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「サンティアゴへの回り道」 セース・ノーテボーム

吉用宣二 訳  水声社

(訳者の「吉」の字は実際には下が長い)

ノーテボーム作品翻訳2冊。両者とも同じ訳者、版元。両者とも日本に関係有り。ノーテボームは大の日本好きで何回も来たことがあるそう。
(2019  05/05)

結構ノーテボーム作品紹介続いているらしく、今日神保町三省堂で見た本は「サンティアゴへの回り道」。スペイン、サンティアゴ巡礼に様々な要素をくっつけたようなもの?
(5月に見たのはたぶん「儀式」と「木犀!」)
(2019  07/14)

新宿紀伊国屋書店にて購入

ナンセンス・スペイン


サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の指跡が残る大理石の柱についての考察で、この旅行記?の幕を上げた後、ノーテボームはイタリアこそが自分の無意識的に探していたものが見つかったところだ、と述べる…では、スペインは?

  スペインは残忍で、無政府的で、自己中心的で、残酷である。スペインはナンセンスのために破滅に堕落しつつある。スペインは混沌としている、夢見ている、非合理的である。世界を征服したが、それで何を始めるのかわからなかった。
(p14ー15)

  その歴史の迷路的な多層性の中に迷い込もうとしなかった人は、自分がどんな国を旅しているか知らない。
(p15)


(2020  02/11)

「アラゴンを通りソリアへ」

 説明されえないことだが、私は信じている。地球のいくつかの場所においては、自分の到着や旅立ちが、そこに以前到着し旅立ったすべての人々の感情によって、神秘的な仕方で特別な強度を獲得すると。
(p13)

 そして彼の世界は今突然、大きく静かな要素から構成されているのだが、彼はその要素で何を始めていいのか分からない。
(p16)


彼とは一旅行者(ノーテボーム)のことだが、ちょっと前にはイスラム勢力を追い出し、多くの植民地を獲得したが「何を始めてよいのか分からな」かったのがスペインだった、と書いてある。このスペインとノーテボーム自身の重ね合わせというのは、この旅行記全体のテーゼとなる。
スペインでは、ダリの描く時計のように時が溶けている。

 フェリーぺとカルロスは修道院を建てさせ、統治すべき世界にときとして背を向けて生きた。スペインを多く旅したものはそれに慣れ、無の真ん中で、飛び領土やオアシス、あるいは壁によって囲まれた、内部に向けられた要塞のような場を期待するのである。そこでは静けさと他者の不在が魂を重く責め立てる。
(p20)


(2020 08/16)

「死と歴史の世界」

 われわれは月に飛ぶことができるが、皿の形は基本的に変化しなかった。
(p40)


前章のノーテボームがスペインの小さな村にいた時の、月面着陸の報道を見ながら過ごした…という記述とかかっている。

 国家を救うことができるにもかかわらず、それを救わないだろう-彼らがそれを欲しないから
 人はそのような国に関してどうすべきか。愛するか憎むか。私が愛することを決心したのは、私自身の性格における、同じく不条理で混沌とした特徴によるのだと思う。それゆえ、私は一日の間違った時間、誤った季節にここに立っていて、カテドラルのドアが数時間も閉ざされたままなので、呪っているのである。
(p46)


前半は、スペイン人が党派的で国でまとまることがないということ、そしてそれを受けつつ、自身とスペインという存在の重なりというこの本全体のテーマに結びつけ、後半に移り、現実の即物的悩みに落として笑わせる。ただその苦笑のあと、その旅人の困惑は読者自身としても引き受けているのではないかと、若干の冷たいものも感じさせながら。
(2020 08/24)

「隠された宝」ほか

 しかし同様に、ある野戦を正しく想像することは誰にもできない。そう考えると人は、過去はもう存在していないと言うことができる。過去のイメージは存在しているが、われわれのイメージ言語の中にではない。それらは芸術になってしまった。
(p56)

 朝早く、私は部屋の窓を開ける。しかしそれは窓ではなくのぞき穴である。その小さな四角形の中に私は見捨てられた世界を見る
(p60)


過去と見捨てられたもの。そこから何が書けるのかが作家としての使命なのだろう。
(2020 08/27)

 私は耳を傾けながら、教会前広場を横切る。今、暗くなり始めている。響きは空いたままの塔から来る。月が、夜の丸天井にかかっている刈られた羊毛の薄片の中を通っていく。教会は不格好で陰気な塊である。私は中に入り、別のもっと複雑な空を丸天井に見る。奇妙な模様の中で扇状に広がり、再び自分に戻っていく、高い、石の像たちを見る。
(p74)


スペインの小さな村の教会に入る。外の空と中の空。
(2020 08/29)

ベラスケス「侍女たち」

 私が見るものは、私が見ることができない絵を描いている画家である。その際に彼は、彼が見ることのできない私を見ている。
(p89)

 しかし彼は、私が見ている絵を描いていないのか。私が見ている絵の上で別の絵を描いているのか。その上に誰が見られるのか。
(p90)


この絵のことにじっくり取り組まない方がいいという忠告や、バンコックの娼館の鏡で覆われた飾り窓の部屋など入れながら、視線と存在、次元の違いなどを巧みに感じさせてくれる。
(2020 08/31)

昨日ベラスケス、今日スルバラン

 偉大な芸術は、芸術家を「平坦に圧延する」。彼のモチーフはもう数に入らず、彼は自らの絵の中に消えている。画家は彼の絵になる。またそれを眺める人も、あるいは鑑賞者がその際に考えることも彼の絵となる。
(p100)


これについて考えるのには、ここにあるうちレンブラントやスルバランより、黒人彫刻の彫刻家の方が考えやすいかもしれない。

さてさて、スルバラン。なんか聞いたことあるようなないような…というくらいの印象なのだけど、ノーテボームは彼の絵に因縁めいた惹かれるものがあるらしい。調べてみると、生年没年、1598-1664。日本っぽく言えば江戸初期の人。ベラスケスと同時代、彼の推薦もあった。

明と暗の対比が特徴で「スペインのカラバッジョ」とも言われるらしい、けどカラバッジョよりは保守的でお決まりのテーマしか描かない。ノーテボームがひく、人物の衣服の襞の質感もいいのだが、自分としては静物画がとても気になる…柔らかさを取り入れたムリーリョが登場するに及び、彼の作風は徐々に取り残されていく。
とのこと。
(2020 09/01)

小休憩…

 作家と写真家は騎士とその小姓の外面的な姿について会話を交わした。「道に多くのサンチョを見るが」と写真家は言う。「ドン・キホーテはほとんど見ない。しかしいるに違いない」。彼は正しいが、主人が欠けているので、小姓もまれになるだろうと私は思う。
(p118)


(2020 09/02)

幼年期への回り道

 巣の中のクモのように。今、パーカーの本を読みながら、私はこの比喩を用いる唯一の人間ではないということに気づく。その小さな空間の男、宮殿の中のその空間、スペイン内部のその宮殿、そして彼が相続し、征服したチリやフィリピンにまで及ぶ遠い、この上なく遠い領域すべての中心点としてのスペイン。それと、この男がすべての糸を自分で持つことを望み、そして四〇年以上もそうしたという事実。そうして結局すべての糸がこの空間から出て行き、そしてこの空間の中に走って来たということ。
(p140)

 長い時間そこを見て、それから眼を閉じてみれば、暗くなった網膜の上に燃え上がる迷路が見える。写真機なしに人は生きている。動いている写真を撮ったのだ。それを人はなんとかして内面の文書館におさめなければならない。
(p148)


上の文はフェリペ2世とエスコリアル宮殿について。
また、今日読んだこの2編においては、ノーテボームのオランダ人としての幼年時代の思い出が忍び込んでいる。オランダに圧政を敷いたアルバ公を派遣したフェリペ2世という教育を受けて来た(だから「フェリペ2世はオランダを「救おう」としていた」というスペイン側の記述に唖然とする)、またフランチェスコ修道院での?受けた教育。今の作家ノーテボームと当時のノーテボーム少年が、スペインの無時間で出会う…
(2020 09/07)

様々な時間の様態


「神の記憶の中の瞬間」(一昨日)と「ナバーラの冬の日々」(昨日)

 トゥルヒリョの空洞にされた紋章のあいだを散歩すると、まるで、はらはらさせる残酷な本の最後のページを読み、そして最初のページに戻るかのように思われる-同じ都市が褐色で貧相にそこにあるならば、そしてこれらの宮殿がまだ建てられておらず、冒険者たちが金と世界を求めて出発していないならば。
(p159)


確か?ピサロの生まれ故郷のこの街。新世界で得られた富を故郷の街に宮殿建てた、そして廃墟となった。これらの景観もさることながら、このp159の文、「これから話す物語」に繋がっているのかな。

 一つの気分、二度と取り消されることのない結果を伴った巨大な誤解。しかしその愚かさと運命は、当時よりもむしろ今日、事後になってから解明されるものだ。それぞれの他者の記号を理解しない、二つの文化。その一方はただ存在することを止め、地上から掃き出された。
(p159-160)


ここ傍点も付いてるし、トドロフ「他者の記号学」踏まえているよね?

 四〇度以上の暑さである。雪を手に入れないものは、雪を自分で作るだろう-サフラ、レレーナの家よりももっと白い白を私はどこにも見たことがない。
(p163)

 過ぎ去る時間が、色あせた砂の色をカーテンの赤い絹の中に織り込んだ。
(p168)


時間が可視化されたような、その味わい。

 しかし、この不断に反復される風景の中で私は、自分がどこへも行先のない巡礼者であるように思える。
(p171)


行先のない巡礼者だったら、「回り道」ですらないではないか。さっきのp159の文がノーテボームの円環技法だったとすれば、こっちのは連続微分によって取りこぼされる存在の落とし穴。

 完璧にロマネスク的なそのアーチの中には、頂点に折り目のわずかな暗示が認識される-ほとんど過誤によるもの-上昇運動が。
(p175)


ゴシックの始まり、ロマネスクの綻び。ノーテボームが観察だけでこんなCGのような動きを捉えられるのだとしたら…
(2020/09/10)

鳩は知らない…


ノーテボームは分厚い40年くらい前に書かれたスペイン教会建築の大著を持ってスペインを巡る。章名にあるホワイトヒルはその著書、研究者。先達が村で鍵を借りて見た教会内部を、後年の追随者の時には、その鍵借りた村民がいなくなっている。と、そんな2つの章。

土曜日読んだ分。「ウォルター・ミュアー・ホワイトヒル」から。

 つまり私がこれらの教会において美、あるいは-われわれはそう言いたいのだが-芸術として感じられるものは、あの時代においてまったく美として見られていなかったという観念である。
(p188)


続いて今日読んだ「鳩がそれを知っているかもしれない」から。

 蹄鉄型アーチ、ペルシア由来の空想上の動物、冷たい北部ではほとんど見られなかった様式化された植物、幾何学的な、強迫観念的なフォルム、鏡像的な繰り返し-それらは花粉のように、逃れていく人間のミツバチによってこれら山々の峠道を越えて運ばれた。石から切り出され、羊皮紙に記された。今日でもまだ見られるように、保存された。
(p196)

 老いた男がドアを開けた。われわれは中に入る。われわれを押し戻すように見える、甘ったるい、風味のなくなった空気に立ち向かう。
(p198)

 ひょっとしたらその鳩は、ウマイヤ朝のカリフ王国から持ってきた理念に従って石を切るアストゥリアスの音たちのつぶやきを聞いているかもしれない。鳩はそれを聞いているか、聞いていない。
(p201)


(2020 09/15)

歴史への観察光線

 「事実であったところのもの」
それは真でなければならない。しかしそれについてわれわれが何も知らないものもまた起こった。あるいは起こらなかったのか。
(p213)


「事実であったところのもの」それが歴史と呼ばれるもの…
ちょっと前のところもそうだったけど、ここもシュレディンガーの猫を思い出す。

アストゥリアス地方の記述。この地方出身のベアトゥスという人物が、後に中世様々な本に展開され、またサンティアゴへの道の教会での、読むための彫刻のイメージとして多く使用されたものを書く。そしてこのベアトゥスという人物、当時トレドで中心的であった、キリスト養子論というキリストは神ではなく、神への養子であるという派と争い、主張を通した人物。
(2020 09/17)

ステラマリアとクレオーン


再び海の星(ステラマリア)…ノーテボームのフルネームには「マリア」が入っているという。

「過去は常に現在的であるが、一方で現在的ではない」の章途中で軽く中断してたのを、章最初から読み始める。
レオンのサン・イシドロ教会。ノーテボームは「いくつかのものに再会するために」訪れる。

 石材との関係でここまで多くの窓を持つ教会は存在しない。専門家によれば、その建造物はとっくに崩壊していなければならなかったという。だから、この教会自体は石とガラスからできた天使のようなもの、神聖さの一つの形である。
 私は今この光の中を通っていく。他のどこにもない、色鮮やかな、濾過された光。人はその中に受け入れられる。それは何かを示す。また一種の飛行である。重さの一部が人から落ちた。
(p232)


「クレオーンのための謎」。バスクETAのテロリズムを、自爆テロの同志を埋葬するアンティゴネーと、それを禁止する国家クレオーンの対比として仮に当て嵌め、ヘーゲル、ブレヒト、シャルル・モーラス、デーブーリンなどの「アンティゴネー」解釈を援用してみる。これら解釈のうち後ろの二つは「じつはクレオーンの方が反逆者なのだ」と指摘する。

 ソフォクレスが示そうと企てたのは、神と人間の法から自由になろうと試みる暴君を罰することである。国家の没落を導入するのはクレオーンである。
(p241)


この解釈は自分にとって説得力ある。ちょっとスペインとは離れるけど、この戯曲クレオーンのための劇なのではなかろうか、という感じは少し持っていたから。
でも、この解釈もヘーゲルの上から見た正反合の弁証法も、スペインのクレオーンのためにはならない…
(2020 09/23)

「レオン」は前半は山奥谷の末端のモサラベ式教会、後半はなぜかボルヘスについての随想…だいたいあと100ページ。
(2020 09/24)

「私はとにかくスペインに身を捧げた」と「マチャドの風景」

 いずれ天使がやってくるとき、こんな真昼であるに違いない。静けさと残酷な光の時、紋章がそのシンボルと想像上の動物とともに灰に、読むことのできない粉になる、正午に。
(p266)

 どのオランダ人にとってもこの名は、学校の椅子の恐怖と結び付いている。八◯年戦争への段階をつけられた思い出、残酷と抑圧の、南からやってくる悪の、一つの世紀から次の世紀に手渡されたうわさ。その言葉にはあまりに多くのクモの巣がかかっており、それがスペインにはまだアルバ家が存在していることをほとんど想像不可能にさせている。
(p268)


オランダはスペインとの戦争をして独立した。アルバ家というのはそこでオランダ勢力を弾圧した名前。南米ベネズエラの北にあるABCのアルバとは関係あるのかな。
でも…

 スペインとオランダの性格には何らかの類似性がある。風車のあるマンチャの風景は、オランダの干拓地の風景と同じように無慈悲に天と地に分割されている。それは、誘いも、谷も、ロマンチックな片隅もない絶対的な分割である。スペインの卓上地の広い場所で人は、オランダと同様にほとんど隠れることができない。人は天と地の間に見られる。そして自分を際立たせる。ときどき、オランダのカルヴィニズムとスペインのカソリズムの中の絶対主義的な特徴は、それと関係しているに違いないと私は考えたりする。それゆえにわれわれは八◯年戦争の間完璧な敵だったのだ。
(p270)


…「自分を際立たせる」の自分って誰だろう?

 このほとんど言葉のない声に耳を傾けている、一人の旅人のための一本の木。
(p290)


「ロルカからウベダへ、ある午後の夢」

 最終的に過ぎてしまった時代のこの劇場的な書割の前で、われわれは一瞬だけ、われわれの同型的な生の匿名性から逃れたのだ。
(p295)


ロマン主義的な、個人の時代。権力から自立し守られている個人の尊厳というもの。それが「一瞬だけ」。

 シエスタの夢は夜の夢とは違っている。別の偽りの夜がその中に隠されている。朝に目覚めるのではなく、偽りの第二の始まりであるものに目覚めるという欺かれた思い。一日はそのときすでに生活と食事によって汚されている-新聞と世界の言葉によって。
(p298)


(2020 09/26)

新たな船出、それとも円環


「グラナダからの別れ-盲人と文字」

 どれが静止しているのか、どれが滴り流れているのか、そして
 どれが両者からあふれているのか…
(p304)


噴水の水を見た詩から。グラナダのイスラム宮殿で、もう読むことはもとより、そこに字があることすら判別できなくなっている詩。ノーテボームはそこで、グラナダを去るムスリムになり変わる試行をする…

次は、実際のムスリムの記録から。レコンキスタとそれによるイスラム教徒・ユダヤ教徒の追放は自分にとっても追いかけてるテーマの一つなのだが、こういう生の記録は初めてかもしれない。

 もしこれほど短い時間の後で生き延びることが難しくなれば、人間たちはこの時間の最後に何をするだろうか。両親がもう彼らの宗教から離反するならば、その孫の孫たちは彼らを尊敬するだろうか。
(p314)


続いて「時の終わりへの途上に」

 ときどき、スペインがヨーロッパのためにまだ何かを保存しようとしているかのように思われる。雑音、うわさ、他のところではもう消えてしまったが、かつては、それが自然の一部であるように見えるほど、日常生活に属していたさまざまな活動を。
(p320)


この章の最後はゴメラ島で終わる。そういえば、この本の冒頭は島からスペイン本土への船旅だったな。

そして「到着」。

普通の旅人であれば、この章だけで「サンティアゴへの回り道」と名付けえるものなのだけど。

 私にとって道は回り道以外の何も意味しないことを知っている。旅人の永遠の自己制作の迷路以外の何も。その旅人は何度も横道に、横道の横道に誘われる。道標の上の未知の名前の秘密に、道が続いていない遠くの城のシルエットに、次の丘、次の尾根の後ろに見えるであろうものに誘われる。
(p332)

 接触、石の上を撫でる手が問題なのだ。不可能なことが。というのは、人が望むのは他の生ではないからだ。そうではなく、もっと長い生、別れと再会の円の中で絶え間なく回転する生-ある日満ち溢れて、疲れ、これらの教会のどれかの隙間に横たわり、石の夢の中に落ちるまでの。
(p346)


この章でもさまざまな風景が実に微細に描かれる。廃墟の村、サウラの壁画、冬の丘の上にある教会を訪れてスリップしたのを助けてもらった人のところに自著があるのを見、再会した時も血のソーセージを持ってきた食堂の親父を見て三回目はどうかと考え、サンティアゴの教会の天使ダニエル像の微笑みに八百年前に初めての心理的表現移行を想像したり…

夜、旅人はサンティアゴ・デ・コンポステーラの教会前広場にいる。

 そして再び鐘が鳴る。最初は三度、短く、金属の上に金属の音、乾いた、歌のない音。それから一二の打ちつける音がとどろく。それは路上に時間をたたきつけ、夜を二つに折り曲げる。霊たちの時間。広場は光と闇に交互に包まれる。それによって広場は動いているように見える。広場は海となり、教会は引き船となる。西への途上にあり、後ろで陸地を引っ張っているボート。一つの国と同じくらい大きい、陸地のような船。
(p362)


そしてスペイン全体が大陸から切り離され、夜の海へ旅立っていく。それとともにこれまでのさまざまな主題も。日本と同じく西の海は冥土へと続く。そういえば、「これから話す物語」でも最初と最後は船旅だった…

 それから突然、まるで時が静止したかのように、音は止む。旅人は大きな石の板の上に自分の足音を聞く。彼は塔や厳格な宮殿の上に月の光を見る。この過去の砦の後ろに別のスペインが横たわっているに違いないことを知っている。
(p364)


肉体は一つしかない。しかしさまざまな時代のさまざまな場所の人に移ることのできる可能性を、旅人は秘めている。その人の内側に、無限に。

こういった体験なら、自分を振り返ってみても、旧東海道を歩いた時や、山道を縦走している時など、そしてイスタンブールでボスポラス海峡の城壁から眺めた時や、ベルギーのトゥルネーの中央広場の夜や、プラハ旧市街広場でカフカの生地見た時、ポーランドの平原で第二次世界大戦後の国境線移動による人々の移動を思い描いたこと…など、時々何かが見える時がある。それが、この作品冒頭の文で述べられていたことなのだろう。
…とにかく、(分からないところも多かったけれど)読み終えるのが惜しかった。
(2020 09/27)

おまけその1

出典は、「世界の書店を旅する」ホルヘ・カリオン 野中邦子訳 白水社…から、ノーテボームの文章

 そのふたつの国はおたがいへの郷愁を告白しているかのようだった。その郷愁が理解できるのは、オランダの大西洋岸に住む人びとくらいだろう。そこではベルリンから始まって無限に広がるかのような平原が神秘的な魅力を放っている。遅かれ早かれ、そこからふたたびなにかが出現するにちがいない。そのなにかはいまこの時点では理解できないが、すべての予想を裏切って、ヨーロッパの歴史をもう一度転換させるに違いない。巨大な陸塊がこうして転回し、滑り、西側の末端へ崩れ落ちる。まさに一枚のシーツのように。
(p90-91 セース・ノーテボーム「死者の日」より)


「サンチアゴへの回り道」での最後の描写を思い出す。西の海に流れていく陸という情景はノーテボームの固定観念なのかも。
(2021 08/30)

おまけその2

ジョゼ・サラマーゴの「石の筏」(1986)という作品は、ピレネー山脈でイベリア半島がちぎれ、アフリカと南米の間に留まる、という話。「ポルトガルのEU加盟に反対している作品なのでは」とか評されたらしい(実際は知らないけれど…ただサラマーゴ自身は、スペインとポルトガルが統合すべきだ、と考えているみたい)
とにかく、ナポレオン以来?こういう空想は連綿と続いている。
(2021 11/04)

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