「火山の下」 マルカム・カウリー
斎藤兆史・渡辺暁・山崎暁子 訳 エクスリブリス・クラッシックス 白水社
火山の下
今日から「火山の下」を読み始めた。久しぶりの長編&ハードカバー。
時代&場所背景は1939年のメキシコ・クエルナバカ…変な名前の地名だが、実在する。クエルナバカは本文中では旧名のクワウナワクになっている。この町のイギリス領事と別居中の妻…らを中心に「死者の日」と言われる(確か)11月始めの一日を細かに描いていく…
20世紀って一日モノ?好きだね(笑)。
(2010 08/03)
ロードジムの後継者
「火山の下」第1章読み終わり。主人公?の領事はその昔第一次世界大戦時に捕虜のドイツ兵を船の炉にぶち込んだ…とかいう噂があって、それがロードジムになぞらえられている。こっちの主人公はあんまり良心の呵責を感じてない…と語り手(第三者)は言っているが…どうだろう。酒びたりになっている理由の一つにはなっているとは思うが…
(2010 08/04)
「火山の下」は第2章。第1章の一年前の死者の日。領事ジェフェリーと帰ってきた(元)妻イヴォンヌ…「火山」がだんだん具体的描写で出てくる。
(2010 08/05)
鉤括弧の超自我と、括弧の長いトンネル
火山のこと?
第3章では今度は領事ジェフェリーの視点で。ジェフェリーの「超自我」的なものが「」付きで句読点なしで散乱していくのをたびたび見る。無意識ではなくて超自我というのも珍しい・・・かな?
(2010 08/06)
p116の()内はイヴォンヌと別れた直後のジェフェリーの行動がわかるだけでなく、この小説の標題「火山の下」という意味、またこの小説がダンテの「神曲」の地獄篇を意識して書かれたということが、伝わってくるところ。
()を閉じて、現在の会話に戻るところはなんだか長いトンネルを読者も抜けてきたような感じで、そしてうまく繋がってなかなか巧み。
第4章は今度はジェフェリーの腹違いの弟ヒューの視点から。メキシコはこの時代(1938年)石油国有化を宣言し、施設所有者であった英米と対立関係にあった(その後大戦が始まるとそれどころではなくなるのだが)・・・ということがヒューの話からわかる。
(2010 08/07)
隣の庭
第5章、ジェフェリーの庭の隣?の看板。この文句がなんだかだんだん強迫じみて変化し、領事の心の中にしみわたっていく。・・・「庭」を地球とか社会とかいろいろに変えれば、現在の世の中にも通用できそうな文言。
そういえば、第4章でヒューにさんざんカナダ・ブリティッシュ・コロンビアの悪口言わせているところがあったけど、この小説自体はまさしくカナダのそこで書かれたものなのなのだけれども。
(2010 08/09)
「火山の下」は第5章まで終了。酒びたりになるということは、自分の精神錯乱の様子を精密に観察できる…ということだろうか?この領事の場合…
(2010 08/10)
置き換え可能な侮辱語
スペイン人がインディオを、インディオがスペイン人を「ペラード」という侮辱語で呼ぶというところから。この内容自体は半信半疑から2/3信1/3疑くらいに感じて読んでいた。
しかし、半ば唐突に現れるこの文章(そもそも、この小説内の文章で唐突に現れない文章などあっただろうか?)、ジェフェリー達に置き換えてみると、その侮辱語の意味は「酔っ払い」とか「落伍者」とかいうことになるのかな。ジェフェリーだけでなく、イヴォンヌ、ヒュー・・・それからラリュエルも・・・ひょっとして、読者も?
(2010 08/19)
酔っ払いの文学
コツコツコソコソ読んでる「火山の下」。今日はまた領事の視点に戻り、どうやら酔いが回ってきたよう。今まで飲んできた酒瓶やグラスなどをかき集めてきては割る…という夢?を見てたりする。
こういう途方もない酔っ払いといえば、やっぱり(酔っ払ってなかったかも?)こちらも一日を拡大表現した「ユリシーズ」。というわけで、やってなかった、やらなきゃならない?二作品比較…
結論だけ書くと、「火山の下」は酔っ払いが精神研ぎ澄まして書く文学、「ユリシーズ」は酔っ払いのフリして書く文学。ということ…かなあ。そして、どっちもどんどんあふれてくる。
(2010 08/23)
同じコマの繰り返し
さっきまで、「火山の下」読んでいた。いよいよ470ページ、終わりも近くなってきた。
第12章では領事が「なんだか繰り返しの短編映画を見ているようだ」と感じています。読者としても、雄大なる長編小説というより、短編や詩のコラージュではないか、という感じ。それに対し、夜空の円環が表現されている前章。コラージュと円環、この二つは小説内の軸としてある…でも?、領事は「地獄」を選んだ…
この小説の一番のバックボーンはダンテなのだが、「神曲」読んでない…
(2010 08/25)
上昇と落下(「火山の下」読了)
この小説は第1章以外は全て「一日」の拡大描写だったので、この文章は作品全体を貫く基本といってもいいかもしれない。ということは、この小説全体が「冷酷な草」であり、「振りかかってくる石」なのか?
ずいぶん厚い石だなあ・・・
と、それはともかく最後に2つの視点からみていこう、か。
1、ジェフェリーとイヴォンヌ
第11章ではイヴォンヌが天上の天体に運ばれ、最終章ではジェフェリーが火山の頂きに着いたものの結局落下していく・・・という対照的な死の描写をしているわけなのだが、これ、じゃイヴォンヌが正しくてジェフェリーは正しくない・・・という単純なことで片付くわけではないだろう。じゃ、いったい「何」を?
2ジェフェリーとヒュー
ヒューに関しては特にこの後どうなったとかの記述はないのだけれど、なんとなくスペインの戦線かそれともスペインに向かう船上で命を落とす・・・のではないか、と想像してしまう。上(絶対者)からみると、政治的理想に頼ろうとしているヒューも、酒場という地獄?に賭けようとしているジェフェリーも、大同小異、両者とも児戯に等しいということにでもなるのかな? 1のイヴォンヌも含めて。
ま、それが「人間存在」というヤツですかい・・・
というわけで、今日で「火山の下」を読み終えた。
(2010 08/27)