「崩れゆく絆」 チヌア・アチェベ
粟飯原文子 訳 光文社古典新訳文庫
1958年ナイジェリア始めアフリカ諸国が独立の機運に沸き返っていた頃の「アフリカ文学の古典」。それはアフリカ人が自分達の言葉(言語は何であれ)で自分の歴史や心性を描こうと決意した最初の作品であるからだ。ちなみにアチェベの父は熱心にキリスト教をイボ人に布教しようとしていた人物であり、そんな父親に厳格なキリスト教教育で育てられたアチェベはまた周囲のアフリカ人の呪術的生活にも興味を持って接することになる。訳者は「あいはらあやこ」と読む。難しい読みだなあ。
(2017 07/23)
アフリカのことわざ
「崩れゆく絆」アチェべ
ナイジェリア、イボ社会。アフリカ人(っておおがかりなくくりもどうかと思うが)が自身の言葉でアフリカを描いた画期的な作品という。だから?文化人類学興味も読んでるといろいろ目覚める。訳者注もその点でも親切。以下、これまで読んだところから気になるところを箇条書きに。
客をもてなす時のコーラの実、ワニ胡椒、チョークの1セットなど。
一週間は4日。4種の市の日の組み合わせ。
市は単なる物々交換の場ではなく、宗教的な意味を持ち合わせる。
名前もその生まれた日の市の名前からつけられる。
渡り鳥トビと織物云々のところはよくわからず。
アフリカではことわざは大きな意味を持つ。そういうの集めた絵本みたいなのあったよね。日本でも昔はそうだったのでは。ことわざのほか川柳とか歌の文句とかいろいろ。
月が出ている夜と出ていない夜の差異。月の出ていない夜は静かで恐ろしい。月明かりの夜にはそれが一変する・・・
これもことわざ。
(2018 11/13)
「崩れゆく絆」の構図
もうすぐ第1部終わるところ。3部構成なんだけど、第1部が半分強になる。この第1部が西洋人来る前のイボランド(現在のナイジェリア東南部)。第2部で中心人物一家が村を追放され別の場所へ。第3部では戻ってくるのだけど、もう西洋植民地化が進んでいるという構成。第1部では円環というか行きつ戻りつというか、そういう筋がない感じなんだけど、第3部は西洋的に直線的時間となる。そういう感じ。
第1部は西洋人が直接来る前なのだけど、ピジン英語の入り込みや、白人のことを足の指がない奴(靴履いてるから)とか、予兆はかなり感じ取れる。
でも今のところは伝統的イボランド。かなり男性中心主義で力支配。登場人物もそこに遅れないように自分の弱さ、息子の弱さをなくそうと心がけるのだか…
(2018 12/18)
直線的になってきた…
「崩れゆく絆」第1部から第2部に突入。ページ数でいうと200ページ越え。
西洋人が入ってくるのは第3部からか、と思っていたけれど、第2部そうそうから入ってくる。実際の虐殺事件を下敷きにした、自転車に乗った白人を殺したことから始まったアバメという集落の全滅、そしてキリスト教伝道師。
直線的時間観を持つキリスト教が小説の時間の流れも変えてゆく。現段階ではイボの価値観から取り残された人々しか信者になっていないけれど、しかし中心人物の息子もこの中に取り込まれていく。それは第1部冒頭のよその集落から連れてきた同年代の子(同じ家で暮らし兄とも思う)の掟による殺害や、その他もろもろがこの青年に与えてきた圧力への問いの解法に思えたから。
そこまでいかなくても、第1部最後の中心人物の友人の独白はこのイボ世界への根本的な疑い、問いとなって全編を貫いている。
あと、やはり訳がいい。微妙な違和感をわざと残しておくなど。
(2018 12/19)
「崩れゆく絆」読了ーとりあえず
もちょっとしっかりした感想は後で書くかもしれない。とりあえず2点。
1.西洋人の手下の廷吏にも微妙な立ち位置があるのでは? イボ社会で忌み嫌われていた人々であった…とか
2.廷吏の首を斬ったオコンクォ(中心人物)の行動はわかるが、その後首吊って自死したのがよくわからない。イボ社会でも自殺は異端視される。闘うだけ闘うはずだったのでは?
アチェべの次作「もう安らぎはえられない」はオコンクォの孫が西洋人から賄賂を受け取り自滅するという話なのだけど、これはアイルランドの作家ケアリーの「ミスター・ジョンソン」に類似させている。
一方この「崩れゆく絆」はハーディーの「カスターブリッジの市長」に似ていると訳者は言う。エピグラフ及びタイトルはイェイツだし。西洋作品との繋がりを表向きには否定しているアチェべだが、これは意図していることであろう。植民地時代に西欧で教育を受け育ったアチェべにとって、この作品でイボを描くことは「放蕩息子の帰還」であった、と言っている。
引用はするつもり…
(2018 12/21)
「崩れゆく絆」補足
まずは引用。
ニシキヘビは第2、3部で重要になってくる。この地域では神の使いとして敬われている。
(補足の補足:「虹」という漢字は元々「(天を)貫く(工)、ヘビ(虫)」という中国の考えから来ているという…)
次は解説読んで少し。
オコンクォには元々のイボ社会が持つ柔軟性からのズレがあった、と書いてあったが、ちょっとそれはいまいち気づかなかった。もちろん、オコンクォが村の中で保守的、武断派であることはわかるが、それはこの村にあったことで、柔軟性のことにはあまり読んでいる最中には眼が向かなかった。本人は知らずに自分の災厄を自分で招いていたのかもしれない。
(この「崩れゆく絆」を含んでいる、ハイネマン社とプレザンス・アフリケーヌ社のアフリカ文学シリーズって他にどんなのあるんだろう)
(2018 12/22)
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