「象徴交換と死」 ジャン・ボードリヤール
今村仁司・塚原史 訳 ちくま学芸文庫 筑摩書房
新橋古本まつりで購入。生産を中心に据えた経済とその思想が終焉を迎えた現代、そのシステム内で反乱の力となるのは、原始社会で見られる象徴交換である…という概要らしい?そこにソレルの暴力論からのテロリズムの思想が流れ込む。
(2015 09/28)
序文
しかし、目次眺めていると何かの詩みたいな趣きあるなあ…
ということで?序文読んでみる。
ここでボードリヤールが適用する理論が3つ。ソシュールのアナグラム論、モースの交換=贈与論、フロイトの死への欲望論。しかしこれをそのまま採用するのではなく、彼らの築いた理論構築物全体に対してラディカルに「対決」させなければならない、という。「モースにたいしてモースを、ソシュールにたいしてソシュールを、フロイトにたいしてフロイトを」(p12)。
序文後半になってくると、なかなか意味が取りづらくなってくる。まあいい、しばらく読み続けよう。
(2023 04/01)
第一部「生産の終焉」
ここは括弧書きの箇所。「つきでのみ」というところに強調点がある。実在はそっちのけ、らしい。
労働や価値などが神または自然から恵みとして与えられてきた中世的時代から、労働が数量化され座標軸に落とせるようになった近代(力)、そしてその座標軸が背景に退き消滅していく現在(記号)。ここの辺り、アレントと比べてみたい…
(2023 04/03)
記号と労働に起こった切断。記号表現と記号内容の切断、賃金と労働の切断。このことが、労働と記号内容、賃金と記号表現それぞれが相同性を強め、インフレーションが起こる。とボードリヤールはいう。「成長」それだけが目標のように、経済で言われているように自分などは前から思っていたので、ここの説明は興味深い。
昨日も挙げたアレントの「人間の条件」と重なるところもあるだろう。やはり労働のところ。生きるために最低限必要な労働が第一義になって(しまった)現代(というところまでがアレント)、それ自身が目的化してウロボロスの蛇のようになっているのが「象徴交換と死」のここでの議論。アレントもここまで言ってたか?
続きも読んでみる。ストライキも「生産」の段階での交渉の武器としてのストライキから、山猫ストライキ(要するに働きたくない時ストライキして、生活に困ったらまた来るといったような)へ。生産のための生産…再生産ならば、再ストライキ。1968年の学園紛争やルノーでのストライキによく見られたという。ここでは移民の労働者や組合にも入れない最下層の労働者が「検知器」となり、まずこのようなストライキ等を行い始める。そして全社会に広がっていく。ここも実感あって、前に読んだ「デモのメディア論」はこうした動きを論じたような。それに今適当に「ゆとり世代だから」と十把一絡げに言われていることの根底はこの辺りなのでは…
(2023 04/04)
次のp96にある奴隷の段階説。
1、捕虜になるとすぐ殺される
2、捕虜となり優遇され相手との交渉の道具となる
3、捕虜となり苦役に従事させられる
4、「解放」奴隷となり労働者となる
ここで段階が大きく(下がって)いくに従い埋没感生かされ感が強くなる…もし自分がかなり若い時にこれ読んでいたら、なんか感化されそう。今では埋没されて周りが何も見えないためそのまま終わりそうであるが…
注から。
実例を考えてみよう(本書の内容に則さなくてもOK…)。
第一部終了。
(2023 04/06)
第二部「シミュラークルの領域」
シュミラークルの三つの領域
p118にボードリヤール自ら、まとめてくれているのでそこを見よう。
「模造」…ルネサンスから産業革命まで、自然的価値法則
「生産」…産業革命時代、商品の価値法則
「シミュレーション」…コードによって管理される現段階、構造的価値法則
ルネサンス以前の封建社会では、記号は階層間の移動は全くしなかった。これが近代に入ると記号も移動できるようになり、そこに恣意性が生まれてくる。ここはまだ「模造」の時代。あとは、この時代をボードリヤールは「漆喰」というキーワードを使って示しているが、なんと?ボードリヤールの長篇詩の題名が「漆喰の天使」なのだそうだ。詩も書いていたのか…
(2023 04/07)
最後の一文はやはりシュミレーションの領域。生物種や無生物をも越えて、全てを記号化して感染伝播していくような見方。
(2023 04/11)
昨日から今日にかけてのところは、第二部第3章から第6章、ベンヤミンとマクルーハンの複製技術論、遺伝子学と言語学の相似(ドーキンスの利己的な遺伝子)、政治の二大政党制が(独占よりも)最終形態になる、世論調査やメディアの「テスト」化(二択法、先に答えがある、触覚性(メディアはマッサージである?))、他社会科学(人類学、社会学、精神分析)をも「テスト化」が覆う、といったところ。この二択法化が、第5章冒頭のライプニッツから第6章最後の世界貿易センタービルまで貫いている。
支配し、されているのには変わりはない。ただ違うのは、支配している側の人間も、社会がどこに向かっているのかわからなくなっていることだろう。
この書が出て40年以上経つが、気がついて、どうしたのだろう。人類学などの参与観察の重視などそこに取り組んだ例もあるとは思うけれど、ビックデータなどそれを暗黙に認めているもしくは積極的に追認している傾向にはないだろうか。
(2023 04/12)
最終章は、ニューヨークのグラフィティ。地下鉄や壁などへの落書き…政治的メッセージではなく、雑多な記号からなるという。この時期(1970年代後半)ニューヨークにしかこの手の落書きはなかった。これは記号化された社会に対する反抗なのだという。
現代はもとより近代の体系を飛び越えて、部族や洞窟画へと向かう。このあとの「象徴交換」にもつながりそうな、重要な性質であろう。
(2023 04/13)
第三部「モード、またはコードの夢幻劇」
現代から引き離された現代。過去から切り離された過去。この無時間性が循環するモードの動きを作り出していく。
等価物がないから、回転が速く際限がない。
モードとは、いつも何事かの閉じられた系の外側を回る「祭り」のようなもの。経済とか言語活動とかの外側をめぐる…
経済的なものを越えると自称するものが、原始の象徴交換の時代と共通性を持っているという言説に、ここでボードリヤールは注意を促している。経済的なものの外側にはモードの領域が広がっていてそれらはそこに滞留しているものとされる。
(2023 04/16)
第四部「肉体、または記号の屍体置場」
そこに加わる人間の集団が女性ということになる。
後半はこの本の後半部分で役に立ちそう。未開社会では裸体は存在しない(刺青やペインティングで身体を覆う)、肉体は取引ではなく消費するものだという。象徴交換が一体何者なのかわかっていないので後半はそこからだな。
(2023 04/17)
裸体・肉体・性・無意識…はそれぞれ等価性を持ち時には交換される。またこれらは、「解放」されたとみなされている、しかしもっと大きな記号体系に組み込まれていった…という共通点もある。
(2023 04/18)
第五部「経済学と死」
第1章「死者の売渡し」
この本も後半に入って、いよいよ「象徴交換と死」というタイトルに関わってきた。近代の黎明期、フーコーが論じているように「狂気」が社会の外側に追放され囲い込まれた。同じように子供・老人・女性などがそれぞれ場所や価値観に押し込まれていく。その中でもっとも根源的な区別が死者の追放である、とボードリヤールは言う。そして、例えば狂気を追放する際にその判断基準となるのは狂気そのものの量であるから、その社会は実は狂気というものに「占拠」された社会である、と論を進める。そしてそれは死についても言える。生は「生きのびることのなかで抑圧された死」なのだという。そして死者との象徴交換も断絶していく。
まだ続いているのだが、この辺で…
今の社会には、工場も監獄も学校も存在している(アジールは?)。それは近代にそれらが成立してから、機能を失って無くなっていく過渡期であるのか。ここでボードリヤールが夢想?する工場や監獄や学校がない世界は、ディストピア小説の世界そのものではないだろうか。
生と死の世界を断ち切ること、それが権力の作用だという。今その例として思い出したのは「アンティゴネー」のクレオーン。アンティゴネーが亡くなった兄の葬儀を自分ですることを、彼は禁じた。そしてここから生まれる社会は深くまで死に染められた社会となる。
(2023 04/19)
第2章「未開社会における死の交換」
いよいよ象徴交換の話に入っていく。死が不可逆ではなく可逆の世界、交換できる世界、記憶が曖昧だがアチェべの「崩れゆく絆」の前半とかはそのような世界だったような。
ここから、いわゆるエディプス・コンプレックス「父を殺し、母と結婚する」というのは未開人にとってはコンプレックスではなく社会的交換の機能ではなかったか、という議論が続く。興味深いテーマだがここではさらっと。もう一つ、人肉供食のテーマもあってここはどうしても「別荘」を思い出してしまう。この供食のキリスト教での名残が聖体拝領(パンとワイン)だという。あと、主人と奴隷の関係は、解放された奴隷には内面化され無意識化する(近代)が、解放されていなければただの関係性でしかない、という指摘も、この本のp96や、ヘーゲルとかとの関連もあって興味深い。
現代社会と未開社会の三つの項がそれぞれ対応しているのかわからないが、前者の三つの項には色濃く「主体」概念が浸透しているのは確か。
そこで現れるのがドストエフスキーの「分身」(それそのままの小説もあるが、ラスコリーニコフとスタヴローギン、イワンとスメルジャコフというのも分身だろう、それも主と副の関係の)や、シャミッソーの「影」。最後にフロイトの「不気味なもの」が引用されている。フロイトが自身の説の限界?を図らずも見抜いていた?とか…
(2023 04/20)
第3章「経済学と死」
(2023 04/21)
「死への欲動」と「死、バタイユの場合」。
前者は精神分析が起こったのは近代からで、そこを乗り越えることが必要だとしている。
引用はどちらも後者から。
バタイユには「消尽」(だっけ?蕩尽?)という著作があったが、それはこの意味か。有用性を崩壊させて、消尽を尽くす未開人の儀礼は、死(無用の豪奢)の予行練習なのかもしれない。
(2023 04/24)
第6章「いたるところに私の死、夢みる私の死」
ここは、様々な死の見本市みたいな章。死を生物学的あるいは近代哲学で見ると、生は死の反対概念であり「自然死」として終わることが望ましいとされるが、ボードリヤールが考えるのは違う。
現代は供犠による死の交換はない。そこで…
この考えによる社会では、事故死や人質としての死は認められるが、労働災害の死は特別な意味を持たないという。
(2023 04/25)
中世というか18、9世紀頃まで、スイスの一地方では1906年においても、動物が人間と同じ罪で裁判にかかり処刑されていたという。今では動物を狂人などとともに領域外に追いやったから、処刑ではなく産業的屠殺業に追いやったから、そうなのだとボードリヤールは言う。
果たして責任という概念がないのか(ボードリヤールもシステムが責任という名前を使って個人に働きかけること自体は否定しないだろう)はすぐに判断できない。
これら、様々な死、一見等価ではないこれらの死が、現在の世界では等価として扱われている。そこに含まれている夾雑物は抜かれて並べられている。
後者の具体例は何だろう。そしてそもそも「自殺的性格」とは何なのだろうか。
この本の中で、前にもこの表現(両端が結びつくがちょっとゆがむ)あったような。等価物は死。等価物でシステムが成り立つのなら、その他の副システムは主システム、すなわち等価物の永遠の循環を支えるもの以上のものではない。
(2023 04/29)
今日で第五部終了。
病気を与えるってなんだ、と思うけれど、実際病気になったら確かにそう思うかも。それが交換とされるという考えには、現代社会に生きている自分からは閉ざされているのだけれど。
アーカイブの思想。まさに今これを書いて(打って)いることそのもの。自分が読み返し、どこかの誰かが見る…可能性は限りなくないが…
ボードリヤールは、ベンヤミンの場合はこれはファシズムだという。美的快楽のために地球が滅亡するのか…
この時期から長い時期が経ったが、どうだろう。芸術(その他の娯楽産業)はファシズムの方向へ傾いているのではないか。
(2023 04/30)
第6部「神の名の根絶」
ここでは、等価性における交換ではない象徴交換として詩をあげている。ソシュールはアナグラムの研究によって自身の言語学を越える提言をした。がヤコブソン始め後続の言語学者はそれを認めようとは必ずしもしてこなかった…とボードリヤールは言う。
(2023 05/02)
現代の言語活動においては、ソシュールの定式である差異の体系、すなわち様々な語は恣意的な意味しか持たず置き換え可能である、という前提で無限の活動をしている。ところが、未開社会では、言語活動は制限が加わることが通常であった。ソシュールの別の研究ではそこに迫ろうとしていた。それがアナグラム研究。
分析する主体とその対象が入れ替わってしまう、そうした分析。
ソシュールがアナグラムを分析して証明しようとした詩の言葉。それは失敗に終わったために逆に広大な分析の可能性が残ったのだ、とボードリヤールは言う。詩-神の名を唱えることで、世界が消滅する。こうした世界観はアーサー・クラークの「九〇億の神の名」(邦訳「天の向こう側」に収録)にも描かれている。
(2023 05/03)
昨日のソシュールのところのスタロビンスキーに始まり、ここではヤコブソン、エンプソン、エーコ、クリスティヴァら、言語学者、記号論者を相手に批判を繰り返す。結局曖昧性とか両義性とかいっても、等価性による記号の体系は下部構造に変わらずに残る。ボードリヤールは下のp505のような記号の消滅?を望んでいる。そして科学が未開社会を理解できないのならば、日常生活そのものもまた理解することはできていない、と喝破する。
(2023 05/04)
「機知、またはフロイトにおける経済的なものの幻覚」
機知とか洒落が象徴交換だというのが意外でもあった。
続いて、またしてもクリスティヴァ。
意味を媒介するのではなく、分節自体が同質だという。リズムが一番最初? 文節化した世界が無意識と同一なら、いろいろな単語(名詞・動詞・形容詞から助詞…)で区切られる文章もまた分節化の一例。
ボードリヤールはこう協調するが、ここのところまだよくわかっていない。まあ全体的にも2割入っているくらいかな(笑)。
(2023 05/05)