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「生は彼方に」 ミラン・クンデラ

西永良成 訳  ハヤカワepi文庫  早川書房

小川はどこへ

今日、というかさっきからミラン・クンデラの「生は彼方に」を読み始めた。クンデラの自伝的小説という。 
なんてか、表現している言葉と実際の場面が微妙にずれていて面白い。例えば、冒頭の「どこで」という問いに対して、答えが「(どこそこの)午後」と時間で返している、とか。 クンデラ自身的な人物ヤロミールの子供時代。彼を溺愛する母親とともに田舎の別荘へ。小川のほとりにたたずみ「この小川は自分が眼を閉じている時も流れているのだろうか?」とか「この小川はどこから長い道のりを経て流れているのかな」などと、ヤロミールは想像している。その横にいる母親の方は、また別のことを考えている。・・・小川は親から子への血と記憶のつながりでもあるのではないか?眼を閉じる前が母親、後が子供。違う人物ではあるけれど、同じ流れ。 「ハヤカワepi文庫」読むの初めて。 
(2009 05/26) 

二つの夢の間にある手


ミラン・クンデラの「生は彼方に」第二部。 ここでは名前まで変わって、(たぶん)ヤロミールの青年になっていく頃の主要な3つの出来事を、彼の見る夢の側からみていく部なのだろう。そんな3つの夢は変幻自在に他の夢に入り込んだり変容したり、彼は今見ている夢から別の夢へ目覚める。3つの主題からなっている一つの楽章のようなこの部、その主題間の移行部。 いいなあ。って思うよ(笑)。 ちなみに「生は彼方に」というタイトルの言葉が、この第二部の中に出てくる。
(2009 05/30) 

「生は彼方に」の「」の付け方


「生は彼方に」も第三部。今日はその前半部分を読んだ。この第三部は今までより多少長く、現時点で作品全体の半分弱になる。 
さて、標題。この第三部に限ったことではないかもしれないが、「」の付け方が意識的に通常と異なっている。一人の人間がしゃべっている場合は通常と同じなのだが、会話・対話の場合は—例えばヤロミールと母親との対話、ヤロミールと伯父とのチェコの共産党によるクーデタについての対立の場面—一人一人の発言で「」が分かれるのではなく、対話一セットで「」が成立している。だから、「」の中に2人の発言が併存している。
これは対話というものは本来分割できるものではなく、それが産まれた状況により変容する、というクンデラの考え方からきている、のかもしれない。もっと言えば、個人の全く独立した考えというのをクンデラは夢物語だと思っているのかもしれない。 
(2009 05/31) 

インテルメッツォ


「生は彼方に」は第4部。ちょうど小説全体の中間にあたり、クンデラが好む音楽用語で言うと間奏曲といった感じ。その為かどうか、奇数部がヤロミールの話、偶数部がヤロミールの分身の話、という前提が少し弛んで両方の要素が見られます。
間奏曲の間に舞台はヤロミールの青年期から大人に。最後に落ち着く所が食品売場の娘のアパートの一室。そこで青年は大人になったとさ(笑)。 1949年のプラハは、社会主義革命が制度化されてくる時代にあたり、この第4部はその時代を教えてくれている。
(2009 06/02) 

詩人は踊り、小説家は観察する


「生は彼方に」の今日から第5部。チェコでの社会主義革命では詩が民衆を引っ張る役割を果たした。そうした詩を書く人々は韻律のある詩を書き、読み手は読み、お互い踊る。踊っている人はその踊りを非難できない、と語り手は言っている。この頃のヤロミールもそうした踊り手の一人。 一方クンデラには、小説家として「非難」する決意があります。解説に取り上げられている「裏切られた遺言」からの文章がそれを明白に物語っている。「抒情主義への訣別」という。 
(2009 06/03) 

小説は一つの猿股から作られる


と、クンデラは考えている・・・ なんて、思うような「生は彼方に」の第五部中盤。 
この小説には、というかクンデラの特徴なのか、登場人物たちがある配置になった時に語り手というか作者というかがその配置の「解説」を読者にむけて批判的に語り出すところが多い。今日読んだところでは、ヤロミールが今は警官となっている昔の旧友とビヤホールで話す場面や、詩人の会の後のヤロミールと老詩人と雑誌の編集顧問と若い女性映画監督の4人になったところなど。
この後者のところで、ヤロミールと若い女性映画監督の視線が次の展開を見せるのか(このまま行けば叙情詩的になる)、と読者が思ったところで、カール・マルクスの口調を借りて作者が、続いて猿股が(笑)やってくる。クンデラが過度に叙情的になるのを批判している、その批判が小説そのものだと考えているとすれば、この猿股こそが小説を作り出している核となるものといえよう。 今日はこの場面で読み終えることにするが、この後のヤロミールの現恋人へのひねくれた思いや対応が想像できそう。 大変だ・・・ 
(2009 06/06) 

叙情は分館、散文は本館


「生は彼方に」を読み終えた。つい、さっき。 第6部と第7部を一気読み。クンデラによれば第6部はアダージョ、第7部はプレストとのこと。
第6部はヤロミールが密告した元?恋人の娘が3年振りに釈放され、情人であるらしい四十男(画家?クンデラ?・・・第7部でヤロミールの母親に会いにくる「見知らぬ男」がこの四十男だとすれば、母親が画家を知らないはずはないのでクンデラ自身が抜け出たよう(「不滅」みたいに?)なものなのかなあ)に会いにくる。その描き方が見事なまでに巧く、さすがだなあ・・・と思っていると…

第7部でレールモントフ(等)とヤロミールを交互に互い違いに書きながらヤロミールを死へと持っていく(第6部の時間的には前)仕方は、うーむ、第6部のそれより直接的すぎて、正直もっとうまく詩的に書けるんじゃないの?という感じ。でも、それがクンデラのアダージョ→プレストの狙いなのだろう、と思った。叙情主義を批判するクンデラのことは前も述べたが、叙情は第6部のみ(クンデラは「分館」と言っている)にしておこう、自分の小説の行く道は第7部のような批判的な眼差しなのだから、とでもなるのだろうか? 

でも、前もそうだったのだが、クンデラの作品読んで何かわからないところというか腑に落ちないところというか・・・がある(というか、そういうところが全くなく全てわかってしまう小説は本当に面白くはないのだが)。
例えば「生は彼方に」という、このタイトル。いまいち何を表しているタイトルなのかすっきりいかない。ヤロミールの言っている「生は彼方に」とクンデラが考えている「生は彼方に」が180度違う意味なのか、それとも少しだけずれているだけなのか。 クンデラの小説を読むファーストチョイスとしてもこの小説はお勧め。 
(2009 06/17) 

おまけ:ボフミル・フラバル「あまりにも騒がしい孤独」の解説から


訳者、石川達夫氏はフラバル文学の三要素として、カフカの影響・(フス戦争でチェコの貴族層が壊滅的になったことを受けての)庶民的要素・チェコアヴァンギャルドの三つを挙げている。確かに。その中で自分の読後感として今回は庶民的要素を多く感じた。この間読んだクンデラの「生は彼方に」にも似た印象を持った。下からの視線・政治に振り回される人間・チェコにまるでいるかのような世俗描写・・・などなど。 
(2010 01/28)

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