「アメリカの鳥」 メアリー・マッカーシー
中野恵津子 訳 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集
河出書房新社
アメリカーヨーロッパ
アメリカからヨーロッパへ渡る19歳の青年の教養小説? カントの「他人を道具として使ってはならない」という格律を指針にしているというアメリカ人らしいこの青年がいかなる道を歩むのか。最初の場面は、アメリカワシミミズクという鳥が死んでいるということを告げられる場面。ここでも老婆にそのことだけを聞く為に立ち寄ったことで「道具利用か?」と思い悩み、「(行く予定だったけど父の反対でやめた)ミシシッピの公民権運動に行かなくてよかった」などと思う。この青年ピーターはそんなふうに内省的なところがなんとなく自分には親近感を感じる。では、ここはどうか。
多重人格というより、ここでメタファされている軍隊のように匿名の集団なのだろう。不思議な感覚だが、その始める「こと」は彼らにはまだ知らされていないのだろう。そしてこれからも。
メアリー・マッカーシーは1912年シアトル生まれ。再婚相手はこっちは3回目のエドマンド・ウィルソン。この高名な文学評論家との結婚生活でメアリーにとっては一人息子を得る。結婚自体は暴力沙汰の喧嘩が多く離婚となったけれど。この一人息子が先のピーターのモデルの一人となっている。
メアリー・マッカーシーでは、前に図書館で借りて少しだけ読んだ「アーレント=マッカーシー往復書簡集」もある。
(2018 07/08)
前菜の安楽死…
家で少しずつ読んでる「アメリカの鳥」より。
時は1964年頃。急激に変わりつつあった日常生活に対して、古い料理の仕方を通そうとするピーターの母親と周囲との「戦い」が戯画化して描かれる。でもこの母親って、作者が一部入ってるんだよなあ。前菜もこの頃からアメリカ家庭から消えつつあったという。
(2018 07/27)
「ロッキー・ボートの戦い」最後まで。パレードの際の警官とのいざこざで拘置所に入れられたピーター親子。拘置所屋上で見る花火が「アメリカ編」のラストシーンらしい。
(2018 07/29)
ピーター混乱の時
「アメリカの鳥」はフランス編。船でル・アーブルに渡り、そこから列車で。パリではチップに悩まされる。アメリカ人でも迷うのか…彼にはそれに例のカントまで絡むからなあ…もっといろいろ書きたかったような気もするけど忘れた…
(2018 08/12)
「嵐を予告するウミツバメからの手紙」、母宛てのピーターの手紙。署名は「気狂いピエロ」と書いているけれど、ゴダールかい、と思わせて、この手紙は1964年、映画公開の前年というから、これも仕掛け?
それはともかく、カント仕立てのアメリカ青年は、ここパリに来て混乱の時期を迎えているようだ。彫像の顔を切り落としたフランス革命についての評価の揺らぎに見られるように。
そんな彼の生み出した説を。
フランスからアメリカへ、そして西部へと。地球上にフロンティアというものがなくなった現代では、どこへ?
混乱ついでに、彼は自分の場所を見失いそうになっている。
まだ半分強残っている。
(2018 08/13)
円卓を囲んで
まずは木・金に読んでいた「アメリカの鳥」から。「円卓を囲んで、乙女パースネットとともに」は、感謝祭でのアメリカ軍人家庭が周りのフランス人を含めた人たちを招いたホームパーティ。ピーターはそこでベジタリアン?のロバータが気になっている御様子。
この章(まだ途中だけれど)から二つ引用。
そうかなあ。自分の場合、それはどこだろうか。全部「弱い」と思っているのだけれど。
ここなど映画化でいい効果出そうな感じ。というか、映画というものがなければこういう表現は生まれなかったのかも。
それは言い過ぎか。
昔の方が知覚とそれに対する注意は鋭敏だったと思うし。
(2018 08/19)
ローマのアメリカ人
アルトゥーロの言葉。この時代、1960年代にはアメリカ的物質文明はまださほど西ヨーロッパにも押し寄せてなくて、イタリア人アルトゥーロにアメリカの機械文明を伝えるのにクック船長のような心持ちになった、と冗談めかして書いてある。こういう微妙な時代背景と感覚はなかなか気づかないところ。一方、アメリカではピーターの母親がこうした「文明化」に対して戦っている。
…というピーターとアルトゥーロの散歩途中に古い絵看板があるのを見つけて、ピーターが喜んだのに対してアルトゥーロが言った言葉が先の言葉。
続いてクリスマス休暇にピーターはローマへ。
ピーターはパリに比べローマをとても気に入っているのだが(父親はイタリア系の設定)、これは作者マッカーシーの体験と重なっているのかどうか。
次はシスティーナ礼拝堂で、ピーターとばったり会った指導教官のスモール先生の場面から。どうやらピーターはこの指導教官とそりが合わないらしいのだが、作者マッカーシーは、どちらにも肩入れはせずさらりと書き続けていくように思える。これはこの作品通して言えること。引用部分はそれとはあまり関係ない箇所(笑)
さっきのp325の文章と共通する俯瞰した描写、ピーターのユダヤ人出自、それにトカルチュク「逃亡派」に通じる移動というテーマ。これらが重なり合う箇所。
(2018 08/26)
「自然の死」、そして
「アメリカの鳥」最終コーナー…
1965年2月7日。その翌日に友人のシリーに歯医者でばったり会う何気ないところから始まって、前夜クロシャール(パリの浮浪者)の女をピーターの部屋で寝させてあげた、その日はアメリカの北ベトナム爆撃開始の日。ピーターの心の中での最後の自分の国に対する支えが崩れ落ちた日。そして「戦争には行かない」ことを決意したピーターは、「黒い白鳥」に手を突かれる。
それから一週間…一旦は学生生活に戻ったが、ペニシリンアレルギーで倒れて、アメリカンホスピタルの病床に寝ている。起きた時いろんな登場人物がたくさん見舞いに来ていた、というシチュエーションは、なんかドストエフスキー「罪と罰」とか思い出してしまう。
というわけでさりげなく終わっていくのだろうと思っていたのだけれど、意外に?大団円な仕上がりで楽しい。で、これら母親始め登場人物達が退いたあと一人ピーターの寝床に現れるのが、この小説のキーマンというか影の主役というかのカント。ケーニヒスベルクから特別に(?)駆けつけたカントはピーターに向かって…
そして、この結末に呼応するように、小説冒頭のアメリカワシミミズクの死が立ち現れる。
そしてこの今、自然は死に絶え完了という感じがひしひしとしている。
というわけで読み終わったのだが、想定以上に読んでてなかなか楽しかった。
具体的な描写や出来事を突き抜けて、ユーモアと批判でくるむというのは、ひょっとしたら女性作家の共通する持ち味なのかも。今年読んだ中ではスパークもそう。
一方、今年読んだ男性作家、ジェイムズやパヴェーゼでは突き抜け視線を避けて緻密に閉鎖的に語っているような。ジェイムズで思い出したのだけれど、ジェイムズ短編集の「教え子」の天才少年?がピーターであった、という筋立てはいかがであろうか。イタリアそしてパリへ移るということで…パリの空の下、生死の境にある二人の青年が混ざり合い、入れ替わって…
とか。
(2018 08/28)