「ベンヤミン・コレクション2 エッセーの思想」 ヴァルター・ベンヤミン
浅井健二郎・三宅晶子・久保哲司・内村博信・西村龍一 訳
ちくま学芸文庫 筑摩書房
「蔵書の荷解きをする」、「子供の本を覗く」
最初に「翻訳者の使命」読もうとしたら結構難しく、最初からにした。ちくま学芸文庫の「コレクション」ものはなんか冒頭に異様に難解なものを持ってくるというイメージがなんでか自分の中にできていたけど、この文庫は最初は気楽?なものから始まる・・・
「蔵書の荷解きをする」というなんかの講演原稿らしいエッセーで、ベンヤミンは本を手に入れたいろんないきさつや引越の後で蔵書を荷解きしながらいろいろ夢想にふけるといった自分にも経験たくさんある(まだ荷解きなんてしてないじゃないか!という声はほっといて・・・)話をしながら、「所有」ということについてのアンビバレンツな思いをふと出しているらしい。らしい、というのはそこまで読んでいる時には感じなかった(「所有」って言葉になんか引っかかっているなというくらいにしか思わなかった)からで、ブルジョアとコミュニズムの中で引き裂かれていたベンヤミン像は自分の中ではまだ形成されていないのだが・・・
続いての「子供の本を覗く」から。
形態のところは人間の知覚と身体と知識の関係を述べていて心理・人類学的にも重要なところとなっているが、形態と色彩のこういう分類は初めて聞いた。ものを選ぶ時に外向的な人は形から、内向的な人は色から選ぶという話は小耳に挟んだけど、それが直観と子供につながってくるのが意外。それにジャン・パウルやゲーテがつながってくるという。
(2014 09/28)
「模倣の能力について」は短いけれどなかなか濃い内容。言語は模倣からなっているというのはヴィーコを思い出す。ベンヤミンの壮大な企みの一端をかいまみる一編。
(2014 11/28)
ドストエフスキーとジッド、鏡合わせの世界
「ベンヤミンコレクション2」、ちょっと前に読んだドストエフスキー論と昨夜読んだジッド論は、子供という視点からちょうど鏡合わせな関係なのかな、と。大人→子供の前者と、子供→大人の後者。でも後者の手法だと失敗してしまう…「狭き門」においてジッドはその崩壊を示したいのでは、とベンヤミンは言う。
これはドストエフスキー「白痴」論から。
(2014 12/27)
カフカとゲーテ
いきなり父親が怒り出して息子が入水自殺するわけわからないカフカの「判決」のガイド文となるか。「ベンヤミンコレクション2」のベンヤミンのカフカ没後10年のエッセイから。息子の側から見ると、自分の存在=原罪となるのだからたまらない。でも原罪とはもともとそういうもの。では怒り出した父親はいったい何者か?
「ゲーテ」はもともと百科事典の為の原稿なのだという。
そこからの一文。
まあ、とりあえずはここを。だから、ブルジョアの解放闘争という点ではシラーの方がよく引用され、ゲーテは遅れて評価されたのだ、という。
(2015 01/02)
ヨッホマン「詩の退歩」
「ベンヤミンコレクション2」からヨッホマンのところ。ヨッホマンはリヴォニア地方(今のバルト三国辺り)の出身。フランス革命期にパリへ。
ロースは新即物主義のオーストリアの建築家。で、ここに悪行やら害悪やら書いてあるのはロマン派のこと。ロマン派を挟んで入口と出口で呼応する。
ヨッホマンは「詩の退歩」という文章を出す。で、そこで原始社会では詩の源泉たる想像力が今よりはるかに充満しており、一方言葉の使用環境に関してははるかに劣っていた。そこで言語活動をする時には全て歌(詩)に委ねていた、とする。だから現代は詩に関しては「退歩」している、とそんな感じ。これらはかなりヴィーコの「新しい学」に負っている。
というようなヨッホマン「詩の退歩」に自作の序文をつけて復活させたのがベンヤミン…
(2015 01/09)
ベンヤミンのヘーベル
「ベンヤミンコレクション2」からヘーベル。この人は主に暦につけた小話で知られている人…らしい。「今忘れられているこの人を大々的に推奨する、というわけにはいかない」なんて、のっけから微笑というか突っ込み誘わせておいて、その後からじわじわとこのヘーベルという作家について語る。
このことは単に言語の問題だけでなくその背後の文化社会的なことも含めてなのだろう。こういう視点は自分は今まで持ってなかったかもしれない。
この本の解説を見ると、この間のヨッホマンのところからこのヘーベルを経て「経験と貧困」までを第5セクションとして、詩・芸術の退歩をテーマとしている、とある。ヨッホマンはその導入の意味もあったのだ。しかもこうしたベンヤミンの考え方はこのコレクションシリーズの1にあるボードレールから複製技術の流れのエッセーとも共通するという。
退歩しつつある人類の想像力に対してベンヤミンは、古いものへの味わいの視点と、現在を零としてそこから全く新たに積み上げるという2つの方法を意識しているという。しかもそれは共同してコラージュという手法で編み出していく。この本の第1セクションのエッセーやこのヘーベルなどはそうした戦略の一環なのだろう。そしてその成果が「一方通行路」や「パサージュ論」なのだろう。
(2015 01/11)
プサンメニトスの謎
「ベンヤミンコレクション2」から「物語作者」。副題にはレスコフの名前があるが、レスコフは一例に過ぎず、この間読んだヘーベルほかいろいろな例が挙げられている。今のところ半分くらい読んだところだが、物語る能力、経験を交換する能力がなくなってきている、というのが一番大外の考え方。かっては船員と農民がそうした能力の持ち主で、それらが同居したのが中世職人の師弟(職人は若い頃は徒弟遍歴をする)。
いろいろ興味深い話があったのだが、その中での一番は、情報と物語の差異に関してヘロドトスのプサンメニトスの物語。エジプト王プサンメニトスはペルシャとの争いに敗れ、ペルシャ王からの辱しめを受ける。王の親族が辱しめを受けているのを見ても涙をこらえているくらいなのだが、下僕が辱しめを受けているのを見た瞬間泣き始める。これが何故かをモンテーニュ始めいろいろな人が考えて答えを導き出している。情報はこういう時に全てを矛盾なく説明しなくてはならないけれど、物語は謎をできるだけ素っ気なく提示する。
長編小説の主人公は薪
「ベンヤミンコレクション2」の「物語作者」後半を昨夜。この文章は物語と長編小説を対比させていろいろ書いてあり、ベンヤミンの思い入れがあるのはタイトル通り前者なのだが、ベンヤミンの時点からも更に約百年経過した今日では、物語というものはかなり遠くに行ってしまったのか、自分が読んでいて気になるのは後者の方が多い…
これは原注から。だから?長編小説の主人公は死を迎えることが多い…死を迎えなくても、小説自体が突然に終わる…という。
(2015 01/15)
ベンヤミンの「ベルリン・アレキサンダー広場」論
ベンヤミンの「長篇小説の危機」というエッセイはデーブリーンの「ベルリン・アレキサンダー広場」に関して。これをベンヤミンはジッドの「贋金つかい」と対極にある、しかしどちらも長篇小説の危機を表した作品として論じる。
つぎはぎ、コラージュ、モンタージュ・・・というのは、デーブリーンと共にベンヤミン自身がそこに立脚する技法。技法のみならず、それはベンヤミンの「経験の貧困」な現代に対する態度でもある、そしてそれはデーブリーンも同じことではないか。
後者の文はディケンズとも共通するところ。不幸が「料理」だという表現が面白い。
(2015 01/31)
経験と貧困
昨日はまた「ベンヤミンコレクション2」を持ち出して、少しだけ先に進めた。「経験と貧困」という作品。ベンヤミンによれば第一次世界大戦後、人間固有の経験なるものは貧困化したという。戦争により経験の虚が暴かれたと。
こうした経験から解き放たれた芸術・技術がクレーの絵でありブレヒトの演劇であり、ロースやコルビジェの建築でありシェーアバルトの小説であるという。最後のは、自分は初耳な人物だけど、20世紀のヴェルヌ的な作品を書く(けどヴェルヌとは正反対だとベンヤミンはいう)この人についての評論も結構しているらしい。
とにかくこの作品も「複製技術」と同じように作者のアンビバレンツ的な性格が現れている。
(2015 06/02)
「翻訳者の使命」
「ベンヤミンコレクション2」では、三度目の挑戦?となる「翻訳者の使命」。今回もよくわからなかあった表現は結構あったけど、とりあえず読むことはできた。
では、翻訳者の使命とは何なの?
ベンヤミンによれば翻訳は単なる原作の書き直しではなく、原作と共に成長していく言語活動の一つの環なのだという。そこには実在はしないけれどなんだか?そこに向かっていくところの純粋言語(人類唯一の言語)への志向がある。
接触と接点の違いがわからないが、接線と円の比喩はこの論文の中で一番鮮やかな印象を残す。
こうやって純粋言語という仮定をみていくと、やはりベンヤミンは社会主義的というかコミュニズム的な土台に立っていたのだな、と思う。現在ではなかなか受け入れられない考え方だけに、逆にそれに思いを巡らすことは重要になってきているようにも思える。特に「谺を呼び覚ます」の辺りなど。
(2015 09/06)
「プルーストのイメージについて」から
「ベンヤミンコレクション2」から標題のプルースト論を読んだ。「オデッセウス」のペーネロペイアは昼織った布を夜に解いていたが、プルーストは逆に夜織って昼に解きほぐしていた、という。
オルテガはプルーストの登場人物に植物的な生活を見出したとベンヤミンは言う。彼らは自分の生活環境に薮のように絡みあって生きている。そして太陽や風に左右されている。そんな中にいる一匹の昆虫、それがプルーストなのだ、とベンヤミンは言う。また長くなるけど引用する。
ベンヤミンとプルーストとはどこが同じでどこが違うのだろうか?
(2015 10/11)
ジッドとプルースト
「ベンヤミンコレクション2」から「アンドレ・ジッド」。ベルリンでのジッドへのインタビューをまとめたもの。上はジッドが語るプルースト。蕾のまま、というのがポイント。
次の文2つは、前がブーガンヴィル航海記からのジッドが引用したもの。後ろがそれを受けたジッド自身のつけたし。
最後は、先のプルーストについての文との比較で、ジッド自身の発言。
ジッドは実はあまり読んでいないけど、プルーストとお友達だけあって、表現がいちいち?巧い。
(2016 02/27)
昨夜はベンヤミンコレクションから「ジュリアン・グリーン」。グレアムと違ってこっちは読んだことないなあ。階段を転げ落ちるような、しかも一段も飛ばすことなく落ちる、そんな受苦の運命を描いたという表現が面白かった。
(2016 11/15)
カール・クラウス
一昨日の夜からちびちびと、「ベンヤミンコレクション2」からカール・クラウス。確かカネッティも取り上げていたこの人。ベンヤミンのこのエッセイでは新聞報道に対しての批判雑誌「ファッケル」を中心に今のところ書かれている。
だけど、新聞はその公衆の裁く機会を奪っている、という。
深刻さの回避というのはある意味人類の進化の結果の一つかもしれない。
(2016 12/10)
さてさて、対象に一回も触れたことがないまま、それに対するエッセイを読むというのもなかなかきついものだけれど、まあとりあえず(いつも、とりあえず(笑))ベンヤミンコレクション2の「カール・クラウス」は読み終えた。
引用2つ。
ここは前に読んだ「純粋言語」と通底するものがあるのかな。次の引用は引用について。
自分などは全くできていない「引用」の理想型。韻と名、根源と破壊、言語活動そのものの力動性・・・
このエッセイの特に第3部には、根源、天使、アウラ、引用などなど、ベンヤミン思想の頻出用語が初出のものの含め揃って出てきている。後に「パサージュ論」「複製技術」「歴史の天使」などに結実するそれらがどう「引用」されているのか。この作品でもそうだけど、ベンヤミンはまた自己引用の才を持っていた。
(2016 12/11)
収集家にして歴史家フックス
「ベンヤミンコレクション2」からエードゥアルト・フックス。この人に関してはクラウス以上に何も知らなかった。名前も初耳。
収集家としては、従来の芸術品からはみ出てしまうもの、カリカチュアやエロティシズム芸術を多く集め、書物にまとめている。とはいえ、その本に収集過程を全く書き込まず、収集家ではゴングール兄弟(彼らはそういう文章を結構残している)よりも、バルザックの従兄ポンスに似ている、とベンヤミンは言う。
歴史家としては、弁証法的歴史家(ものやことを力動的に過去から未来へ変化していくものと捉える)の側面が強い。ランケの静的歴史主義を批判していたベンヤミンにとっては、少し不徹底なところも見られたらしいけれど。
で、とにかく、これで「ベンヤミンコレクション2」をやっと読み終えた。足かけ何年?
(2017 01/04)
フックスについて補足
まず、ベンヤミンにフックスを教えたのはホルクハイマーだったということ。フランクフルト学派つながりか。あとはこの論考がのちの大衆芸術論や複製芸術論そして歴史学のテーゼとして発展していくということ。
(2017 01/05)