「ベルクソン=時間と空間の哲学」 中村昇
講談社選書メチエ 講談社
著者中村昇氏には「落語-哲学」という本もあるという。気になる…
とりあえず…
ベルクソンの図式においては現在という固定点はないようだ。
「笑い」もそうだけど、ベルクソンの文章は明快なので、引用もしやすい。でも、第1章読んでいるだけで、頭と目の前の光景が分解されそうな感覚に捕らわれる。
この同じ姿勢でベルクソンは精神医学から記憶、進化論、特殊想対論などに入り込んでいく。そして全ての奥底には何か流れているものがある。それが純粋持続なのか。
(2016 09/25)
羊を数える
こちらは「笑い」から。この間書いた、過去の記憶に蚕食される現在というベルクソン固有の考え方がここにも現れてきている。現在に生きているわけではなく、過去に生きている…
メチエの方では、羊を数えるイメージのところで、著者中村氏はこういう空間的イメージで人は(少なくとも中村氏自身は)数えないのではないだろうか。としているけれども、自分も別に頭の中に空間的イメージは特に作っていないけれども、ひょっとしたらベルクソンだったらそういう頭の構造しているのかも、とちょっとだけ思った…
(2016 09/27)
無音の森
先程、中村氏の「ベルクソン=時間と空間の哲学」を読み終えたところ。引用したいところはとりあえずは5箇所くらいあって、それはたぶん土日にでもゆっくり書くことにして、その中で印象的なイメージをもたらす一文を(つまりはあと4箇所)。
純粋な持続の流れはそのままでは捉えられないので、空間の要素を入れて記憶として外界を取り込む。記憶がなければ無音の森。ベルクソンは「無」ということを執拗に嫌ったという。
(2016 09/29)
ベルクソンまとめ(その1)
まずは物質の不可入性について。これは同じものが同時に2つの場所にない。物質が互いに入り込まない、というわたしたちの信念みたいなものだが、果たしてそうだろうか、とベルクソンは問う。
人々が仕方なく?実生活の為に物質や数を導入しているだけなのに、本来的に流体で区分できない自分の感情のようなものまでに数の概念を導入している、とベルクソンは言う。
続いてはある町に滞在して何かの建物などを見た印象の後々の変化。
そうかなあとも思うし、そうでもないのではとも思う。でも意識存在のいくぶんかを借りるという表現が面白くて引っ張ってきた。まあ、建物そのものを知覚しているわけではないことは確かだろう。
その知覚意識存在するわたしという固定点については(その2)で…
ベルクソンまとめ(その2)
こちらでは中村氏オリジナルの文が並んだけれど…この本の最初にあった「わたしという固定点」という議論の総括の部分。もちろん「存在とは何か」なんていう問題に答えができるわけではないけれど、これでまた有益なアナロジーの一つを手に入れたことになる。
そして中村氏はベルクソンを通して、ベルクソンとは反対の結論にも到達しているけれど、それは長く寄り添ったからこそなのだろう。
(2016 10/02)