「夜のみだらな鳥」 ホセ・ドノソ
鼓直 訳 集英社版世界の文学 集英社
現在は同じ訳が水声社の文学のエル・ドラードシリーズで復刊。この本は手元におきたいのだけれど…
(面白かった割に、あまり書いてないので、補足でごまかす(笑))
幻想の金太郎飴小説
ドノソの「夜のみだらな鳥」。まさに自分好みの長編というべきか。世界から隔離された修道院に秘め事に伝説。
人間の穴という穴(口とか鼻とか、まあ、いろいろ…)を縫い合わせて閉じて、暗闇に閉じ込めておく、という恐い隔離方法があるという。物語の序盤に死んだ老婆の部屋から出てきたたくさんの包みから始まり、ドノソは執拗に「閉じ込める」ことを描き続けていく…
(2008 04/28)
これはだんだん盛り上がっていくのではなく、ずっと始めから幻想突入。幻想の金太郎飴状態…
(2008 04/30)
「夜のみだらな鳥」はますます気持ち悪くなっていく(笑)。移植とか生体実験とか、ビオイ=カサーレスとかドルフマンとかにもあるけど、チリやアルゼンチンでは割と盛んなのだろうか?
(2008 05/07)
「夜のみだらな鳥」を読み終えた。図書館で延長手続きしなくて済んだ(笑)
最後くらいはあっさり終わるのか、と思いきや、カボチャが500個も届く…カボチャって恐いくらいにこの小説の「包み」に近いイメージではある。
(2008 05/12)
補足1:「脱皮」と「春の祭典」
「脱皮」を読み終えた。2段組で430ページという大作。
ここ1、2年で自分が読んだラテンアメリカ文学の大作である、ドノソの「夜のみだらな鳥」とカルペンティェールの「春の祭典」の関係を勝手に少し考察してみると、明らかに幻想の支配する「脱皮」は「夜のみだらな鳥」に近い。ただ、次から次へと手に負えない幻想が飛び交う「夜の…」に対して、「脱皮」はクレッシェンドに幻想の幅が広がっていき他の幻想をお互いに浸蝕していく。
一方、「春の祭典」とは歴史的視点(ナチスとか)もあるのだが、それより作者の分身の要素が濃い主人公(「脱皮」の場合は主人公達)が、作家であると同時に建築家であるところに共通点が見出だせる。作品の構造の骨組が見える(見えそう)ところ、いや、もう少し深く考えて建築家思考ともいうべき何か(何だろう)がありそうだ。何か…
(2009 02/23)
補足2:フロベール「感情教育」とドノソとの関係
「感情教育」第3部第4節の後半。フレデリックがダンブルーズ夫人の過去の男関係が気になった時のフロベールの比喩で、女の心はいろいろ細かい引きだしみたいなもので、一生懸命奥の方の引きだしを開けてみても、中には干からびた花しか残っていない…という表現があった。たぶん277ページくらい…
ここ読んだ時、自分はドノソの「夜のみだらな鳥」を思い出した。あの作品はとにかくそうした花を拡大化、幻想化して全面的に展開したような作品。療養所の中で老女達は荷物の中にいろいろ昔から持っている役に立たないモノを捨てられないで入れている。それがこの小説(「夜のみだらな鳥」の方)のテーマであるオブセッションの象徴みたいになっている。ひょっとしたら、ドノソはフロベールのこの箇所を読んでインスピレーションを得たのだろうか?
(2011 01/19)