「ボマルツォ公の回想」 ムヒカ=ライネス(前)
土岐恒二・安藤哲行 訳 ラテンアメリカの文学 集英社
(あまりに長文なので、この本のみ?前後編分ける)
ムヒカ=ライネス情報。最近(でもない?)短編集「七悪魔の旅」も邦訳が出た。
あと、この「ボマルツォ公の回想」は土岐恒二と安藤哲行の共訳なのだけれど、第5章まで土岐恒二訳、第6章以後を安藤哲行訳となっている(もともとは土岐氏単独訳の予定だったらしいが、多忙のため安藤氏にお願いしたとある)。
自分の持っている本は、古本屋(在りし日のささま書店)で購入したものなのだが、訳者土岐恒二氏の謹呈栞が本に挟んである…相手は高橋康也氏…いろいろ感慨とか恥ずかしさとかあるのだけど、とりあえず字がきれい…
オルシーニ家の熊
とりあえず年内はちびちび舐めながら進む。またじっくり読むべき作品でもあろう。上の文は、高貴な家系では大昔に遡り気高い獣が祖先であったという言い伝え、そしてそれをデザインに取り入れた紋章や旗、語り手のオルシーニ家の場合は熊、それがボマルツォの館で彼の後をつけて守っていたという。この長い小説の原型イメージにもなるかもしれないこの構図を覚えておこう。
下の文は内容そのものより「共産国」って何? これ16世紀の話…でも冒頭のホロスコープでは語り手は永遠に行き続ける星の相だとか。ということは、この作品は現代から見てボマルツォ公が回想していることになる、なんでも芸術作品は永遠の生命を持ち、そこにボマルツォ公が宿っている、という世界観で作品が成立しているらしい…
というわけで、
長い付き合いになりそう。ついてこられますか?
(2020 12/29)
木乃伊とダビデ像
ここまでの筋の整理。
「私」こと語り手ピエル・オルシーニ(ミドルネームは略)は、傴僂(作品中の言葉です)で軍人の家系に生まれた精神的要素に傾いた人物。父(傭兵隊長)、兄(未来の後継)、弟(未来の教皇、枢機卿)といったいった実際的な多数派と異なる彼を助けるのが祖母。父の実際的メンバーから見たピエル(もちろんピエル自身が語っているのだが)というのはこう見えていたという。
この後、ロートレック子爵っていうのが、父の軍人仲間だということで出てくるのだが、500年後の「私」が言うには、このロートレックの子孫が、「私」と同じように奇形児として生まれた画家のロートレックだという。この辺事実かどうかはわからないけど、軍人は忘れ去られるけど、芸術家は後世に伝えられるというテーマ(奇形とかがどういう影響を持つか、「私」また作者の考えはまだ保留されているけど)が、また現代の人物や事象が出てきたという点でも気になるところ。
ここは父の、ピエルに対する悪い思い出と良い思い出。まず悪い方。その前に兄と弟に女装を強要された姿を見かけた父は、彼に罰を与える。なんか屋敷に隠し部屋があって、そこに閉じ込められる。一人ではない、連れがいる、と言われた連れがそれ。怖いけど、死者の推測(-で囲まれた箇所)のうち後半は、後でピエルの生涯に関わってきそうな予感もする。
続いて良い思い出。ミケランジェロのダビデ像をフィレンツェの街中を移動した時の父の思い出話。何かしら、父もピエルも感じ取ったのだろう。この話を一番わかるのはこいつだろうという感じで。
まだ第1章終わらない…
(2021 01/01)
いざ、フィレンツェへ
語り手の芸術的選好とはこのようなもの、前のミケランジェロとは異なるものであった。ちなみにチェルヴェテリもボマルツォ公の庭園も「地球の歩き方 ローマ」に出ている。とりあえず、エトルリアの遺物は思っていたより精緻で美しいものだった。
と、フィレンツェに「追放」された語り手(12歳だったらしい)とその一行(ラテン語教師、二人の従僕、一人は父の隠し子?の一人で、フィレンツェへの道中に宿に女を連れ込みやっているのを語り手に見つかり平手打ちを受ける、もう一人はスペインからの父に託された青年、祈りを欠かさない…が?)はフィレンツェへと向かう。というところで第1章が終わる。
(2021 01/02)
便利な左手
第2章開始。
フィレンツェではかのメディチ家に。といってもどっちかというとオルシーニ家の方が本来は格上らしい。が、新進気鋭のメディチ家に対し、武勇のみのオルシーニ家は押されているっぽい?
その左手がひとりでにアドリアーナの手を握った…んだって、勝手にして(笑)。というのはとにかく技巧を凝らした読みどころであることは間違いない。
フィレンツェでメディチ家の子と一緒に習う家庭教師の心の内。こうした子供時代の精神状況はいつまでも変容しながら持ち続けるというテーマは、語り手自身にも言及される。というかそれを引き出したかったかも知れない。
これが「いくつも小さな裂け目が日常につながっている」というフランドルの画家の絵にも言えるとも言う。絵の方はまだ保留しておくけど、作家とアイロニーに関しては全く同感。現代まで生きている語り手は現代作家も当然読んでいるのだが(もうこれくらいだったらいちいち驚かない…)、ナボコフだけ作品名で出てきているのは…『ロリータ』的な筋がこの後待っていることへの、作者の目配せか、それとも…
(2021 01/03)
攻撃性をもつ神秘的存在
今日は第2章の祖父来訪から、祖父とイッポリトの打ち合わせによる高級娼婦パンタジレーアへの訪問、その失敗、というところ。このパンタジレーアは第1章では、ベンヴェヌート・チェッリーニとの対話で出てきた人物だが、その話には続きがあって、ベンヴェヌートが女装させたブルチというその美少女にパンタジレーアが熱を上げ、その嫉妬でベンヴェヌートがブルチとパンタジレーアに傷を負わせたという(この時点では語り手はそのことを知らずに名前を出した)。
以前、木乃伊の部屋に閉じ込められた時と、このパンタジレーアという高級娼婦の館に行った時、それが後半にどう反映しているのか、どう語られているのか。「生」と「死」の対比と類比というのはよくあるテーマだけど、双方とも「攻撃性をもつ神秘的存在」と書かれているのに目が向く。「死」の方はいいとしても「生」の方もそうなのか。彼にとっては。
(2021 01/04)
ボマルツォ公の庭園構想
アドリアーナは病気で亡くなり、どうやらアドリアーナの本当の相手だったベッポーを、ベルベル人奴隷であるアブールに(そう直接命令したわけではないが)殺させ、アブールも行方をくらます。その葬列が進む中、パンタジレーアではできなかったことを、アドリアーナの側近?ネンツィアが奪う。語り手の話し相手はもう一人のイグナシオしかなく、宗教心に芽生える。そんな夜のこと。
ボマルツォ公の庭園の怪獣は、彼にとっては一つ一つが思い出であったのだろう。普通の人ならば、心の奥底か、あっても夢で浮上するのみであるものを。
この1年後、皇帝軍とそれに合わせた叛乱軍が、ローマをそしてフィレンツェを掠奪し、語り手はイグナシオらとともにボマルツォに戻る。逃げる彼のところへパンタジレーアは花を飛ばして送り、孔雀が鳴いた(語り手にとっては孔雀は凶事の象徴)。
第2章、読み終わり。
(2021 01/05)
兄の死と古代の網目
第3章始まり。またボマルツォに戻った語り手だが、その後戻ってきた兄ジローラモとその仲間にこれまで以上に侮辱される(父は戦場で不在)。そんなある日、川に泳ぎに行っていた語り手と祖母のところへ兄がやってきて、語り手のことはもとより、祖母の家系まで侮辱し始めた。というところの文章…馬がジローラモをふるい落とし、兄は岩に当たって川に落ちた。語り手がどうしようと祖母を見ると、祖母は共犯者のように何もしないことを要求する。ことが終わってから、人を呼んだ…
と、これまでずいぶん多くの人が死んでいる。それもどちらかというと語り手の有利なように。葬儀が終わり兄を埋葬しても父は帰ってこない。ボマルツォ公の後継者はこれで語り手になった。
(2021 01/06)
イグナシオと別れ(後年再会するらしい)、代わりに?シルヴィオというなんだか呪術師のような少年を得る。祖母は(彼女から見ると孫の)ジローラモを暗黙に殺したという意識が老いを助長する。語り手はついに祖母の手を離れて、シルヴィオとともに、父のように夜の狩から、一般家庭の双子の少女と少年を地下墳墓に連れて行き悪徳に励むとか、ジローラモの死を超えてひとかわむけたような趣き。p195の文は、そうした悪徳の系譜というか環境というか。
(2021 01/07)
父の顔
シルヴィオとの悪魔的儀式のあと、父が戦死者として帰ってくる(なんだかんだ言って、この語り手も「邪魔者」を次々といろいろな手尽くして殺しているだけではないか、という少々意地の悪い見方も。その見方を一番しているのは、たぶん語り手自身)。父の顔を思い出せない、というのは、心理学の用語で何かありそうな、症例ではなかろうか。
と言って、自分も父の顔を思い出そうとしてみたら…
(不完全かもしれないけれど、まあ可能かな)
(2021 01/08)
第1章の父に骸骨(木乃伊)の部屋に閉じ込められたことに対する、語り手の心情。語り手は決して小心なだけの大人しい男ではない。父以上に何かについての野望を持っているのだ。
その骸骨の部屋を見つける為、シルヴィオと探しているうちに、別の抜け穴を発見する。「いつかきっとあれを使わねばならない日がくるでしょう」などと予言的な(読者は最後まで覚えておけ的な)ことを言うが、語り手はこの抜け穴の中で見つけた父の筆跡の文書が気になる。その文書は(父の隠し子一覧や、父が結婚した時に妻側が用意できなかった持参金のことなどとともに)自分の跡取りは長兄ジローラモに万一のことがあったら、語り手ピエルではなく弟のマエルバーレにしたいということが書いてあった。それらの文書を、語り手は例の自分のホロスコープを残して、後は焼却してしまう。
その夜、祖母に抱かれて語り手は夢を見る。
不死の運命とは、骸骨と入れ替わる、死の彼方から生を見る、ということになるのか。
これで第3章終了。
(2021 01/10)
イタリアの蟻塚
第4章開始。
今までとは違った、ちょっと俯瞰的な文章。勝手な想像ではあるけれど、この部分、ひょっとしたら、ムヒカ=ライネスがこの作品書き出した一番最初のところなのかも。
400年以上昔のイタリアを回想する、アルゼンチンの語り手(作者ムヒカ=ライネス)にとっては、まさに蟻塚なのだろう。そして現代もまた蟻塚…
1530年、2月下旬のボローニャにおける教皇から神聖ローマ帝国皇帝戴冠、そこに立ち合う語り手オルシーニ家一行、元はジローラモの配下であった従兄弟たちも連れ、メディチ家のもとを訪れるとイッポリトよりはアレッサンドロの方が権勢を持ち、語り手はボローニャの喧騒の中、アブールを見たような気がするのだが(果たしてこの振りはどうなるのか、自分が覚えていられるかどうかも含めて)。
といったところ。
(2021 01/11)
この章は「ジュリア・ファルネーゼ」という。ボローニャで見かけた美女、語り手も弟も虜となったそのジュリアに、シルヴィオと弟の娼館通いの後で寄って会ったのに語り手が腹をたて、ジュリアのために弟が持ってきた飲み物を押して彼女の衣装にこぼしてしまい、語り手が弟をなじる。という「全く何やってるんだ」的な回想。画家ティツィアーノもちょこっと顔を出す。
次はちょっとよくわからない挿入文。
なんだ?回想している語り手はいったいどこにいるのか? 現代でなんか書いてるのは確かだろうけど、ブルジョワの部屋なのか、ひょっとして工場? そっちの方が展開としては面白くなるのかも(たぶんないと思うけど)。
今日読んだ最後のところ(p248)は、また父の顔が一瞬垣間見えたがすぐに消えたとある。これもこの後、何回も変奏されながら出てくる情景になるのかな。
(2021 01/14)
アメリカと皇帝
第4章後半。ここでは、ムヒカ=ライネスのアルゼンチンからの視線が感じられる箇所が散見される。ボローニャにおける教皇によるカール皇帝の戴冠式、そしてカール皇帝から語り手ボマルツォ公の騎士叙任式。
パンタジレーアに再会、「復讐」する場面の始まりは、第2章最後のフィレンツェからの逃亡の映像を逆回転させているみたいだ…というが、そうさせているのは疑いもなく作者ムヒカ=ライネス。
ひょっとしたら、ムヒカ=ライネスは、この会話を書きたいがためにこの700ページほどの大作を書いたのかもしれない、と夢想してみる。メンドーサってアルゼンチンにそういう名前の都市あったような。
次はカール皇帝とボマルツォ公。剣をボマルツォ公に軽く当てるのだが、剣の柄頭が壊れ、真珠が幾つか落ちた。周りがなんとかしている間、語り手はふと皇帝と目が合う、とそこにはもう一人の語り手(語りたいと願う孤独な存在)が。
この本のオビの宣伝文句には「官能的な美の世界を描き、人間の孤独を鋭くえぐる」とあるけど、それが今までで一番当てはまる場面。
(2021 01/16)
父と子の間にある捻れ空間
第5章「猫の公爵」。
ロレンツォ・ロットの手になる父の肖像画を見るために、語り手はレカナティという町の聖ドミニコ教会を訪れる。父の肖像画は聖シジズモンドとして描かれている。意外にこの作品、数々の「名場面」があって読みやすいのだが、ここもそんな「名場面」の一つ。語り手が見ているのは父の肖像画のはずなのだが…
肖像画に描かれている父の右手は、第1章でフィレンツェのダヴィデ像の話をして語り手を撫でたあの手であろう。また、ボマルツォの地下通路?で見つけた語り手を廃嫡すべしという父の書面は、実は父自身の、そこにある何かを責めるためであったことに気づく。
子は父には似ていないと思うものだが、全くそうではない、それとは裏返しの父からの視線を見つけるのは、大抵取り返しがつかなくなってからのこと。
(2021 01/18)
アンコナの居酒屋にて
新倉氏の「ヨーロッパ中世人の世界」で出ていた中世の学生の話。そこからは時代は下って16世紀ルネサンスの頃なのだけれど、このアンコナの居酒屋の場面は、中世盛期から直結しているその場面の末裔。とにかくここで語り手はパラケルススのことを聞き、ヴェネツィアで彼を探すことにする。
というところで、第5章終了。土岐恒二訳分は読み終わった。
(2021 01/19)
(後編に続く…)
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