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「すばらしい新世界」 オルダス・ハックスリー

松村達雄 訳  講談社文庫  講談社

現在は、光文社古典新訳文庫(黒原敏行訳)、ハヤカワepi文庫(大森望訳)、等でも読める。

アンチユートピアの系譜


「すばらしい新世界」は、また出た(笑)アンチユートピア小説。「ユートピア」に始まり(ってこれもそうなのか?)、「ガリバー旅行記」「1984」「われら」「侍女の物語」という系譜の中に位置づけられる作品。ハックスリーの興味からか、生物学・優生学の記述が多い…というか、それ以外のテクノロジーは意外に進んでいない?新世界(大阪ではない)。「概論は最初にほんの少しだけでよい」という所長?と、必死にノートをとる新人達の対比が面白かった。
(2010 02/23)

すばらしい新世界に野蛮人とシェークスピア現れる


昨日読んだ第五章では、科学技術の進歩により「幸福」になった人々のミサ?の様子。何やら神さまイコールフォード様(断るまでもないかもしれないが、自動車工業の父ヘンリー・フォードのこと)という、このミサの尻叩き踊り?が、現在の宗教の崇高な踊りも、前書いた(書きましたっけ?)フェンテスの「脱皮」の下品な?文も同時に思い起こしてしまった。それだからこそ文学は面白い。ちなみにフェンテスの脱皮の文はこんなの。 

 男は女の上にのっかり、女は動物の上にのっかり、動物はほかの男の上にのっかって、際限なくやりまくり、その尻の鎖からお互いに逃れられない、通りのまん中でやっている犬とおんなじなんだ・・・ 
(P322) 
カルロス・フェンテス「脱皮」から


続いて第六章から第八章。「幸福」な世界から、隔離されたニューメキシコのインディアン居留地に「観光」にやってきた二人を「野蛮人」(実は「幸福」な世界からやってきた女が産み落とした)ジョンが迎える。二人は「母親が子供を産むこと」にも、「老いて顔が皺になること」にも驚く。彼らの世界にはどちらも存在しないからだ。
一方、ジョンが語るにはどこかにあったシェークスピア全集をジョンが手に入れ読んでいく(「幸福」な世界にもシェークスピアは存在しない)。何が書いてあるかわからないけれど、「太鼓のような、歌声のような、呪文のような言葉を知った。」(p155)。その時、彼の母リンダとインディアンのポペの不倫(ジョン自体は前から知っていてポペを憎んでいたのであるが)を、もっと明確に感じ、もっと激しく憎むようになり、遂には包丁で刺そうとする。ジョンの地平でシェークスピアが再解釈され、摘要され、いきいきと花開く。
最後に付け加えると、「すばらしい新世界」というタイトル自体がシェークスピアの「あらし」からとられたもの。ということで。 
(「野蛮人」という言葉は作品内に出てくるし、「インディアン」という言葉も他の言葉の方が適切なのかも知れないけどぱっと思いつかない。まあ、このままにしておく)
(2010 02/25)

睡眠時教育法


まずは一文を。 

 多くの者が腐敗堕落するよりは、一人の者が苦しみを受ける方がいいのだ。(p172)


「中央ロンドン人工孵化・条件反射育成所」所長が、部下のバーナード・マルクスを左遷させようとしていた時に出た言葉だが、なんだかキリストを思い起こさせるような文章ではある。 

話題は少し変わって、この作品では段落ごと、あるいは数段進んで各行ごとに違う場面が並列され移り変わっていくというフラッシュバック的な手法が多く取り入れられている。1932年の作品であるから、映画のこうした手法はもう世の中に知られていたのであろう。でも自分は、この作品の場合、なんだかこの手法を導入した他の作品よりもすんなりと違和感なく読めてしまう。それはなぜか? 
作品冒頭の方に「睡眠時教育法」という幼い子供に階級意識と下の階級に対する嫌悪感を繰り返し聞かせるというのが紹介されている。人間の出生の操作と並んでこの作品のキーになるところであるが、ここまで行かなくてもそれを利用したような形態は世の中のあちこちに見られる。その一つが映画のフラッシュバックであり、それを利用した小説の技法であるといえよう。 
もちろん、寝ている幼児に母親がいろいろ語りかけたりすることは精神の安定などをもたらすものであろうし、映画や小説の技法も興味深いものである。えと、でも、そこには微妙な線引きがあって、常に針は左右にぶれるものである。一つ間違うと「すばらしい新世界」のようになってしまう、危険性もある、ということらしい。 

まあ、自分がなんだか一番言いたかったのは、この小説の技法がある意味自己言及的だなあ、ということだったりする。はい。 
なんだかかなり崩れてきたが、もっとボロが出る前におしまいにしたい(笑)。
(2010 03/02)

揺れ動くハックスリー

 幸福はなかなかうるさい主人だ。(p264)


結局、この作品って、「人間社会にとって「幸福」って何?」というところにたどり着くのかもしれない。

 不幸への過剰補償と比べれば、現実の幸福はかなり醜悪なものに必ず思えるものなのだから。
(p256)


「過剰補償」とは、「ある欠陥をかくそうとして、反対の特性を極度に誇張すること、精神分析用語」ということらしい。要するに芸術にも、戦争にもなるもの。芸術(文学とか絵画とか)がしばしば殺人・戦争などをテーマにするのもコインの表と裏だからであろう。

「すばらしい新世界」は芸術を(科学を宗教を)犠牲にして、「万人の幸福」を求めて成立した。その点「1984年」との違いがある。というか、ハックスリーの立場が(この時点では)完全に「新世界反対」か、といえば、そうではなく揺れ動いているような印象を受ける。この作品は1932年のものだが、1936年の「ガザに盲いて」(自分は未読)に始まる、後期の「モラリスト」的立場に確立されるものはまだできていない、と考えた方がよさそうだ。

ちなみに野蛮人の母リンダの臨終の際に出てくる、たくさんの「幸福な」双子達は、かなり「醜悪」に見える。(この場面、やたらに「双生児」を連呼?しているが、読者が(自然的)双生児だった場合、人によっては嫌悪感持つかも?そういう意図はないにせよ)

次はこの「新世界」の総統が、背後の「金庫」から取り出した、カーディナル・ニューマン(ニューマン枢機卿)の言葉というものから

 われわれの所有物がわれわれ自身のものでないと同様、われわれもまたわれわれ自身ではない・・・(中略)・・・われわれはわれわれ自身の主人ではない。われわれは神の所有である。問題をこのように見ることこそわれわれの幸福ではないのか
(p269)


これは果たして「新世界」側なのか、それとも「旧世界」側なのか、どちらともとれそうだ。ここにもハックスリーが懐疑的に留まっており揺れているようなところが見受けられる。総統達(総統は10人の合同制)以外はなんかこの定義?にあってそうな感じだが。総統達は違うだろう。
単純な二者択一ではいかないことだけは確か。
(2010 03/02)

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