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「異端の時代 現代における宗教の可能性」 ピーター・バーガー

薗田稔 訳  新曜社

異端…中世から現代へ


(小田内隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(NHK出版)読んでいる時点の読書記録から)

「異端」とは、もともとギリシャ語で「選択すること」を意味したという。

選択・・・近代以降、自分で自分の生き方を選択するのは(もちろん徐々にではあるけど)当たり前のこととなった。しかし、この本が主題とするヨーロッパ中世では、カトリック教会の教えに「服従」することが正しく、「選択」は則「異端」だった。

 前近代人にとって異端はひとつの可能性ー普通はむしろ程遠い可能性にすぎないが、現代人にとっては、異端がひとつの必然性となる。
(p16)
小田内隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(NHK出版)


この言葉はアメリカの社会学者バーガーの「異端の時代」という本からとられたものだが、まずこの「異端の時代」というタイトルが示す「時代」は、中世(前近代)なのだろうか、それとも「現代」なのだろうか。社会学者の言葉ということで「現代」のことかな、とも思うけど。面白そうな本だ。

また、「可能性」ということは、中世の生活では常に「選択」できる余地があった、ということを示す。でなければ、これほどいろいろな異端が出てくるはずがない。で、その「選択」した一部に(社会逸脱論やラベリング論がよく合致するように)カトリック教会が「異端」と(後づけで)名付けた。ということのようだ。
ということで、先のp16の文の「(現代が)ひとつの必然性となる」というところの「ひとつ」は「ただひとつ」なのか、どうか、気になるところだ。
(2012 01/13)

えと、Amazonで注文してしまった。
副題見ると、現代の話だ。
(2016 10/16)

「異端の時代」から


 もしもかれの社会が回答を客観的に提供できないとすれば、かれはやむをえず内向してかれ自身の主観に向かい、そこから何かかれが使える確実なものをかき集めざるをえない。
(p27)


これを主観主義化とバーガーは呼んでいる。
あともう一つ引用したかったのは?

 西洋思想の過去二、三世紀にわたる歴史は、その大部分が近代化によって誘発された相対性のめまいに対処する一連の長い努力だったのである。
(p13)


キルケゴールやドストエフスキーなどがそこに揚げられる。哲学や思想を社会学的に見る、という発想は今まであまり自分はしてこなかった。せいぜい背景としての理解止まりで…
この本、細かく読むと深い著者のトラップ?にたくさんはまりそう。
(2017 01/05)

第2章 3つの類型論


バーガーはここでこれから3つの類型論を取る、その前提について展開している。宗教は変わっていく社会との関係の中で、原宗教体験をある程度遠ざけながら(希釈しつつ)、制度や体系を作り上げていく。しかし?バーガーは現代にあってこそ、宗教体験(天使からの語り)にたち戻ることが必要だと強調する。だからこそ、3つの類型論の中で最後に置かれた帰納的立場が重要になる(あと2つは演繹的(伝統第一)と還元的(現代にのっとっていく))。

 宗教的伝統は、こうした栄光の夜を水際で食い止めて、それが生活の全領域を飲み込まないようにする。何はともあれ、宗教経験とは危険なものなのだ。
(p65)


そうした「聖なるもの」自体も宗教原体験から民族とか国家とかはたまた科学とかあらゆる世俗的なものへとシフトしてきた。ただしそうした体験の「残光」を逃さないようにする、人類は多分、そうしたものなしでは生きていけないと思われるから。これで前に見たルックマンの議論とも繋がるかな。
(2017 01/09)

バルトと浄土真宗

「異端の時代」第3章。信仰体験に帰れと主張する立場から。バルト(テクスト論の方ではなく、神学の方)によればこうした「神の言」しか存在しないという自分の立場は浄土真宗に近いという。
バルトは宗教(既存の。キリスト教体制も含む)と信仰を区別し、前者を批判し後者に立ち戻ることを主張。
(2017 01/13)

還元的方法


「異端の時代」第4章は還元的方法。これは聖書等を非神話化していこうという動き。現代思想の実存主義等に限りなく近くなりうるが、それでも神の存在は信仰するというもの。この章で、第3章のバルトのような中心人物はブルトマン。ヤスパースを始めとする人々からの批判を受けながら、神学は神話的なものから解放されなければならないという出発点から展開する。
(2017 01/17)

そしてシュライエルマッハー


「異端の時代」第5章は帰納的手法で宗教体験を現代に翻訳して生かす…という感じかな。なんとなく著者バーガーが一番推しているこの手法、ここでの神学者はシュライエルマッハー。ただこの人自体は18世紀末から19世紀の人。

 かれは啓示を定義して「あらゆる本源的で新しい宇宙の直観は一個の啓示である」という。このような定義には、啓示の複数性という考えがひそんでいることに注意を促したい。ゆえに、あらゆる正統主義的立場がいう〈一度限りの〉啓示に対する直接の挑戦になるわけである。
(p178)


ここでの正統主義はバルトのものを連想する。

 宗教のかかる形式は、…(中略)何れも真の積極的宗教なのだ。それは全体との関係からすれば極めて気まぐれなものがその成立の原因となっているから異端なのである。
(p179)


異端という言葉がかなり久しぶりに出てきた…
(2017 01/19)

バルトの歴史的経緯


「異端の時代」バルトは当時のドイツの自由主義的神学者たち(シュライエルマッハーから続く)が第一次世界大戦に同調参加したことに反発して、自身の新正統主義的神学を立ち上げた。
このバルトの神学はナチスへの反抗神学として機能したが、次の共産主義全体主義には親和性をもった、と著者バーガーは言う。だからどういう神学(だけではないけど)が起こり廃れていくかは、時代動向に大きく左右されると。
これでプロテスタント神学を扱った第5章まで読み終え。次は東西宗教比較(になるのかな)…
(2017 01/21)

「異端の時代」読み終え

 人間が、自分に語りかける神との出会いのなかで人間としての自分に気づくようになる。このことがまた、人間と世界とのあいだの根本的なへだたりをもたらすことになる。
(p219)


これは西アジアの「対決型」宗教体験。

 ここでの神性は、個人を越え、意志や言葉などを含めたあらゆる属性の彼方にある。存在の神的な基盤がいったん把握されると、人間も世界もともに色あせて無意味となるか、幻影と化す。個人性が際立つのではなく、吸収され、しかも歴史も倫理もともに根本から相対化されてしまう。
(p220)


こちらはインドの「内面型」宗教体験。

この第6章でバーガーが提案しているのは(もちろんこの二つは理念形であり現実は様々に入り混じっている)、どちらが優れているかの議論でもなく、止揚して新たな宗教理論を作ろうというのでもなく、お互いに耳を傾け、全てを否定することなく取り入れて行くということ。それにはお互いの内なる異端の考えを新たな視点で見ることから始まる。その異端の行き着く先は、相手の正論であるから、という。

 すなわち、二つのタイプの宗教経験が両方とも真実だということなど、いったいどうしたらありうるのだろうか、と。
(p231)


その他には、この二つを橋渡ししたイランの状況(p222)とか、アメリカでのインド型宗教体験の浸透(p224)とか気になるところ。
ラストは最後のセンテンスから。

 歴史には、神の鳴らし給う低い太鼓の音がこの世の喧噪のさなかでほとんど聞き取ることができない時が何度もある。だから、その響きが微かながら聞き分けられるのは、わずかに静寂の時のみ、しかもそれは稀で短い。しかし別の時も何度かある。そのときは、神の声がとどろき渡る雷鳴のように聞こえ、大地が震え木々のこずえが神の声の力でなびくのだ。人間には神をして語らしめることができない。かれらにできることは、神の雷鳴がとどろくのを待ってずっと耳を澄ましつづけながら、生き、かつ考えるだけなのである。
(p256)


(2017 01/22)

補足


(ピーター・バーガー  「聖なる天蓋  神聖世界の社会学」 薗田稔訳  ちくま学芸文庫より)

訳者はバーガーの「異端の時代」も翻訳(「聖なる天蓋」の方が先)。
バーガーとルックマンは同じシュッツの影響での宗教社会学を展開しているが、ルックマンは現代社会でも「宗教的事例」は様々に展開しているとするのに対し、バーガーはユダヤ教以来の聖俗分離で分かれた俗の部分が聖の部分を駆逐?したが、俗の部分が担保しない限界状況?のため、現代社会は不安に貶められている、という。
訳者はどちらの見解に立つかまだ決めかねていると。その為にはシュッツまで立ち戻らなくてはならないと。
(2020  02/17)

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