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「案内係」 フェリスベルト・エルナンデス

浜田和範 訳  フィクションのエル・ドラード  水声社

福武文庫「美しい水死人 ラテンアメリカ短編集」で収録されていた「水に沈む家」も収めた、エルナンデスの短編集。訳者浜田和範氏は寺尾隆吉氏の訳書で朗読によるチェックを担当してもいる。
(エルナンデスは元々はピアニストであり作曲もしてたそう、エルナンデスの作品邦訳は他に「私に似た女」…「ラテンアメリカ傑作短編集〈続〉」彩流社がある)

「誰もランプをつけていなかった」


(読んだのは大晦日)

  ぼくは朗読を続けながらも、石像が自分でもよくわからないある人物を演じ続けるのに必要な無邪気さに思いを致していた。
(p16)


作品中、こんな文章ばかり…。
今引いて思ったのだけれど、なんかこの石像の気持ちというかなんというかが自分の中にも中心を占めているような気がする。エルナンデスの作品はこうした個人や人間関係の存立の不確かさを掬い取るというか、際立たせるというか、そういう味がある。か。
(2020  01/02)

「案内係」

  ぼくは古い家具の下をうろちょろするネズミのようだった。まるで近くの穴に入って思いもよらない繋がりを発見するかのように、自分のお気に入りの場所に通った。そのうえ、あの街の自分が知らない部分を想像しては楽しんでいたのだった。
(p24)


「河」はラ・プラタ川…時に「海」とも表される。そのネズミを「案内係」としてこの短編内を彷徨い歩こう(ちょっとグリーンの「事件の核心」の冒頭の蟻の比喩のとこも思い出したりして)

  ぼくの思考はぼんやりと大股の足どりで、河とぼくたちを隔てるわずかな街区を闊歩する。
(p27)
  ぼくはこれ以上見つめるのがいやで、瞼を閉じるのにずいぶん努力が要った。でもぼくの目には、眼窩のなかを勝手に動く二匹の蛆虫のように暴れ回り、そこから発する光はついに彼女の頭部に達した。
(p43ー44)


自分と内部にはいるけどしかし自分ではないもの。しかしその二つは共存しなければならない…
(2020  01/03)

「フリア以外」

前の「案内係」は変な光で透視する話だったが、今回は暗闇で何を触っているか想像するという話。一見、反対のように考えるけど、実は共通点もあったり。それは現代生活の道具(光)を出来るだけ使わないということ。元々のこの二作の短編集表題は「誰もランプをつけていなかった」というものだった…

  今日はとてもいい気持ちだった。いろんな品物を混同したり、違う品物のことを考えたり、それに予想外の思い出に浸ったり。暗闇の中で体を動かしたとたん、何か変なものに出くわすような、体が普段とは違う仕方で生きだすような、頭が何か重要なことを悟ろうとしているような気がしてさ。
(p67)


(2020  02/06)

「初めての演奏会」、「緑のハート」

「初めての演奏会」

  来客の一人が舞台装置のドアから姿を現し、まるで棺ででもあるようにピアノを見つめた。
(p76)


「緑のハート」

  これらの思い出はみな、ぼくという人間の一角、人里離れた小さな村のようなところに住んでいた。何年も前からそこでは、誰も生まれず、誰も死んでいない。村の創設者は、子供時代の思い出。それから何年も経って、よそ者たちがやってきた。アルゼンチンの思い出だ。今日の午後ぼくは、まるで惨めな暮らしのなか休暇を与えられたかのように、あの村に行ってきたような心地を覚えた。
(p84)


これらの作品は、エルナンデスの自伝的要素から作り上げられている。ハルフォンなどの「オートフィクション」の先駆けとも言えるのかもしれない。「エルナンデス短編集」、ちょうど半分くらい到達。

「ワニ」

  ホテルの部屋の灯りをつけると、当時寝ていたベッドが見える。上には何も載っておらず、ニッケルのメッキがほどこされたその脚を見て、ぼくは誰にでも股を開く若い娼婦のことを考えた。
(p100)
  営業を再開したとき、ぼくはある小さな街にいた。悲しい一日で、泣こうという気持ちになれなかった。一人で部屋に閉じこもり、雨音に耳を傾け、自分が水によって世界と分かたれていると考えていたかった。ぼくは涙の仮面に隠れて旅をしていた。でも顔は疲れていた。
(p110)


ピアニストである語り手が、もう一つ、ストッキングのセールスマンという副業を持ち、全国(ウルグアイというよりアルゼンチンのような感じがするけど)を回る。何か物をじっと見て考えを巡らすと何故か泣くことができる、というのを発見した語り手はそれで副業の売り上げを伸ばす。
ここで効くのが、スペイン語(他の西欧でも)ワニは嘘泣きをすると言われている、ということで。

上の文章はエルナンデス独特の身体感覚を味う文章。「当時」という言葉がここに挟まると奇妙だが、語り手はどの時代にも属さない、遠くであらゆる時代の自分自身を見ている感覚がそこからしてくる。
下の文章は、涙という水の膜で世界と自分とが分け隔てられている、という表現が美しいけど、両方の文とも、今いる時間、空間、そして自分自身の存在をも距離を隔てて見ていて交換可能というエルナンデスの小説世界に引き込まれる。

「ルクレツィア」

  ともかく夜は冷淡で、死体じみていた。月を眺めると、初めてそれを望遠鏡で見たのは元の世紀、もう四十を越えたころだったのが思い出された。あの白い、墓場のような風景の中に大きな山々の影を認めると、ぼくの血は凍りついた。自分が地球のものでない風景を愛でるなんてことが想像もつかず、そんな大それた真似をすれば狂気という代償が待っているに違いないと思った。
(p139)


というわけで、そういうエルナンデスにとっては、時空を超えて自分を旅させることは不可能ではない。(20世紀?)スペインからルネサンスのイタリアへ旅した語り手。元の世紀というのが、(通史的な)時間的には後というのがまた奇妙だが、地球の景色ではない世界の風景を眺められる現代自体が、それだけで奇妙か。
(2020  02/11)

「水に沈む家」


「エルナンデス短編集」から。これのみ以前、先述の福武文庫で読んだことあり(こちらでは「水に浮かんだ家」となっている)。この作品に限らず、エルナンデスの作品は水とかなり親和性が強いが、やはりこれは格別。
語り手がマルガリータ夫人という人物の家を訪れる。周囲を水で囲んだ…というのを超えて中の家具まで水に浮かんだような家なのだが、噴水は土と植物で埋めてあるという。
こちらのマルガリータは、かなりの巨体…という。

  マルガリータ夫人が自分自身の目のなかにしまい込んだ水を眺め続けると、両者の眼差しが、一つの同じ瞑想に立ち止まっていた。
(p159)


「ワニ」のp110も参照。

  わたしも希望を持つなら、できることなら、行きずりの、あっという間に流れ去ってしまうような希望でなければ。そして、それが叶えられるかなんて考えないようにしよう。それがきっと水の本能的な性分でもあるはず。豊かに流れる水のなかに身を浸すみたいに、考えや思い出と付き合わなければ…
(p163)
  船には難破船の話をする人たちがいて、広大な海を眺めるその姿は、恐怖をひた隠しにしているようだった。だが、彼らはためらいもなくあの広大な水を少しばかり汲み上げてバスタブに入れ、裸になって身を沈める。それに彼らは、船底へ降りてボイラーを見学し、そこに閉じ込められた水が火攻めに猛り狂うのを見て楽しみさえしたのだった。
(p170)
  水というのはただ流れながらそのあとに暗示を残していきたいだけなのかもしれません。ですがわたしはやはり、水はその内部にどこか別の場所で拾い上げたものを抱え込んでいて、どういうわけかわたしにその思い、わたしのではないけれどわたし宛てのその思いを届けてくれるのだと、そう思うことにします。
(p176)


こうして、水を見るマルガリータ夫人の文章を拾っていくと、このエルナンデスという作家は水に人の生きてきた道というかそういうものを一貫して見てきた作家なのだろう、と思う。p163の文章なんて、こんな生き方できればいいなあとは思うものの、だいたい何かに固執してしまう。p176の文章については、普段からそういう他の誰かの何かを読み取らなくてはなあ、と思いつつもそこまでたどり着かないばかりで。
このマルガリータ夫人のようにまでいってしまうと浮上してこないかもしれないけれど、日常に埋没する人々への警告(と言ったら、強すぎる?)なのかもしれない。
これで第1部は終了。次は、制作時期遡って第2部へ。

第2部の「クレメンテ・コリングのころ」と第3部の「ギャングの哲学」


「クレメンテ・コリングのころ」は以前書いたようにオートフィクションの先駆的成果のような、自伝的要素の作品。このコリングなるピアノの先生も実在モデルがいるみたい。
でも、作品半ばに至るまで、コリングその人は出てこない…ひょっとしてただタイトルに暗示されるだけなのでは?と思い始める頃、現われる。バスク出身のピアニストで、サン=サーンスも認める即興の腕前だったらしいが、ここでの後半生は自堕落で不潔な生活に徐々に沈んでいく。それを傍目でみている作者とおぼしき少年。

  何年も経ってからぼくは、一番大事なわけでもないのによく目立つものに拘泥しすぎるという不公平な態度に、自分は反抗しようとしていたのだと気づいた。
(p191)
  しかも、一人の個人の中に大きく矛盾する物事があるというのは、日を見るより明らかな真実の一つでもある。
(p209)
  もしあの思念が島にたどり着こうとする生き物だったとするならば、ぼくは幻想の中で島を沈めてあの思念を溺れさせようとしていた。そこでぼくは島に出くわすが早いか、島にたどり着こうとする生き物を消し去った。だがコリングが母親について軽蔑を込めながら話すとき、その生き物は思いがけず必死に生きようともがくのだった。
(p221)
  互いのことをほとんど知らないながら、ぼくたちは理解し合っていた。だが、ぼくたちは、別々の時間と人生を生きていたのだ。
(p244)


エルナンデスにとって「理解する」とは?

  コリングがわが家で暮らしはじめたころ、彼の謎は合図や手がかりで満ちている、そうぼくは気づいた。でもその跡を追う必要なんてなかった。ぼくがぼんやり物思いにふければ、列をなしてやってくるのだ。それに、ほかにもいろんなことが、集まったり通り過ぎたりした。それはまるで、あの木々の下で過ごした晩、ぼくが手がかりのことを忘れて木々の幹を見つめ、樹冠を吹き抜ける風の音を聞き、星空の下で枝々が集まっては離ればなれになる様を眺め、木の葉たちはどんなにざわめき立てたところで、別に互いに言葉を交わしたりなどしていないのだろう、などと思いを凝らすかのように。ちょうどそんな感じだった。
(p253)


「水に沈む家」の風と木々と木の葉編という趣。あちらでは矛いろいろなところの水が共犯関係にあり、こちらは無関係という結論じみてはいるけれど、著者にとっても読者にとっても重要なのは、そうしたことではなく、そういうことを考え彷徨っている思考の戯れそのもの自体なのだろう。と今は考えてみる。

「ギャングの哲学」は第3部。遡って、彼の初期作品にたどり着いた。若書きのまま中断されたもの。第1部と第2部には、作風はともかく成熟という点ではそんなにかけ離れていない(時代も双方とも1940年代)と思うけど、こっちは相当に離れている。エルナンデス作品の生成の秘密を見ているような。「謎」という言葉も出てきているし。「隠喩」を乗り物だとする書き方も面白い。
(2020  02/23)

「フアン・メンデス  あるいは考えの雑貨屋  あるいはわずかな日々の日記」

最初はラストの短編は翌日以降にとっておこうとしたけど、まだまだ読む本はいくらでもあるので、これは上記のまとめの後寝る前に読んだ。
「フアン・メンデス  あるいは考えの雑貨屋  あるいはわずかな日々の日記」というのがそれだが、これも初期作品。前衛的なモダニズムを捉えようとしている作品で、前のと同じように未完成のような。
タイトルが意味深だが、語り手フアンによると、三つタイトルがあればどんな好みの読者にも合う、というだけのことみたい。と言っても、どのタイトルもなんか似たり寄ったりでそんなに違わない気が…

  それは今書き込んでいるノートの快楽だ。今すぐノートを埋め尽くして、映画のフィルムを早回しするようにざっと読んでみたいのだ。
(p270)


というのが、この作品のモットーらしいのだが。いろんなところに振り回されてしまうのはエルナンデスだからか。
(2020  02/24)

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