「言語 ことばの研究序説」 エドワード・サピア
安藤貞雄 訳 岩波文庫 岩波書店
序論から気になるところ
痛くて叫び声あげたり、あるいは擬音語などが、言語の始まりであるという説をサピアは却下する。後者はルソーとか言ってなかったっけ? あるいはヴィーコは?
言語と思考の関係。言語なき思考は存在しないが、思考なき言語は普通にあり得る。というのがサピアの考え。これは思考の定義とも関連するけど、ただただ字面を追っているだけでもなんらかの精神の動きはあるとは自分は思う。
「その前に」か。最後の文はそうだと思うけど、前半の「その前に」はどうか。記号目録作ってから事後で割り振ったということもあったとは思う。だけれども、ここでサピアが言っているように、大きなところでは、最初に人間社会を通してなんらかの「縮減」単純化が起きたのか、と考えるのは有意義なことだろう。
ここで自分は、「ヤコブソンコレクション」でヤコブソンがアインシュタインのケースを紹介してたのを思い出した。
ヤコブソンが挙げているのは、アインシュタインが意外にも子供の頃言語発達が未熟だったということ。彼にとって、物事とか考えとかは、言葉でするものではなく、直感的に何かが降りてくるというようなものだったらしい。今では、人間の思考は言語によって行われ、そしてそれに縛られているという「言語学的転回」が主流となっているが、それらの反証例となるのか。
(参考 平凡社ライブラリー「ヤコブソン・コレクション」から第11章 「アインシュタインと言語科学」)
ヤコブソンからサピアに戻って
これも断定していいのかな、とも思う箇所。叫び声や擬音語が言語の前段階ではない、と言った以上はそうなのかもしれないが。
(2021 09/19)
第2章「ことばの要素」
…語、文の分析。語に関しては、心理的には実在するが、機能的には定まったものは存在しないという。
語は単純な分割されたもの以上のものを持つというのか。
モダリティ(話者の信条を載せる)の抑揚・アクセントや、語に寄せる感情などは、語や文の認知的機能に付属する二次的機能にすぎない。
(2021 09/23)
ここで出てきた「衝動」は、ドリフト(駆流)と同じなのか。機能面においては。
(2021 09/25)
第5章「言語の形式-文法的概念」
農夫そのものが議論されていないことにより、彼は単に「農夫」というレッテル貼られた人物になっている。そこが日常会話的には落とし穴にもなりかねないし、小説等の表現媒体であるならば、ここにいろいろ策を詰め込むことができる(例えば一見するとわかりやすく見えるけど、皮肉と批評が折り畳められている詩作品にこうしたものを利用したものがある)。
(2021 09/27)
この文章の前半は文法規則について述べているところで、現在の自分の緩やかな変動する言語観とちょっと違う部分を述べている…サピアは多分アメリカの社会についてこういう例を出してきているのだろうけど、現時点でも彼の地ではそうなのかな。最初に読んだ時には気づかなかった「同断」という単語も気になる。
ラテン語の単語は様々な格や時制を取り、その単語一つだけで状況がある程度限定される。英語はそこから崩れてきて、他の単語や要素(語順とか成句とか)で補っている。
(2021 10/03)
第5章「言語の形式-文法的概念」終了。サピアという人は、言語(その周辺概念を含む)というものを、あらゆる言語学者の中で一番根本から考えていたのではないか、と今は思う。
(2021 10/04)
第6章「言語構造の類型」
サピアの提案する言語分類(解説によれば、サピア自身においても、その後においても、これらが発展利用されることは少なかったという)
A…単純な純粋関係的言語(1と4のみ)
B…複雑な純粋関係的言語(1と2と4)
C…単純な混合関係的言語(1と3…4は3に吸収される)
D…複雑な混合関係的言語(1と2と3…4は同上)
(1…基本(具体)概念、
2…派生概念(接辞添加、語の内部変化)、
3…具体的関係概念(2と同じく接辞添加や語の内部変化によって表されるが、違いは3の方は添加されている当の語を超えて他に及ぶこと(解説p428参照))、
4…純粋関係概念(数・性・格、語順等)
基本、AとB、CとD、この間の断絶があって、それからAB内、CD内での区別があるという。
これらの偏流、これからの言語変化、その記述を蓄積して「根底にある偉大な基本図を読みとることができるかもしれない」とサピアは考えている。全くの想像だけど、こうした考えの延長線にチョムスキーが位置しているのかもしれない。
(2021 10/10)
第7章「歴史的所産としての言語-偏流」
サピアの中で一番知られた「ドリフト」の話。
ここから例の「Whom did you see?」についての二十ページもの考察が始まる。この「whom」が違和感あるのは、形式上の類別化(同じグループのwhichやwhatは目的格も同じ形)、習字的な強調(疑問詞が冒頭に来るときには強調が置かれるが、不変化詞ではないwhomに強調を置くと違和感を生じる)、語順(目的格を語頭には置かない)、アクセントの問題、を挙げている。
(2021 10/11)
第8章「歴史的所産としての言語-音法則」
英語の音変化は、長母音iがeiを経てaiへ、また長母音oが後にくるiの影響で長母音のeに変わったというもの。「time」が「ティーメ」から「タイム」になったのは前半の変化によって生じたもの。そしてこの音変化は、2、3百年遅れてドイツ語でも対応する同じところで起こっている。両者には直接の関係は存在しない。
最後の方は、英語とドイツ語で起こった母音の音変化が、英語では複数形の形式単純化(sをつける)というもっと強い偏流に流されて消えかかっているのに対し(footと feetなどに残る)、ドイツ語ではウムトラウト(aとか oの上につく点の文字の発音)として強い偏流たり得た、という違いの説明。ドイツ語よりそこから派生したイディッシュ語ではその偏流がもっと強く起こっている(俗語だとそういう変化が強まるのか?)という。
(2021 10/16)
第9章「言語はいかに影響しあうか」
サンスクリット語の影響についての、カンボジア語(受け入れ)とチベット語(拒否)の例。
第10章「言語と人種と文化」
この章の最後の節の3ページは、いわゆる「サピア=ウォーフ仮説」の問題を取り上げて、否定はしていないが「真の興味をひかない」としている。がこの本の後の時代では、もっと直接的にこの仮説を支持する文章を書いている。サピアに興味の変遷があったのか。
第11章「言語と文学」
クローチェの「文学作品は決して翻訳することはできない」を引きながら、バッハやシェークスピアのような普遍的体系を持つやや翻訳されやすいものと、ショパンとかスウィンバーンのように翻訳不可能性が全面に出てくるものもある。あと、言語とそこから出る文学について依存関係(高度な文学は高度な言語からしか生まれないというような)を否定している。
あと、解説では一箇所、サピアは現代生成音韻論の先駆者として知られ、チョムスキーが「言語理論の現代の諸問題」においてそれを明言している、という。暗渠通り越して大河だな…
(2021 10/19)