「案内係」 フェリスベルト・エルナンデス
浜田和範 訳 フィクションのエル・ドラード 水声社
福武文庫「美しい水死人 ラテンアメリカ短編集」で収録されていた「水に沈む家」も収めた、エルナンデスの短編集。訳者浜田和範氏は寺尾隆吉氏の訳書で朗読によるチェックを担当してもいる。
(エルナンデスは元々はピアニストであり作曲もしてたそう、エルナンデスの作品邦訳は他に「私に似た女」…「ラテンアメリカ傑作短編集〈続〉」彩流社がある)
「誰もランプをつけていなかった」
(読んだのは大晦日)
作品中、こんな文章ばかり…。
今引いて思ったのだけれど、なんかこの石像の気持ちというかなんというかが自分の中にも中心を占めているような気がする。エルナンデスの作品はこうした個人や人間関係の存立の不確かさを掬い取るというか、際立たせるというか、そういう味がある。か。
(2020 01/02)
「案内係」
「河」はラ・プラタ川…時に「海」とも表される。そのネズミを「案内係」としてこの短編内を彷徨い歩こう(ちょっとグリーンの「事件の核心」の冒頭の蟻の比喩のとこも思い出したりして)
自分と内部にはいるけどしかし自分ではないもの。しかしその二つは共存しなければならない…
(2020 01/03)
「フリア以外」
前の「案内係」は変な光で透視する話だったが、今回は暗闇で何を触っているか想像するという話。一見、反対のように考えるけど、実は共通点もあったり。それは現代生活の道具(光)を出来るだけ使わないということ。元々のこの二作の短編集表題は「誰もランプをつけていなかった」というものだった…
(2020 02/06)
「初めての演奏会」、「緑のハート」
「初めての演奏会」
「緑のハート」
これらの作品は、エルナンデスの自伝的要素から作り上げられている。ハルフォンなどの「オートフィクション」の先駆けとも言えるのかもしれない。「エルナンデス短編集」、ちょうど半分くらい到達。
「ワニ」
ピアニストである語り手が、もう一つ、ストッキングのセールスマンという副業を持ち、全国(ウルグアイというよりアルゼンチンのような感じがするけど)を回る。何か物をじっと見て考えを巡らすと何故か泣くことができる、というのを発見した語り手はそれで副業の売り上げを伸ばす。
ここで効くのが、スペイン語(他の西欧でも)ワニは嘘泣きをすると言われている、ということで。
上の文章はエルナンデス独特の身体感覚を味う文章。「当時」という言葉がここに挟まると奇妙だが、語り手はどの時代にも属さない、遠くであらゆる時代の自分自身を見ている感覚がそこからしてくる。
下の文章は、涙という水の膜で世界と自分とが分け隔てられている、という表現が美しいけど、両方の文とも、今いる時間、空間、そして自分自身の存在をも距離を隔てて見ていて交換可能というエルナンデスの小説世界に引き込まれる。
「ルクレツィア」
というわけで、そういうエルナンデスにとっては、時空を超えて自分を旅させることは不可能ではない。(20世紀?)スペインからルネサンスのイタリアへ旅した語り手。元の世紀というのが、(通史的な)時間的には後というのがまた奇妙だが、地球の景色ではない世界の風景を眺められる現代自体が、それだけで奇妙か。
(2020 02/11)
「水に沈む家」
「エルナンデス短編集」から。これのみ以前、先述の福武文庫で読んだことあり(こちらでは「水に浮かんだ家」となっている)。この作品に限らず、エルナンデスの作品は水とかなり親和性が強いが、やはりこれは格別。
語り手がマルガリータ夫人という人物の家を訪れる。周囲を水で囲んだ…というのを超えて中の家具まで水に浮かんだような家なのだが、噴水は土と植物で埋めてあるという。
こちらのマルガリータは、かなりの巨体…という。
「ワニ」のp110も参照。
こうして、水を見るマルガリータ夫人の文章を拾っていくと、このエルナンデスという作家は水に人の生きてきた道というかそういうものを一貫して見てきた作家なのだろう、と思う。p163の文章なんて、こんな生き方できればいいなあとは思うものの、だいたい何かに固執してしまう。p176の文章については、普段からそういう他の誰かの何かを読み取らなくてはなあ、と思いつつもそこまでたどり着かないばかりで。
このマルガリータ夫人のようにまでいってしまうと浮上してこないかもしれないけれど、日常に埋没する人々への警告(と言ったら、強すぎる?)なのかもしれない。
これで第1部は終了。次は、制作時期遡って第2部へ。
第2部の「クレメンテ・コリングのころ」と第3部の「ギャングの哲学」
「クレメンテ・コリングのころ」は以前書いたようにオートフィクションの先駆的成果のような、自伝的要素の作品。このコリングなるピアノの先生も実在モデルがいるみたい。
でも、作品半ばに至るまで、コリングその人は出てこない…ひょっとしてただタイトルに暗示されるだけなのでは?と思い始める頃、現われる。バスク出身のピアニストで、サン=サーンスも認める即興の腕前だったらしいが、ここでの後半生は自堕落で不潔な生活に徐々に沈んでいく。それを傍目でみている作者とおぼしき少年。
エルナンデスにとって「理解する」とは?
「水に沈む家」の風と木々と木の葉編という趣。あちらでは矛いろいろなところの水が共犯関係にあり、こちらは無関係という結論じみてはいるけれど、著者にとっても読者にとっても重要なのは、そうしたことではなく、そういうことを考え彷徨っている思考の戯れそのもの自体なのだろう。と今は考えてみる。
「ギャングの哲学」は第3部。遡って、彼の初期作品にたどり着いた。若書きのまま中断されたもの。第1部と第2部には、作風はともかく成熟という点ではそんなにかけ離れていない(時代も双方とも1940年代)と思うけど、こっちは相当に離れている。エルナンデス作品の生成の秘密を見ているような。「謎」という言葉も出てきているし。「隠喩」を乗り物だとする書き方も面白い。
(2020 02/23)
「フアン・メンデス あるいは考えの雑貨屋 あるいはわずかな日々の日記」
最初はラストの短編は翌日以降にとっておこうとしたけど、まだまだ読む本はいくらでもあるので、これは上記のまとめの後寝る前に読んだ。
「フアン・メンデス あるいは考えの雑貨屋 あるいはわずかな日々の日記」というのがそれだが、これも初期作品。前衛的なモダニズムを捉えようとしている作品で、前のと同じように未完成のような。
タイトルが意味深だが、語り手フアンによると、三つタイトルがあればどんな好みの読者にも合う、というだけのことみたい。と言っても、どのタイトルもなんか似たり寄ったりでそんなに違わない気が…
というのが、この作品のモットーらしいのだが。いろんなところに振り回されてしまうのはエルナンデスだからか。
(2020 02/24)
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