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「オババコアック」 ベルナルド・アチャガ

西村英一郎 訳  中央公論新社
(作者アチャガはアチャーガとも、以降ではアチャーガと記述)

長編なのか短編集なのか、それともスペインの寄席か


「オババコアック」は「少年時代」「ビジャメディアーナに捧げる九つの言葉」「最後の言葉を探して」の三部構成。それぞれがまた短編から成り立っているので、大雑把に言えば「連作短編集」ということになるだろう。「少年時代」は架空のバスクの村オババを舞台にマージナルな生き方をする少年達と外からやってきた人達の物語、「ビジャメディアーナ」はバスクではなく、カスティーヤ地方の寒村の滞在記、最後の「最後の言葉を探して」はバスクに戻るが、その他にいろんな断片が混じる。その中心にあるのは「今の時代、文学に何ができるのか」という関心。作者は個性とか創造力というより、間テクスト性を重要だとしているらしい。

 私は、一つの言葉を探し、その言葉で本を終わりたかった。つまり、たった一つの言葉、どんな言葉でもよいというのではなく、決定的で本質的な一つの言葉を見つけたかった。他の言い方をすれば、つまり一人のジュベールになり、彼と同じように追求したかった。『一冊の本を一ページに収め、その一ページを一つの文にし、その文を一つの言葉にする、そのような邪な野望に苦しんでいる人間がいるとすれば、それは私である』そう、この人物がジュベールだった。もう一人のジュベールに私はなりたかった。
(p396)

ジュベールというのはこの小説内での重要人物なんだけど、今のところはよくわからない。でも普通に考えれば、間テクスト性とこのジュベール的立場とは真逆なのではないか、とも思える。この辺の謎がこの作品の読みどころとなっていく・・・

ちなみに作者アチャーガは、バスク語の文学作品を読み始めたら三年で読み終えてしまった、と冗談めかして言っている。
(2018 08/16)

バスクの無数の物語の欠片を解きほぐす

スペイン語版からの訳。アチャーガの妻は翻訳家でアチャーガの作品を共同でスペイン語訳しているという。だから他の言語訳よりは作者の息がかかっているとは言える。

三部構成の第1部の最初の話はエステバンの話。大人になって回想記を書く現在と、その回想中の14歳の彼とが交互に織りなす。エステバンの父はドイツの鉱山技師。要するによそ者。エステバンはこの技師とそれから…出生にはまだ謎がかけられている。

 エステバン・ウェルフェルはノートの上で手を組みあわせた。十四歳では父親が理解できなかった。その頃は、父親を自分の目ではなく、他人の目で見ていた。技術者ウェルフェルの公然の敵である人たちの目で見ていたのである。
(p17)

この「少年時代」という第1部の短編には共通点がある。バスクーオババという郷土にどっぷり浸かった人物ではなく、このエステバンの父親のような外からの視点、そしてその外と共同体の接点に立ったエステバンというようなマージナルな存在を扱っているということ。

 その理論は私の人生にあてはまらないことは明らかだった。教会は結びつけるが、また、引き裂いてもいた。私がそこにいること自体がその例であった。
(p22)

この「これこれの結果として世界に示すために、私という存在がある」という思考経路はこの語り手エステバンの癖である…のだけれど、「オババコアック」という作品全体で展開されるような気もしてくる。

 君が失神したときに見聞きしたことを打ち明けたとき、その光景はすべて私との会話の断片で構成されていることがすぐにわかった。
(p43)

バスク、オババの村の教会でハンブルクにいる女の子と会話したという体験を、父親が「利用」し村の共同体から息子をドイツの側に連れてくる。そのためハンブルクのその住所に手紙を書くよう息子に勧める。その住所は父親が会員のなんらかのクラブの住所で、父親の友人が返事を書く手筈を整える。という仕掛け。
上記の文はそれを解くためにエステバンがハンブルクのその番地を訪れた時にあった父の手紙から。話の幻想味としては少し薄れたようだけど、そこで浮かび上がってくるのは「どうしてそこまで父親は息子をこのオババ共同体に入れたくないのか」という問い。自分の受けた高い教養、ドイツ文化への誇りが、土臭い村への拒否感を募らせた?…それ以上の喫緊の事情がありそうな…エステバンの父親だけでなく、ハンブルクがわの会員まで納得して巻き込ませるような、それは明確にはしていないこのクラブの実態に大いに関係するだろう。戦争と大いに関連ありそうな…

あと、この作品書いているのが、こうした外側の作家ではなく、土臭い村の共同体出身のアチャーガである、ということもじっくりこのあとも考えていきたい。

さて、特にこの小説の第3部で中心になるのは、どのように物語を紡いでいくか、文学理論的な話題。この冒頭の短編においてその実例が示されているのでは、父親の話す様々なハンブルクの断片を、教会というそれとは異質な空間で咄嗟に再構成して現前させたエステバン。それをまた組み立て直し再利用した父親。と、物語もそして人生もこうした組み立て直しでできている、という考え、それがどのようにこの後変容していくのか。
(2020 06/29)

書けなかったことを書く技術

昨日から今日にかけて、次の短編「リサルディ神父の公開された手紙」を読んだ。

父親も母親も知らず、旅館で育てられているハビエルという少年が、逃げ出して白い猪になってついには村人を襲っていく。結局マティアスという老人によって双方殺し合うことになる。猪の方はまだ生きていて駆けつけた神父が最後の息の根を止めることになった。ここまでの話でも充分考えさせられるのだが、どうやらこの神父がハビエルの父親だったらしい。そこまで来て最初のタイトルに戻って来たら「あれ、この神父って亡くなった直後なのではないか、と。そこで投函されなかったこの手紙を発見し読んでいるという構図。

これも父と子というテーマと、手紙の一部が読めないことや書き手の神父が書けなかったことなどを含めて、手紙の書き手と読み手という二重の構造。これらが前のエステバンの話とも共通している。
(2020 07/01)

「闇の向こうに光を待つ」

「オババコアック」に戻って、「少年時代」の3編目「闇の向こうに光を待つ」。

 世界は台所から遠くにあった。アルバニアも、海岸の彼女の町も、なにもかもどうでもよかった。
(p87)

オババの外れの地区であるアルバニアというところ(だからバルカン半島の国とは関係ない)に来た(飛ばされた?)女性教師の話。マヌエルという牧童の少年(モーロという名前の犬を飼ってる)と、それから前にいた町の男、冬の小さい村の外れという取り残されたような環境の中で彷徨う彼女の心。

というのが物語の流れ。それを描く言葉の遊びの愉しみ。教師の話だからと、なんか授業で出てきそうなネタを各所に散りばめている。このアルバニアという名前から、おがくずで作ったアジア・アフリカ大陸という地理。階段や歩数を合計幾つかといちいち報告する算数、村の威勢のいい若者の文法に、犬のモーロとマヌエルが繰り広げる名将ハンニバルの歴史と…

あとは、この短編に突然アコーディオン弾きのことが何度か出てくるのだけど、これは次の長編「アコーディオン弾きの息子」にも出てくるのか(ここはチェックしていなかった、再調査)。
(2020 07/06)

少年時代の最後の夜の散歩2編

というわけで、「オババコアック」第1部「少年時代」の最後2編読んだ。といっても、この2編はこれまでより短く、2つ合わせても今までの1編にも及ばない。まあ2つで10ページちょっと。

「少年時代」といっても、この2編は「少女」。前の方が空想の散歩、後の方が実際の散歩。レールが交差するとか、馬がアメリカに売られるとか、なんか子供らしい勘違い?(ではない? もしくは子供ではない?)。
(2020 07/07)

「ビジャメディアーナに捧げる九つの言葉」

まずは序から記憶に対する二つの言葉。前のが精神病院院長、後のが語り手のもの。

 記憶は私たちの精神に生命を与え、潤します。しかし、ダムといっしょで、溢れださないためには放水路が必要です。なぜなら、溢れだし、壊れれば、行く手にあるものをすべて破壊してしまいます
(p114-115)

 私の場合は、過去がいくつかのイメージになっていくと言った。後ろを振り向くとき、思い出の導きの糸も、よく構成された光景も見つからず、島が点在する空虚があるばかりだと。いくつかの島がある無の空間、それが私にとっての過去だった。
(p115)

その次からビジャメディアーナの村の話になる。老人ばかりの200人くらいの村。羊飼いの人々がマージナルな位置に住む。そこは女三人、その夫二人。娼館のように人の出入りは多いが、ほぼ来る人物は限られている。この羊飼いたちはジプシーの来るのを待っているという。ジプシーが盗んだ盗品を彼らが捌くから…村の人々が語るこうした話はどこまでが正しいかわからない…

次は語り手の向かいに住むオノフレという老人の話から。

 私たち自身が自分の人生のなかで、痛ましい真実から逃れたいときがあるし、そういうときには、なにかに、とりわけ嘘にすがるのが普通だからである。なぜなら、真実は苦悶の上に決して存在しないからである。
(p134)

この老人は目覚まし時計を唯一の孤独の友としている。汚く嘘や偏見だらけのこのオノフレを語り手は最初は避けていたが、その孤独を見てからはだんだんと彼に親しむようになった。というか、この語り手の「捨ててきた過去」とは何なのか。

多くの孤独を居酒屋が救ってきた、と語り手は言う。そこで次は村の居酒屋の話。
(2020 07/10)

猟師とクセルクセス一世

 すべての猟師は根本的に、日曜日の大ミサの最中に、ハウンド犬の吠えるのを聞いて、ミサを途中で投げだし、銃を取り、猟犬を連れて、兎を捕りに駆けつける救いがたい司祭のような存在であった。
(p138)

居酒屋に階層付けされていて、庶民的な「ナガサキ」という店は猟師も多く集まる。語り手はこうした階層の低い人や、フランコ支持層の庶民の話を聞き出すことが好きらしい。

p163には、この小説の頻出テーマである、水を鞭打つという行為が初出。クセルクセス一世。
(2020 07/13)

「最後の言葉を探して」

語り手(作者かもしれない)と、医者で文学愛好家の友人とでオババにドライブに出かける。話の発端は少年時代の「最初の集合写真」とそこに写っていた小さいトカゲ。オババではトカゲは耳から頭に入り脳味噌を食らうとされていたのだ。その写真には悪戯好きの少年がトカゲを持って前の少年に近づけようとしていた。

語り手達が青年となり、ふとしたきっかけで写真を5倍に引き伸ばして、そのトカゲに気づく。実は前の少年は徐々に精神異常を起こしてしまっていたのだ。というわけで、話を聞きに悪戯好きの少年イスマエル-今はバルを経営している温厚な店主-に会いにいく。

 人生は完全な話を創ることはない。ただ書物のなかでだけ、力強く決定的な結末を見いだすことができる。
(p197 バルザックの言葉(らしい))

というところから、そのあと「モンテビデオ帰りの叔父」という19世紀文学信奉者の朗読会に行くためオババに向かう。
その旅?の途上で「良い話(短編)の条件とは」のテーマでいろいろな話が出されていく。アラビアの話(千一夜?)、チェーホフ、ウォー、モーパッサン…後半の3人の作品は、ここではアチャーガによって細かな改変がされている(らしい)。最初のアラビアの話については、オリジナル?の次に語り手による別ヴァージョンが披露されている。どうやら語り手にとっては、最初の話の「どうあがいても人間は運命を変えられない」とかいう「運命論」的な展開が気に入らないらしい…落語でいうと、最初の話は「死神」だったけど、その改変ヴァージョンは「堀ノ内」になった…

スペインでは、短編というか小咄というかを詩とともに似たものとして楽しむという文化があるらしい。現代において廃れつつあるこうした楽しみを、スペインの読者は思い起こした、という。

 短い話がいくつも嵌め込まれた物語群で、それがある暑い夏の土曜日から日曜日の夜にかけての二日間の休日のなかで、夏の夜の幻想のように浮かんでくるのである。
(p407 解説より)

「モンテビデオ帰りの叔父」が個性とオリジナルの信奉者であるのに対し、語り手は「間テクスト性」信奉者。さっきのアラビアの話がいい例であるように、何らかの話は別の何らかの話の別ヴァージョンである、そしてそれもまた…という。訳者はこの語り手、ひいてはアチャーガの考えは、彼のキャリアの最初が児童文学からだった、と述べている。

また、9歳頃の「集合写真」から始まって、最後の言葉へと、それはすなわち死へと収斂していくような、進むこの「最後の言葉を探して」は、それ全体が人の一生を模しているのではないか、とまだ最初の方だけど今は想像してみる。そしてアラビアの話の改変のように、その死に抵抗することが物語のまた人間の営みの本質ではないのか、とも。

そしてこれが開放的な夏の、開かれた文学についての話になっているのは、「オババコアック」前半の、閉鎖的な村の冬景色と対照をなして浮かんでいる、そんなふうに考える。

補足:チェーホフ、ウォー、モーパッサンについて
チェーホフは「ねむい」、ウォーは「ラヴデイ氏のささやかな外出」、モーパッサンは「首飾り」。このうち、ウォーのは前に読んだ「短編ミステリの二百年」の解説というか論文に出てたものか(何せ日曜日に箱にしまったばかりなので…これも再チェック)。確かその解説では「この短編は高く評価されてるけど、自分はそこまでとは思えない」とか言ってたような…アチャーガもどこかが気になって改変したのだろうけど…
(2020 07/18)

ラウラ・スリゴ

ちょっと前に会った酔っぱらいの長身の男、仮だけどミスター・スミスなる人物が語る話…は、ペルーのイキトスあたりのアマゾンの話。とある女性と、その夫である医師がこのあたりのアマゾンで行方不明になったのを探しにいく物語。途中で毒蛇に噛まれた語り手は、原住民の呪術師に治療してもらうが、その呪術師に探していた医師の墓を見せてもらう。でも、どうやらこの墓は違うもので、実際はこの呪術師=探していた医師だったらしい。現地に溶け込んでいる医師は連れて帰らずに…後にこの女性と語り手は一緒になった。

という話。医師と呪術師が「=」なら、語り手とミスター・スミスも「=」だろう、と今のところは推論するのであるが…

…小説の第三部「最後の言葉を探して」という標題、それに関わりそうな文章がある。

 それは私たちが考えていた旅の終点ではなかった。私たちは危険や死さえ覚悟していた。しかし、ラウラの夫の消息にも望みをかけていた。だが、まったくそうはいかなかった。彼らは私たちを心から友人としてもてなしてくれたが、なにも話してくれなかった。
(p234)

最後の言葉を見つけたら、そこで旅も人生も終わり。この短編では医師という存在確認が、求められている「最後の言葉」。それを探しつつも先延ばししようとする術が「語り」というものだろう。
(2020 07/21)

 こうしてイスマエルの問題はあとにまわした。あとにまわしたのであって、終わったわけではなかった。
(文学に栄光あれ!)
(p259)

「文学に栄光あれ」のところではたぶんラテン語?の原文が書かれている。
後回しという文学の、そして人生のお決まりの技法。
(2020 07/23)

物語を終わらせない方法

今日読んだのは「最後の言葉を探して」の4編。「朝」、「ハンス・メンシャー」、「五分で話を書くには」、「クラウス・ハーン」。いよいよモンテビデオ帰りの叔父主催の朗読会当日。「朝」では叔父が語り手と友人の前に現れるのだが、十九世紀古典文学、芸術家の唯一無二の個性の信奉者だったはずの叔父が「剽窃も有効だね」などということを言っている。

 「剽窃は金の卵を生むめんどりだよ。本当にそうだ」
(p265)

叔父に何が起こったのか…

さて、朗読会スタート。語り手4編、友人1編、叔父1編。だから、今日読んだところは語り手のもののうち3編。

 「私が扱っているのは、未解決の事件だということをあなたは忘れていますよ」(p273)

さっきのイスマエルと同じで後回し、これは本当に「解決」する事件などは存在しないということと、解決させてしまえば物語がそこで終わってしまうという二重の理由がある。千一夜物語がそうやって伸ばし延ばししてシェヘラザードの命を引き伸ばすように…明かにアラブの古典文学に寄っている本作品は、それを明示するかのようにアラブの情景を物語に取り入れる。
「ハンス・メンシャー」「五分で話を書くには」の対もその一つ。とともに、ハンブルクのハンス・メンシャーの廃墟となった庭から始まるのは、冒頭の「エステバン・ウェルフェル」にも通じている。場所だけでなく、遠く離れたところへの介入というテーマに関しても。

 そのとき、君に向かって、たくさんの文章が、数え切れないほどの文章がガスランプの焔に引き寄せられる蛾のようにやってくる。君は選ばなければならない。苦しくとも、取捨選択しなければならない。
(p276)

これらの様々な技法や効果は書き手の腕にかかっている。「最後の言葉を探して」の最初の「金持の商人の召使」の話や、「朝」にあった叔父の原稿のような無限の書き換えの手法、異なる時間や場所を交差させる技法。

「クラウス・ハーン」はパン屋の配達人の話。最初は普通に始まるが、だんだん尋常ならざる展開になる。どうやらどこかに高飛びする必要があるようだ。誘拐・殺人、そして子供の頃の弟を殺してしまった事故…この話は、何回もクラウスが街の鏡に映る自分を見直すところが先の「金持の商人の召使」の書き換えバージョンに通じている。
(2020 07/24)

巨大なアレクサンドリア

 「そうですね。私たち作家は新しいものをなにも創造しません。だれもが同じ話を書いているのです。よく言われるように良い話はすでに書かれている。書かれていないとしたら、話が良くないからです。今、世界は巨大なアレクサンドリアです。そこに住む私たちは、すでに創造されたものについて批評することにもっぱら従事します。それだけです。ずっと昔にロマン主義者の夢想は消えてしまいました」
(p337)

小説作品がそのまま批評でもある、そんな文学の時代。

今書かれている作品は常に先行作品の変奏である。「良い話」というのは、せいぜい20くらい(勝手な想像)しかなくて、その後ろに変奏の作品が果てしなく続く。

…このような剽窃の手法の話、その他に、今日読んだのは、中世ノルマン人との戦いに参加した二人の若者、そしてヒマラヤ登山でクレパスの裂け目で展開する憎悪劇。
(この二つは変奏関係にある?ない?)
(2020 07/29)

 どのような観念であっても、それがどんなに奇抜なものであっても、私の心に根をはり、勝手に成長していくのだった。しかも、心に浮かべば、ほとんど例外はなかった。
(p390)

 だから、私は、海を見たいと思って出発しながら、浜辺の砂を踏むこともなく死んでしまう巡礼者のようなものだと言えるのかもしれない。
(p398)

 炎が続く限り、たいまつは生きていると。
(p402)

「ウェイ・リー・デシャン」の話とモハメッド(小説内表記)とメッカとの争いのズレと共通点が、この第3部のミステリのテーマであるトカゲと19世紀鉄道の油確保の為子供を拐うという話のズレと共通点を燻りだす。叔父によると、この為19世紀には主婦が駅舎を焼き討ちしたという、その駅の写真もあるという。

p390の文は、イスマエルのトカゲ保護小屋へ夜中に探りに行くという強迫観念についての文章。

p398で最後の言葉に永遠にたどり着かないと書き、最後のp402ではそうした物語の剽窃の文化の永遠性を述べている。
(2020 07/30)

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