
「室町時代」 脇田晴子
中公新書 中央公論新社
序章「室町時代の特質」
しかも商品経済の浸透は、それのみならず、今までの自給自足を基本とした人々の生活感情まで、大きく変えてしまった。ナイーヴで汚染されてないだけに、その影響は強烈であった。室町時代の人々が、他の時代に比して、より拝金的で、物質的であるのは、金銭に対する、富に対する免疫性がなかったからであろう。商品経済の波が、農村、山村、漁村をおそい、都市をつくり、人々の観念までも変えてしまったのである。
(p6-7)
その共同体の構成員の享受する「自由」「自治」権は、その構成員の特権であって、他の人々から見れば、それは独占権である場合が多かった。それは中世社会がもつ重層的構造のなかでの特定階層が、集団として獲得した「自由」であって、現代の人間全員が、個人の自我を確立した上で求めるところの近代的自由とは程遠いものというべきであろう。したがって、村や町の、そして商工業者の共同体が自治権を行使し、その構成員たる「町人」や「村人」が一定の権利義務を有することは、それ以外の人間と画然とした一線を有することになった。その一線が新しい身分関係を成立させることになった。
(p8-9)
領主権の根幹である領主の土地領有権が根底から動揺していた。領主のなかには、お金に困って、領地を売り渡すものが増加してきた。買う人間は領主身分とは限らず、凡下とよばれる庶民階層の高利貸が多かったから、世襲身分制はくずれ出した。それを元に戻そうというのが、徳政令であった。だから徳政令は領主反動の性格をもっており、土倉など高利貸は、金銭による売買の権利、すなわち、市民的な私有権を主張しているといえる。ところが、室町時代の徳政令は、一般庶民の債務破棄にまで及んだから、単なる領主反動とはいえず、庶民の生活権を守るものと、領主反動が一緒になったものといえ、問題が複雑になった。
(p16-17)
土倉は徳政一揆の襲撃に対抗するために都市に集まってくる。そして、都市の多くは徳政令を適用させない場所として、幕府から徳政免除権を獲得し、環濠を掘ったり、柵を築いて、徳政一揆を撃退するのであった。
(p17)
商品経済、自由・自治、徳政令と土倉と都市…という室町時代の特色が、この序章にコンパクトにまとまっている。例えば奈良の環濠集落、今井町のような大規模なものではないのも結構あるらしいが、これらもこうした「都市」の一典型と言えるのだろうか。こうした特色を一つ一つ取り上げていくのが、この本の内容になる。
(2024 06/30)
第1章 日明貿易
日明貿易…義満(8回)・義持(断交)・義教(2回)。義満時代は幕府船のみであったが、義教時代は幕府と大名・寺社の連合船隊。これ以降は義政(1回)ののち、ほぼ細川と大内の大名船となる。明側にとって、勘合貿易の狙いは倭寇の取り締まりにあるが、義満時代には一定の効果があったが、義持時代はもちろん義教時代にもそれほど効果がなく、かつ明側の財政悪化もあって朝貢貿易は下火に。
銅銭の輸入…日明貿易の輸入品の主要なものは銅銭。平安末期-鎌倉初期辺りから「銭の病」と称される商品経済の勃興と貨幣の必要性増加が見られる。幕府の銅銭輸入は貨幣造幣権を掌握したと言ってよい。何故日本では(律令時代のように)鋳造しなかったのか。技術がないわけではない。
室町幕府では全日本規模での流通の掌握をなし得ず、しかも商品経済が国際間流通にまで拡大していたことが、通貨を発行できない原因であったといえよう。
(p50)
現代でいえばジンバブエみたいなものか(ちょっと違うか?)とりあえずこの頃から私鋳銭が出始め、戦国時代ともなると逆に銭の輸出も始まるようになる。
倭寇取り締まり…明側が要望していた倭寇取り締まり。もちろん大名などに警固を要請もしたが、実は海賊自体にも警固を依頼してたりする。それとこの時代には、まだ貿易量全体がそれほど多くなく、日明貿易が始まれば全てそちらに移るという傾向もある。冒頭・航海の人材もまたしかり。
もちろん、足利義満が「日本国王」の称号をうけ、明帝国の冊封体制のなかに組み入れられたことは、朝廷-幕府という上下関係とは別箇な、明帝国皇帝-日本国王という別の上下関係を設定することに目的があった。天皇が将軍を任命し、それによって幕府が開けるという、形式的には、やはり天皇が最高の権力者であるという朝廷-幕府の上下関係の絶対性を相対化することに目的があった。
(p51-52)
猿楽・田楽などの庶民層からの芸能と、唐物文化もまた、室町文化として、朝廷の文化的絶対性を相対化させる狙いもある、という。
(2024 07/05)
室町時代の日本を語る史料が多く朝鮮に残され、詳細に国情を論じているのは、禁寇-貿易という朝鮮の外交政策決定のための情報収集の結果であったといえるのである。
(p69-70)
朝鮮との貿易は、明とは違って対等貿易。
第2章「土倉と徳政」
「有徳人」という言葉が室町時代にはある。徳は得で富貴を願う時代背景。有徳人の代表が土倉や酒蔵などの高利貸業者。
しかし、室町の時代相を示すのは、かかる土倉という金融業者の繁栄ということだけではなかった。身分の高低を問わず、男女を問わず、「老若男女貴賤都鄙」すべて金のあるものは金貸しをし、ないものは借りたということにあった。金を貸すということにそれほど卑下や罪悪感はなかったし、物質的、拝金的な世相を、憂うる人も少なかったのである。
(p76)
序章のp6-7の文章とも響くところ。
土倉とは、簡単にいえば現在の質屋である。動産や不動産の質草を取って金銭や米穀を貸す金融業者であるのは、いうまでもない。しかし、銀行という大金融資本があっての現在の質屋とは違って、中世の質屋は銀行の前身であり、いわば銀行と質屋を兼ねたものが、土倉といえるだろう。
土倉は貸付業務が主であるのはいうまでもないが、財宝、権利書等の保管、「合銭」といわれた預金、さらに年貢徴収の請負業務などを行っており、金融業としての一応の業務は出揃っていると見ることができる。
(p83)
土一揆は整然として、組織性をもって行動し、土倉の主人と団交を行ない、私徳政を開始する日時、五分の一とか十分の一とか少分の返済額をとりきめて質取りを行ったのである。もちろん、そのためには大勢で土倉をとりかこみ、火をつけて焼くぞと威嚇するデモンストレーションもやらねば、土倉の主人も承知しない。しかし、実際に火をつけて焼いたかというと、そうではない。焼いてしまえば、質物も焼けるから債務者も困るのである。
(p96)
土一揆に中世の民衆の力を見て変に理想化する傾向もあるが、実際にはそうでもなかろう、というのが脇田氏の見立て。一方で、この時代はどちら側も出たとこ勝負だったような気もしてきた。
(読んだのは、土曜日と月曜日)
(2024 07/08)
徳政免除権は、最初は個人の権利であったが、大山崎を始めとして、富田林、八幡四郷、堅田郷、摂津平野郷、堺などが徳政免除権を獲得している。
自治都市が免除権を獲得するということは、都市全体が徳政令を適用させない地域になるということであって、そこでは物権、財産権は売買によって移動するという私有の論理が完徹したということである。大山崎惣中という自治体を掌握している執行部によって、その現実がうち出され、その獲得は、多額の贈賄を行って実現したものであった。そこには都市に住むものは、その私有の論理に服さねばならないという、農村とはちがった商工業者の道徳、倫理が成長していたものと考えられる。
(p119-120)
こうした徳政免除権を得た都市に集中し、土一揆から守る為の環濠などを配し、近世都市は形成されていく。都市にいなければ土一揆の海の中に孤立してしまう。
(2024 07/09)
第3章「変貌する畿内と諸国」
社会全体の商品量は少なかったとはいえ、近世農村より、中世農村の方が、おそらく現象的には、商工業が盛んだったのではなかろうか。農村に商品経済が浸透して、いまだ都市へ収斂していかない段階に注目する必要があろう。農村に成長してきた商人や手工業者は農間副業から脱して、専業化するにしたがって、都市へ都市へと集住していった。
(p144)
その最後の仕上げが豊臣政権の兵商農分離政策だという。最初の文の問いは、少し近世研究者にも聞いてみたい気がする。中世初期(鎌倉期まで)は、農村の風景は、散居村かせいぜい数軒程度の集住だったらしい。今の典型的な農村の姿になるのは室町以降だという。
秀吉などの楽市楽座政策は、座権利をもたない一般の人間が商業や手工業者に参加する道をひらいたということも事実であるが、前にも述べたように、座権利をこえて通商権を拡大したい問屋の利益を代弁するところがあった。
したがって、江戸時代のように、都市問屋の支配下や、藩の専売制度のもとに、農村産業が組み込まれてしまったのとはちがって、領主の保証する座権利という古い形が、農村手工業を守るという皮肉な成行きもあったのである。
(p155)
これも近世研究者に聞きたい?
それはともかく、この第2節辺り、前の章の徳政のところと並んで、今までイメージできなかった中世世界を描けて、なかなか興味深い。農村から旅して半自立したような行商人から都市の商人へ、と様々な人がその過程にいた。
第4章「自治を高める都市と農村」
(ひょっとして、第2章から第4章までは、ある程度時系列的分析?(自分は各論だと思って読んでいたが))
中世の村の自治権…地下請(領主と村の間の代官を排する)した村が、自検断(警察権・裁判権)を持つという流れ。
種類分け…土豪が居住して支配(例:山城国革島や物集女)、地侍衆・百姓衆がそれぞれ共同体を作って地侍衆が支配(例:山城国一揆や伊勢小倭郷)、百姓衆の単一構成で共和性自治(例:近江国湖北菅浦や湖東得珍保内)
これまで、座商人の特権行使による商品流通の困難さや、関所の乱立による交通障害が説かれていて、座の撤廃(楽座)や、関所の廃止という統一政権の施策のみが評価されたが、この座や関所が、商人団や村落、都市の自治と深い関係をもち、その撤廃が、統一政権の集権化とつながる側面については考えて見る必要がありそうである。
(p205)
ある特定の(付き合いのある)商人団だけを関所で弾かず通してくれ、と付近の村々に金銭送ったり、逆に村の規則を守らず外に出ようとする人をチェックしてくれ、とかいろいろやってたらしい。確かに統一政権側からすれば目障りなのだが、今の歴史観は統一政権の上に成り立っているから一般に対して転換は難しい。そうだなあ、例えば現在のアフリカの地方社会と比べてみるのはどうだろう…
(2024 07/11)
とりあえず読み終え。まとめは後日。
(2024 07/13)
というわけで昨日読み終わり。
古代平安京の七条の市町は、道路に面した部分は閉じられており、市門があって、その中を入ると店舗がならんでいた。現在でもシルクロードの町々のバザールにはそういう形態のところが多い。そこから道路に店舗が立ちならび、その両側の店舗が一つの町共同体を形成するまでの変化があった。
(p219)
こういう今では京都などによく見られる街並みも室町期辺りかららしい。農村風景にしても都市風景にしても、やはり現在日本の原風景のようなものはこの時代発祥なのか。あと逆に、市門から入る市町形態はシルクロードから流入したのか、町の構造変化の共通した道行きなのか、はたまた…
屋地子という、三〜六倍の地代を負担した代りに、領主権を後退させ、地主的権利にしてしまった町人たちは、幕府直轄の住民として、自治的な機能を高めた。地代の町共同体による請負も、戦国末期の史料では行っているが、室町期にも場所によっては行っていたのではないかと思われる。
(p228-229)
都市や農村に、自治的な共同体組織が確立してくる過程、「町人」や「村人」という身分が確立してくる過程が、被差別民の身分を固定していく過程であった。いやむしろ「町人」や「村人」になれなかったことが、差別の対象となったといえるだろう。同じ被支配身分でありながら、一方の権利の確立が、一方の被差別を強化するという難しい局面が見出せるのである。
(p237)
飢饉の時、元乞食の門次郎という男など数名の米商人が、自分のところの米を高く売りたいために、京都に入ってくる米を追い返した、ということがあったという。京都の場合、家を買って家主になれば、座に入ることができた。ただ、門次郎はこの騒ぎの張本人として名を挙げられている、それはやはり元乞食である出自から来ているのではないか、という。
したがって能楽には、底辺に息づく文化を上層に紹介し、上層の文化を民衆に伝えるという、とりつぎというか、中継ぎ的要素を多くもった。
(p239)
芸能者も被差別民(他にも死体処理や意外なところだと造園家もそうだという)。鎌倉末期辺りから、京都には声聞師と呼ばれる雑芸能者が増えてくる。彼らは各地を周り、一方では芸能、一方では宗教的要素を持つもの。そこから能楽も現れた。
「結びにかえて-戦国・近世への展望」
これらの共同体が主張した「自由」「自治」というものは、西洋中世の共同体もそうであったように、強烈な排他性をもっていた。独占権によって築かれた領域、それが自由・自治の範囲であった。それ故に、被差別民をはじき出し、被差別を強化するという特質ももっていたのである。
(p250-251)
この本全体のまとめのような一文。
(2024 07/14)