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「声の文化と文字の文化」 ウォルターーJ・オング

桜井直文・林正寛・糟谷啓介 訳  藤原書店

「から」と「と」

書き言葉を必要としなかった民族は今も多く存在するのだが(言葉自体を持たない民族はない)、こうした口承言語のコミュニケーション「と」書き言葉のコミュニケーションを比較したのが、前から欲しかった本の一つオングの「声の文化と文字の文化」。
自分が上記の文章を書く時に、一回、「こうした口承言語のコミュニケーション「から」書き言葉のコミュニケーションを比較した」のように、「と」のところを「から」と一度は書いてしまった価値観を問い直そうとしている。
(2013 09/22)

二つのテーマにおける古代断絶


昨日は日曜日に買った「声の文化と文字の文化」と、真木悠介「時間の比較社会学」を半々で読んでいた。別に狙ったわけではないのだが、ホメロス辺りまでの古代とギリシャ哲学辺りからの古代の間には人間の考え方全般に転換が訪れた、というのがなんというか両者の似ているテーマ。前者は書き言葉(母音文字を加えたことが記号化を促進したという)、後者は時間(振幅する時間ー円環時間ー直線的時間)。
(2013 09/24)

ソ連は声の文化なのか?


昨日読んだ「声の文化と文字の文化」で声の文化(書き言葉を持っていない文化)の特徴を挙げているのだが、その一つに定型の形容詞等を必ず伴うというのがあって、それがソ連のプロパガンダに似ている…というのに苦笑。なんか違う気もするのだが(笑)…
「全米が泣いた」とかいうのはどうかなあ…
まあ、なんにせよ分析的でないのは確かだが…
(2013 09/26)

闘技的傾向


昨日読んだところの声の文化の特徴で、「闘技的」なるキーワードを発見。これは何かというと、相手に謎かけやら悪口やら罵倒やらふっかける文化?があるという。ヨーロッパでもアフリカでも。日本でいえば漫才? もちろん書き言葉になればこういう傾向はどんどん減少していくけど、演説→レトリックとその流れは続いていくという。
(2013 09/27)

声の文化の調査法


いよいよ、声の文化についての特徴から記憶形成の仕方に話は移っていく。
で、どうやって声の文化を調べるか。20世紀前半くらい?の調査ではウズベキスタンや(旧)ユーゴスラビアの村へ行って文字の読み書きができない人々を調査していたみたい。長い間住み込んでいろいろな話の中に聞きたい質問を織り込む。こうしてわかったことは、抽象的な概念や三段論法などは難しいけれど、違った考え方や方法があるということ。

その一つがホメロスの朗唱。韻にするための組み合わせや決まり言葉のレパートリーを多く持ち、その場に応じて組み換える。そうした芸の伝承方法は他の人の芸をひたすら聞く…ということで、今の日本でいえば落語なのかな。長唄なんてのも。その奥底は実は音楽作り(敢えて作曲とは言いません)に通じているのでは?
でも、現時点でこのような調査するのはかなり難しくなっているだろう。それこそピダハンやパプアニューギニアの隔絶した村(ナショナルジオグラフィック10月号に出ていた)にでも行かなければ…
(2013 10/01)

ことばに支えられた文化


「声の文化と文字の文化」は声の文化についてのまとめに入ってきた。そこで用いられたキーワードが標題に挙げた「ことばに支えられた文化」。
このキーワードだけ聞くと逆の印象与えるが、抽象的概念や論理以上に生のことばに重みを置く文化。ここで前に挙げた闘技的という話と絡んでくる。

それが文字の文化になるに連れて内面化してくる。個人の自由なるものはそこから生まれてきた。それがギリシャ哲学からキリスト教成立期に起こったこと(今ふと思ったけど、中国ではどうだったのかな。諸子百家の時代かな)。
書くことによって、獲得したものと失われたもの…
(2013 10/02)

書くこと、印刷、コンピュータ


「声の文化と文字の文化」は書くことについての部分に入った。
話すことは人間に生来備わっている(障害ある場合は別として)のに対し、書くことは教わらないと獲得できない「技術」。
この書くことが技術であるということを皆忘れかけている、とはオング氏の指摘で、初期の場合には羊皮紙とかいろいろな道具も必要なテクノロジーであった。そして徐々にこの技術を内面化していく。このテクノロジーの系譜が後に印刷術、コンピュータと変わっていくけど本質的な問題は変わらない…だけあって、最初の書く技術が最大のインパクトであっただろう。声の文化の集大成であるソクラテス(確かに闘技的である)と、文字の文化の祖であるアリストテレスの板挟みになったのがプラトンという構図?
(2013 10/04)

声の文化と文字の文化の接点としての積荷崇拝


文字の文化の章でも書く人間の側から書いたモノへの話に入ってきた。
で、今も(とオング氏は言う)残っているところもある太平洋の島々の積荷崇拝。これはまだ書く技術がない人々が船の積荷の様々な書類を魔術的に扱う、というものらしい。一方、リストやら表やらなんだか「書く」というにはちょっと…というものも声の文化の人々にはそういう発想すらないという。

虚構の読者

 印刷物によって、書くことが人びとのこころに深く内面化されるまでは、人びとは、自分たちの生活の一瞬一瞬が、なんであれ抽象的に計算される時間のようなもののなかに位置づけられているとは思ってもいなかった。
(p202)


時間が先か書くことが先か、という問題はさておくことにして。抽象的な暦で今が何日であるかなどはほとんどの人が気にしなかったらしい。それは生活の背後で流れ続ける均等な時間というものを意識していなかったため。彼らには彼らの時間の考え方があるのは真木悠介の「時間の比較社会学」で読んだばかり。
続いて…

 書き手が考える聴衆[つまり、読者]はつねに虚構である
 自分に向けて書かれる私的な日記でさえ、わたしは、相手[としての自分]を虚構しなければならない。
(p212)


何を書くにせよ、読者を想定しないといけない。その為には書き手の方も周りから切り離されていなければならない。この記録も想定読者設定になかなか苦労している?
(2013 10/10)

本における生産者志向と消費者志向


前に別の本(何か書いてない…)でもみた手書き本(写本)と印刷本の違いの一つに触れた箇所があった。手書き本は書いた本人や次にそれを写す写字生の為に、いろいろな略記号がある。その意味で生産者志向なのだという。一方、印刷本になってくると読者の読みやすさを意識した消費者志向になる。あと、印刷本になったからこそ科学は誕生したのだというところにさしかかって…
(2013 10/17)

閉じられた世界


「声の文化と文字の文化」、やっと5章まで読み終え。
印刷文化が決定的になったロマン派以降、書かれた作品は他の作品や読者や社会一般と独立して成立していると(それは幻想に過ぎないのであるけれど)認識され、オリジナリティーがあるのかどうか作者は常に悩まされていた。
その伝統は今も残り、エーコが「開かれた作品」を問い、またいろいろな仕掛けで他の作品との通路を読者に開放しているけれど、そういう工夫を常にしていないと危ういものになってしまうほど。

またオング氏は「エレクトロニクス以降」としてマスメディアの「声の文化」について言及している。アメリカ大統領選のテレビ討論番組にしても、それはかってのリンカーンの時代とは異なり「閉じられている」という。どういうところをとって「閉じられている」というのか(記録がない)…
では、現在のツィッターやらラインやらあるいはちと古いけど顔文字とか見たら、オング氏はどんな分析をするのだろうか。
(2013 10/21)

小説を中心に戯曲と心理学


小説の筋(プロット)と登場人物。これらも書くことと印刷から今見るようなものへと変化していったもの。それまでは挿話の寄せ集めと単一な特性の提示(特性の名称そのものが人物の名前になることも多い)。現代のそこから逸脱するように見える作品ももちろんそれを前提として逸脱しているわけだ。
こうした変化のさきがけはギリシャ戯曲に現れる。これらは綿密に書かれた作品であったから。

一方、書くことから生まれた複雑な心理を持つ登場人物が出てきたのと同時期に、心理学も姿を現す(フロイトなども含む)。心理学の成立要因には他にもいろいろあるけど(核家族化と「愛情家族」化という要因も興味をひくのだが)、書くことによる個人意識の内面化・孤立化というのが大きな要因の一つであることは確かだろう。フロイトがオイディプスコンプレックスに言及したのも故なきことではないのだろう。
(2013 10/22)

昨日で「声の文化と文字の文化」を読み終えた。最後の章はこの本の議論を隣接する様々な分野に応用する話。ニュークリティシズムや構造主義、対話分析などなど。
(2013 10/24)

関連書籍

並行読みしていた「時間の比較社会学」はこちら ↓


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