「「すべての野蛮人を根絶やしにせよ」『闇の奥』とヨーロッパの大量虐殺」 スヴェン・リンドクヴィスト
ヘレンハルメ美穂 訳 青土社
大和市桜ヶ丘の冒険研究所書店で購入
(2023 11/04)
暴力の源泉
著者はスウェーデン人作家。タイトルにある「すべての野蛮人を根絶やしにせよ」というのは、ジョゼフ・コンラッド 「闇の奥」にある登場人物の言葉。
一昨日から夜少しずつ読んでいる。これも?旅行記、回想、文献研究、「闇の奥」について、と様々な分野の様々な層が織り込まれている書き方。
一番のベースにあるのは、「大量虐殺や人種差別はヨーロッパ文化の基層にあるのでは?」という考え。
また、読んでいくと、人種差別とかを越えて暴力というもの一般をも考えているように思われてくる。
「狂気」は「狂喜」でもある。
回想では、父親が白樺の枝で息子(つまり作者)を叩いたり、母親が祖母の持ち物を「臭いがする」と捨てさせたり(清潔概念もまた「その文化」に通じるものであろう)。
ベルギー領コンゴでは、当時(19世紀末、コンラッドの「文明の前哨地点」は1897年発表)の西洋人の多くが、現地黒人への暴力に加担し、「文明」を教えてやるくらいの考えだったらしい。中には、鞭を振るっていて体調を崩した西洋人を多くの周りの黒人が介抱して、体調が戻ったら鞭を振るうのを再開した、という例もある。ただ、この時期からぽつりぽつりとそれを疑問視する声も出てくる。その例の一つが、まさに母親の「大量虐殺」(祖母の本を捨てる)から幼い著者が救い出した本「椰子の木の陰で」(1907 著者はエドヴァルド・ヴィルヘルム・シェーンブルムという宣教師)だった。
これらはコンラッド 「文明の前哨地点」から。暴力の根源を見極めようとする、コンラッドのそして著者リンドクヴィストの執念を感じる。
(2023 12/22)
19世紀が終わる頃、何かが始まる…
第2部を一気に読む。
前半はスタンリー(英国の冒険家)のエミン・パシャ救出劇、オムドゥルマンの戦い(イギリスがスーダンでマフディー教徒軍を粉砕した)、ドイツの東アフリカゴゴ族の村焼き払い、アシャンティ王国やベニン王国の占領、などを例に挙げて、19世紀半ばまではヨーロッパと第三世界の歩兵での軍事力はさほど差がなかった(海では海上からの大砲で占領したものの)、大砲常備の蒸気船が川を遡り、銃がヨーロッパで改良されたことにより、オムドゥルマンの戦いではほとんど無傷で接近させることなくマフディー軍を倒した。
このような征服者がベルギーやイギリス等々で大喝采浴びる中、コンラッド は作品を書き始める。スタンリー-エミン・パシャ(救出とはいっても、エミン・パシャはスタンリーにバガモヨ(アフリカ東海岸)までは同行させられたものの、脱出して元の場所へ戻っていく)の関係は、マーロウ-クルツの構図に呼応する(ただし、「闇の奥」ではクルツに暗黒部が移っている)。など。
また「友人たち」では、コンラッドが参照した作家として「タイムマシン」、「モロー博士の島」、「透明人間」、「宇宙戦争」のH・G・ウェルズと、「いまいましいニガーども」、「マグレブ=エル=アクサ」(モロッコ紀行)、「ヒギンソンの夢」のカニンガム・グレアムがあげられている。ウェルズの作品は全て植民地主義・帝国主義に対する批判としても読める。グレアムはスコットランドの貴族で社会主義者でもある人物。コンラッドは友人として付き合い、グレアムの本の校正もしているが、政治的な面では理解できないところもあったという。コンラッドは自身の父親をそこに見たのかもしれない、という。
知的領域の下に組み入れられる差別
ジョルジュ・キュヴィエはフランス革命の頃、生物種の中で絶滅しているものがあることを発見。生物種が全て繋がっている(さすがに創世記通りとは思っていない)としていた当時の考えに驚きを与えた。彼は絶滅については論じたが、種の誕生は論じていない。またバルザックが「あら皮」でキュヴィエを絶賛?
こうしてキュヴィエは、人類を3つの「人種」に分け、そこに優劣をつけてしまう。
カナリア諸島のグアンチェ族(ヨーロッパによる民族絶滅の「幼稚園」(最初の例)、タスマニア人の絶滅。
19世紀前半まではまだ「絶滅してしまうのは残虐で行き過ぎ」という批判や世論があった。が19世紀半ばに風向きが変わり「絶滅してしまう民族・人種は自然の摂理で仕方ない…という考えを元に、文明化するのだから、自民族(特にアングロサクソン)が劣った原住民の土地を奪って彼らを絶滅させるのは当然だ」という思想に変わっていく。そこに関与したのが進化論。その時代に活躍したダーウィンはアルゼンチン・パンパのインディオ撲滅運動を目の当たりにする。
以上はウォレス当人の思っていること…当たり前ではないか、とも思うのだが…
こちらも端的に言ってしまえば、ウォレス始めグレッグ、ゴールトン(例のダーウィンの従弟)などこの時代の学者達は、自身の知的階級が庶民・中流階級に取って変わられそうなことを感じている。そして、厄介なことに、その「矛盾」によるもやもやを、「「人種」間の闘争では正しいよね」と慰みあっているようなのだ。
時々挟まる、著者リンドクヴィストの回想と虚構の断片のようなもの。前者はともかく、後者は緩やかに前後の断片につながるような、未来の絶滅物語なのか。
(2023 12/24)
「生存圏」
残り読んで読み終わり。
最後はドイツでの民族虐殺と、「闇の奥」をなぞったというかそれ以上の展開のフランス中央アフリカ制圧隊の話が主。ドイツは植民地がなかった頃は、どちらかというとイギリス・フランス等の植民地支配、民族虐殺の思想を批判する学説が多かったが、自身が南西アフリカなど植民地を持ち始めると「生存圏」という「優秀な民族の為なら劣等な民族はいなくなって土地を空けるべき」という思想が出てくる。ただここで著者が指摘しているのは、もはやそうした考えは西洋一般では主流ではなくなりつつあるということ。特にドイツは経済成長などが見られ、そちらの道を行く方が、植民地獲得競争で背伸びをするよりよかったという。
ヒトラーの一連の民族撲滅、移住計画は、これら生存圏の考え方をヨーロッパ大陸内、ユダヤ人やロマ人などに適用したもの。
フランス中央アフリカ制圧隊では、中心人物二人の暴走が明るみになり、隊の解除を伝えにきたクロブ中佐(「闇の奥」ではマーロウ)を中心人物ヴーレ(クルツ)が銃殺する。
この本の主題と関係あるのかないのか、著者はサヘルの遊牧民(トゥアレグ等)の生活域を心配している。ここでの記述は前に読んだ「トゥアレグ」の旅程とかなり重なる。ひょっとしたら、実際にすれ違っていたりして…
砂漠を走りだして五時間経ったところで、急にまわりが畑になった。耕地の境界線が広がって、砂漠の境界線と一致している。かつて遊牧民が砂漠と畑のあいだに見いだしていた脆い生存圏は、もう存在しない。
(p252)
ここの「生存圏」は上記ヨーロッパの特殊な概念ではなく、生態的圏域のことだろう…いまや、各民族の「生存圏」は暴力ではなく環境で徐々に縮小してきている。
(2023 12/25)