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「フローティング・オペラ」 ジョン・バース

田島俊雄 訳  サンリオ文庫

ほとんど死の死に損ない小説 


ジョン・バースの「フローティング・オペラ」に取りかかり。確か購入したのは西荻窪音羽書店。

この小説の概略を言うと標題のようになる。トッド・アンドルーズ(トッド(todではドイツ語で死、toddではほとんど死??))という当時37歳の語り手が1937年6月21日(ひょっとしたら6月22日)に自殺を決意するが、何故かしない、それを後年回想する、という話。
この処女作の当時のバース自身はずっと若い20代。 タイトルのフローティング・オペラは船(ショーボート)の名前。トッドが自殺する場所に決めたところ。それにこんな思い入れ?もあるらしい。

 そのショーボートは停泊などせずに、潮の満ち干に乗って河を上ったり下ったりして漂い、観客は両岸に坐っている。彼らは、ボートが浮んで流れて行くにつれて、たまたまその芝居の筋のどの辺りが演じられていようと、それを目にとめることができるわけだが、それに加えて別の場面も目にしたいと思ったら、潮の流れがまた戻って来るまで待たねばならない 
(p19)


 この辺(メリーランド州)の川って結構海水入り込むんだったよね。このショーボートの仕組み?はなんだかこの小説の語りそのものみたいだな。まあ、ベタ過ぎて本文中ではそこまでは言わないと思うの…言ってやんの(笑)… と、まあ、そんな饒舌な語りにしばらく付き合ってやっか… 
(2016 10/19)

2つ三角形を書いてみた 


「フローティング・オペラ」を進めた。この作品と(前に読んだ)次の「旅路の果て」は作者も認めている姉妹作。奇妙なというか人工的な三角関係が相似になっている。 
後は、語り。上で書いたように重要な三角関係の要素であるジェインも、同じく重要である(まあ常識でもかなり大きな出来事)父親の首吊り自殺も、初めて語られる時にはなんだかもののついでみたいに語られる。おとぼけなのかどうか…

ピクルス工場とトマト工場 


 僕の思案はいつでも事実の後から、周りの事情の結果として生じるだけで、その逆であったためしはないのだ。 (p74)


 バースの主人公に典型的な「できちゃった」行動だけど、大なり小なりだいたいはそういうこと多いよね。 
後は、三角関係参加中?のマックの父親がピクルス製造のトップだったり、トッドの知り合いにトマトの缶詰工場のトップがいたり…と、なんかそういう系か多い。 トッドのヨット制作とそれにつながる未知へと向かう好奇心。そこら辺はまた次回。 
(2016 10/21)

ヨットで大洋に乗り出す背景


 上でに書いたヨットのところから。

 ヨットを作るーそれは僕にとって、絶対的な願望の極、ほとんど聖なる行為とまで思えていたのだ。 
(p93)


自分でヨットを作り、河を下り、チェサピーク湾から大洋に乗り出すーその光景は、下世話な細々した語りの地の文の反転に思えてくる。このヨット作りは純粋に憧れから行ったもので、決して現実逃避ではないと語り手は述べているが、果たしてどうだろうか。辛いことを忘れてしまっただけということもあるのではないか。

この小説もトッドが自殺しようとした1937年6月21日(あるいは22日)の一日のみを小説全体に引き延ばした類型になる。ユリシーズやダロウェイ夫人みたいな…
(2016 10/24)

動物性人間 


「フローティング・オペラ」のその後。第一次世界大戦の体験や、親友で三角形の頂点の一人ハリソン・マックの為の遺産相続判定弁護など。戦争体験から人間など動物と全く変わらないとの認識を受けた語り手は、その冷笑的眼差しでそれらを見る。にしても遺書も滅茶苦茶なら弁護もいい加減だなあ… ハリソン・マックは父親の遺産をもらえるのか、もらえないのか、法律ではどないになってまっか… 
(2016 10/26)

「フローティング・オペラ」昨日は13、14章だったけど、後者の章にあった

 何でこれはみんなヨットの上のことではないのだろう? それなら、舵も帆もみんな手放してしまえるのだ。 
(p202)

というのが唐突に現れるのが不思議。ヨット、海というのがこの作品の地であることは確かなのだが。
(2016 10/27)

マルクスとヒュームとオペラ

 量的な変化は突然質的な変化に転じる…(中略)…水が次第に冷たくなり、どんどん冷たくなっていくと、突然それは氷になる。昼が次第に暗くなっていくと、それは突然夜になる。人間が次第に歳を取っていくと、突然死ぬ。程度の差は、種類の違いへと通じていくわけだ。 
(p250)


 冒頭の文はマルクス主義の言説だという。今で言えば相転移。

 因果関係は推論以上のものでは決してないのであって、推論というものは、ある時点では、見えるものから見ることの出来ないものへの飛躍を伴うものだからだ。
 (p319~320)


 こちらはヒュームから。今までも度々出てきた語り手の〈調査書〉というのが、ようやくここになって中心的位置で語られる。それは語り手の父親の首吊り自殺に関する調査書或いは理由付け。今朝のところはこの章に入ったところまで。解説にある通り、父親に関して語り手はかなりの文量を割いているが、母親に関しては子供の時亡くなったと一言だけ。
 (2016 10/29)

オペラもおしまい


とりあえず「フローティング・オペラ」の残りを読み終え(昨晩)。
歌手の歌うシェークスピアの詩が今までの話のフィードバックになっているのかな。最後も何だか苦い味ながら「ちゃんちゃん」みたいな落ちで終わって、取り残され感示して終わる… まあ、愉しかったからいいか… 
も少し考えてみる?なぜ爆発しなかったかの三重の理由(技術的、内容的、構成的)に、とか。後で… 
(2016 10/31)

フローティング・オペラ号は何故爆発しなかったのか


置き去りにしてた?この問いにちょっと答えてみたいと思う。 
技術的な理由は放棄(笑)。構成的にも、もし語り手が船内の観客、一座や船員もろとも爆死したら、この語り自体が存在しないから(まあ、あの世からの語りという手もあるけど、今回はそれもなし)…という理由で。

さて、内容的にはどうだろうか。自分的には主人公がなんで自殺決意したのか最後までよくわからなかった。持病の心臓の病の件もあったけど…だから何故作者が自殺させなかったのかも、何故自殺決意させたのかも不明。それは枠物語として語りは十分に面白かったからあんまり考えてもいなかった。 

あとは語り手と裏表で自殺してしまったヘッカー先生との関係かな。オペラ号で歌われていたシェークスピアの「ハムレット」が置かれていたというのもあるし。こういう構成で連想したのがグリーンの「事件の核心」。あの作品も自殺に追い込まれる主人公と裏表で親友の銀行の頭取(だっけ)の生死の葛藤が進行していた。

というわけで、作者が姉妹作と認める「旅路の果て」や、一日枠物語としての「ユリシーズ」「ダロウェイ夫人」(これも裏表関係はありなんだけど…今はおく)より、今作「フローティング・オペラ」は「事件の核心」が関連性は強いのではと思う。

でも、読中・読後感はきわめて逆。濃密さがどんどん増していくグリーンと、希薄さがどんどん増すバース。

ひょっとして、主要人物の信仰と連関しているのでは。デュルケーム「自殺論」とは逆にカトリックの方が自殺に追い込まれるという構図。カトリックに反して自殺という一点に集中していくグリーンと、より自由を自分自身の意志を求められるプロテスタント(なのだろう、作品中には書いてはないけど)は自由に考えているうちに、自殺の必然性が揺らいでいく、それに連れて読者の読み方もどんどん拡散して、自殺可能性ガスも読者からも船からもどんどん漏れていく… そうか、それで爆発しなかったのか(笑)。
 (2016 11/03)

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