「大理石」 ヨシフ・ブロツキー
沼野充義 訳 白水社
ブロツキー唯一の戯曲。1984年(ロシア語版)、1989(英語版、ブロツキー自身も訳者として加わっている)
第一幕
生活様式というか土台になっているのは古代ローマだが、「われわれの紀元の終末後二世紀」(p3)ということになっている。その「帝国」の監獄。1キロメートルもの高さの塔の上にある。プブリウスとトゥリウスというコンビ?の囚人とエレベーター。
20世紀、またロシアお得意の?アンチユートピアもの。地球上のどの民族のどの時代においても、監獄に囚われているのは全人口の6.7%。ということで、なぜかこの数字を3%まで引き下げた上で、最初から3%の人々を選んで監獄に入れてしまう、という政策を行う。プブリウスとトゥリウスのコンビはそうした人達。この人達の子孫のみ官吏になることができるという。
トゥリウスの方がこの「帝国」の中での思想に慣れているのに対し、プブリウスは少し不満気味。
エレベーターのことを言いながら、人間の身体のことについて語っている気がする。
この戯曲の影のテーマは「時間」なのではないか。
トーガの襞にあらゆる世界が含まれている。その世界はトーガを着ている人間に寄生して住んでいる。ドーキンスの「利己的な遺伝子」のように…
という解釈を今はしてみた。とりあえず、トーガは時間そのものということなのだろう。
犯罪が因果関係で説明できるはず、と言うプブリウスに対し、トゥリウスは「犯罪が面白いのは、まさにそれが文脈を離れた時」(p45)と言っている。世界文学の半分はこのことについて書いている、とも。その後、このトゥリウスの言葉が来る。どうやら塔全体が監視カメラであるらしい。この二人を見ている「観客」がいるらしいのだ。その観客は、この二人の細かな人生経験や因果関係などまるで知らない。切り取られた戯曲空間の無時間な中で宙吊りの彼らを見ている。
もしかしたら、ブロツキーがこれを戯曲にしたのはこの経緯があったからなのかもしれない。
先のトーガの文章と響き合っていることは間違いない。これもトゥリウスの言葉だが、これまでの彼の言葉とはこのあたり変わってきている気がする。サッポー(サッフォー)とか空を寝っ転がって眺めた記憶など語り出している。
…この本は、今年元旦(午前中だからこれでよい)に実家で「発掘」されたものなのだが、なんと!線が引いてある。場合によってはメモが書き込んである。今日引用した中でp39と最後のp46の文章のみが線引いてない文章。逆も同じくらいの数。線を引いた動機はまるまる同じなのだろうか。p9の文章は明らかに、ちら読みした時に線を引いてあったから読む前から気づき、エレベーターという言葉から消化器官との連動を思いついて、その上で読み始めている。
ま、とにかく、第一幕終わり。
(2022 04/23)
第二幕
…解説から、これ以上、空間を拡大できないという限界に突き当たったとき、帝国に残される可能性はもはや、空間を超え、「時間と融合する」ことでしかない。(p136)
トゥリウスは「スキタイ人か誰か」の詩だろう、と言っているけど、ひょっとしたら(たぶん)ブロツキー自身の詩?
(解説読むと、他にもp40に、脱ぎ捨てたトーガを「静止した湖」に喩える箇所もブロツキー自身の引用であるとか、いろいろあるという)
…これは「ガリアの詩人」と言ってるから、ブロツキーではなく、フランスの詩人(詩の知識が少な過ぎて…)?
p59-60の詩人の終わったところから始めるというのは、ここに着地するのか。
第三幕
p105には、「そりゃあ、過去形の動詞が多すぎるからさ」というところに線が引かれ、「p96」と自分の字が書いてある。たぶんここに戻ってきたのだろう。
解説から…ブロツキー自身はこの戯曲を指して「二重の時代錯誤」と呼んだことがあるが、それは過去と未来(あるいは歴史とユートピア)の両方に向けられた独特の設定を念頭に置いてのことに違いない(p135)
また…ブロツキーの作品では対称的に存在する「過去」と「未来」は円環をなし、その中に閉じ込められた「現在」は出口のない行き止まりで立ちつくすことになる(p135)
「時間と融合」するというのはこうして歌う(詩もまた)ことなのか。
この後のフェンシングの場面(p107)では、まさに「読むための戯曲」の仕掛け、人物の言葉とト書きが、成分の違いをズレとして含みながら、通読することで新たな意味作用を生み出す。
夢を見たあと、夢の筋書きを作るのは、目覚め直後の物語化行為のためだという。夢自体は記憶の再整理で脈絡のない映像や概念の羅列、そこにそれだけでは我慢できず?因果関係とか時系列を加えて夢に仕立てるのは、人間の認知行為そのもの。ここで「時間」というものの正体は、こうした人間の認知行為なのかもしれない。
塔の綻び? 現実に生きるための拠り所はこうした小さな割れ目にしかないのか…と、初読(というか再読?)の時は思ったけど、今まとめのために戻ってくると、ここ、この戯曲のもう一つの側面のポルノグラフィティ(p116には、そのものの言葉が辞典的に出てくる)的解釈でもいい。カタストロフイもあるし。
ここも自身の引用も含んだ、自身のペテルブルク(この解説時点ではレニングラード)の記憶に、作者自身浸って書いたのだろう。
解説から…そして、バルト海に注いで行く灰色に光る川。この川から私は無限と禁欲精神について、数学やゼノンからよりも多くを学んだ。(p129 「一以下」(1976))
また…思考がこれほど喜んで現実から離れて行く場所は、ロシアではここ以外にどこにもない。(p129 「改名された町の案内」(1979))
マンと似たような志向で、ブロツキーも北国の海と川に時間を思ったのだろう。そして、人工的なペテルブルクという町はユートピア文学の温床(もっといい言葉があるはず)であるのだろう。
ラスト。
残された解説より
疲れた。
ので、ブロツキーの楽しい?生涯(放校とか文学裁判とか)は放置して、解説からまだ書いていない2箇所。
この本のオビに「これはSFであり、形而上学であり、コメディである」とあったが、ポルノグラフィティも加えておいてもいいんじゃない? 一応付け加えておくと、卑俗な部分はブロツキーが自身の形而上学を読者に伝えたいがための、言わば導入というかお楽しみとしての導入としてではなく、形而上学と対となる、トゥリウスとプブリウスが対のように、欠かせないものであるとブロツキーは考えていると思う。
「行き止まり」というのは、どこか本文で言及していたと思うのだが…18、19世紀にはユートピアが、ユートピア文学があった。20世紀(ヴェルヌから既に?)にはアンチ・ユートピアが、アンチ・ユートピア文学がユートピアを凌駕し隆盛となった。そしていまやユートピアとアンチ・ユートピアは融合し完成され、「帝国」としてその外に出ることもできないものとなっている。それを、ブロツキーは、亡命先のアメリカという場所で敏感に察知したのだろう。
(2022 04/24)