関してはカミュの個人的体験が元になっている、と解説にあり。おそらくジャワ島も?
ということで? 地理学小説かつ告白調小説のこの小説、次の舞台はアムステルダム北東の観光地マルケン島。
ここも元々のクラマンスが好みではない気がするのだが、これは彼と巡るアムステルダム地獄めぐりなのだから…という観点から見ると、こんな果てみたいな場所にもうたどり着いてもいいのか?この小説はp160がラストだからちょうど半分…
クラマンスはとにかく「裁き」を回避しろ、という。この裁きが剃刀の傷という比喩で鮮明に与えられる。
ゲームとは、またゲームの規則とは?
死者の一つの嘘を取り出すのは、目の前の海からたった一滴を取り出すに等しい…そもそも、嘘を告白すること自体、また嘘を捏造することなしにはできないのではないか。クラマンスの告白にどれだけの真実とどれだけの嘘があるのか。
とりあえずここまで。
明け方の転落
ここで描かれているのはオランダ、ゾイデル海。今度は二人は船に乗っている。この後のギリシアの航海の話は、これまたカミュの体験らしい。
あと、この辺から「われわれ」言及が多くなってくる。これはクラマンスの意識的なずらし、自分が告白しているようでいて、実は相手に告白させるという企みの前段階。
クラマンスの話は、ある大西洋航路の旅で、あのセーヌ河に飛び込んだ女性の死体が浮かんでいるという妄想に襲われる。
クラマンスの言う言葉はやはりどこか狂っている感覚があるのだが、時折美しい場面がある。そしてその時はなんらかの真理を捉えてはいるように思える。
次はとうとうクラマンスの家にたどり着く。ここが最後の場面らしい。
嘘を抱えたまま死ぬのが恐いのではなかったのかな。この後、戦争中の捕虜収容所で何故か「法王」扱いされてしまった話、それから何もない部屋にあった『潔白な裁判官』の絵、実はこの絵は1934年に盗まれていてこの部屋にある絵がオリジナルだという話…実際にそういう事件があったのかどうかは今のところわからないが、この絵、実はガンのファン・アイクの祭壇用衝立『神秘の子羊』の一部で、描かれた裁判官達は子羊を見に行く途中なのだという…
後半になってきて、宗教的な主題が大きくなってきて、なかなか捉えるのが難しくなってきたけれど、なんとか「転落」読み終わり。最後は聞き手(なんと聞き手もパリの弁護士だという…この話、ループするのか?)に「今度はあなたが告白する番です」という。
解説によると、この小説には聖書へのアンチテーゼが詰まっていると言う。裁きを回避して他人を裁こうとするクラマンスの立場がその到達点。
(2023 07/24)
「追放と王国」…6篇の短編集
1957年刊。「転落」は1956年刊で、元々は「追放と王国」に含まれる予定だったという。
「不貞」
北アフリカの町に住むマルセルとジャニーヌの服屋夫妻。南部の砂漠地帯の町へ商売を広げようとするマルセルに、ジャニーヌはついていく。
砂漠の町に着いた二人は、堡塁の上に上る。そこでジャニーヌは砂漠の遊牧民を見る。
その夜、一人で起きたジャニーヌはこっそり外へ出て、また堡塁へ向かう。
短編のタイトル「不貞」は、夜の空との「不貞」だったわけか。この後、宿に戻ったジャニーヌと寝ていたマルセルは通常生活に戻ることができたのだろうか。これまで以上に何も伝えることができなくなったのではないか。
短編集タイトルの「追放と王国」について。この2単語が並ぶと「王国を追放された」という連想を引き起こすのだが、「と」が結んでいて並列であるし、予測がつかない。「不貞」読んで自分なりに思ったのは、p183の文に出てきた「王国」はたった一人の追放の身。自由ではあるがそれに到達する為には「追放」されなければならない、「追放」を命じるのは誰か、或いは「追放」は自動詞化できるものなのか。
と思って「解説」見ると、窪田氏は現在人々が置かれている状況が「追放」であって、「王国」は自分でそれら追放の日々から見出さなければならない、とある。ジャニーヌはp182の「自分の知らなかった、しかしもうそれなしでは済ますことのできない何か」というのが、おそらくそれだったのだろう。まあ、解釈は二つ以上併存させることも可能…
(2023 07/27)
「背教者」
(読んだのは昨夜寝る前に)
「不貞」とは語り(こちらは一人称)が違い語り方も随分違うが、場所が近いせいかテーマも共通しているところがあるせいか、前者の違いより後者の効果で同じ爆弾みたいな雰囲気が続く。6篇通して読んだ方がいいのか、間を開けて読んだ方がいいのか。
一人称の語りは最後の一文だけ破られる。
いつの時代か明記してないのだが、キリスト教布教にきた男が捕らえられている砂漠の村。狂ったのかはたまたここに配置した上層部への憎悪のためか、現地の物神の方に信仰が移ってしまう。
先述したように、「転落」のクラマンスのような饒舌体なのだが、これは舌を切られてしまって、頭の中で鳴り響いている声である為、その前の彼はひょっとしてあまり喋る方ではない可能性もあるのでは?
「砂漠の音楽」というような曲があったような…
作者の真意なるものがもしあるのだとしたら、それは完全にキリスト教側でも完全に異教側でもなかろう。解説にあったような「王国」を各自自身で作ることが「追放」された現代人が実行できる唯一のこと、だとしたら、ここでいう「悪の王国」の方が現在の「追放状態」よりも望ましいということになる。それは望むべきものなのだろうか。
(2023 08/01)
「唖者」
木の樽を作る工場での労働組合運動の失敗。工場主の人物も人間的な一面を持っているのだが、労働者たちは何も話そうとはしない。しないのではなく、できないという方が正確。しかし、工場主の娘が急に倒れて救急車で運ばれたことで、ほんの少し空気が変わる。未だ話すことはできなくとも。
この作品の冒頭と結末では海の描写がある。主筋に関しては海は全くつながらないのだけれど、何かの象徴であろうか。それに、次の「客」も結末は海が出てくる。「客」の場合は内陸で海は見えないはずなのだが(そこにも注意しながら次読もう)。
この「唖者」では「追放」の度合いが大きかった。
(2023 08/02)
「客」
殺人を犯したというアラビア人と一夜を過ごし、翌日分岐点、南に行けば仲間のいる地域へ自由へ、東へ行けば官憲のいる街へ、そこに彼を置いて立ち去った学校教師。結局そのアラビア人は東へ向かって一人歩いて行くのだが、学校へ戻ってきた教師は、黒板に「お前は己の兄弟を引き渡した。必ず報いがあるぞ」と書いてあった、という話。解説では窪田氏はこの短編が一番中核であると述べている(解説の順も一番最後)。
ダリュ(教師の名前)は何故知っていたのか。この短編は特に寓話的に読めると思うが、では客とは何だろうか、砂漠とは何であろうか。
アルジェリアからフランスへ渡ったカミュ自身の投影でもある?
短編の最後、先述した黒板に書かれた(地理のフランスの川の図の中に書かれていた)言葉を見つけたあとの文章。
前の「唖者」にもあった、最後の海の描写。特にこの短編の場合は内陸高原部が舞台なので、海沿いの街の話である「唖者」よりも印象は強まる。絶対的自由の象徴なのだろうか。
(2023 08/03)
「ヨナ」
パリらしきところにいる芸術家らしいヨナ。今までのアルジェリアらしき舞台とは雰囲気が変わるが、ヨナといえば聖書の「ヨナ書」を西洋人(キリスト教徒)なら思い出すのだろう。解説にもあるように、案外この作品は諧謔味が強い。例えばこんな感じ。
(2023 08/04)
存在とは何だろう。この自分は今も、この先も存在している自信がない…
星とは何だろう。自作屋根裏部屋で一人絵画を描く瞬間を待っているこの時、彼の周りでは一家の団欒の声がしていた。星とはそれに関連する何かと別の何かの端境にあるものだろう。
ここ読んだ時、ナボコフ「ディフェンス」のラストも思い出した。
「生い出ずる石」
ブラジル原生林の村。堤防技師としてフランスから来た男と、現地のカトリックと先住民の宗教儀式。そしてその間にいるコック…石を教会に運ぶ儀式の途中で倒れたコックの為に、技師は石を運ぶ。ただ、運んだのは教会ではなく、原住民のコックの家。
世界地図を俯瞰するような引き切った視界にはっとする。その位置においては、国を失って放浪するユダヤの民と、今視野に入っているブラジルの一風景の人達が、全く同じように迷い子に見える。
追放か孤独か。短編集のタイトルを引けば、孤独は王国である。まだまだわからないけれど、孤独が王国という向きより、王国が孤独という向きの方がまだわかるか。
これで「追放と王国」6篇読み終わったけれど、どうだろう、「転落」の方が小説らしさが多いのではないだろうか。それに比べて、「追放と王国」は寓話というか思考実験というか、言ってみればSF的(悪く言えば?図式的)な気がする。一番SFっぽいのは「背教者」。その中で「唖者」は小説寄り。
解説からも少し。
何れにも与しなく、何ものをも諦めない、となればそこが王国なのだろうか。
(2023 08/05)
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