見出し画像

「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」 サーシャ・スタニシチ

浅井晶子 訳  白水社エクスリブリス  白水社

3つの戦争から1つをチョイス

今年もやる?の年末直前白水社エクス・リブリス読み切り企画…の為の本選びという口実で、新宿紀伊国屋本店の方へ。ハザール事典が文庫化していましたが、それはおいといて、エクス・リブリスコーナーへ。

なんとなく考えていたパキスタンの短編集とブエノスアイレス食堂はなかったので、いろいろ物色。

アフガニスタンの詩人である妻を殺した元々は理解があった夫…著者はアフガニスタンでもどこでも起こることだと序に記している…この本はフランス語で書かれたが、著者はもう母国で書くことができなくなったと言っている。

ボスニア・ヘルツェゴビナのは内戦中ドイツに渡ってその後の変貌した母国を見る、という著者自らの経験を、祖母?物語るという魔法、最後に祖先が出てきて戦争を操っていた叔父?をシーツで包んでしまう…という、なんだかアンダーグラウンドみたいな粗筋。

ニュージーランドのは、パプアニューギニアの島の独立戦争を題材にとる。この戦争では旧日本軍の武器を使ったということでなんだか責任感じる。この作品の一つのキーはディケンズの「大いなる遺産」だけれども、ディケンズではよくオーストラリアが罪人・悪人を流刑にしたり、主人公などが生まれ変わったりする場面転換で(都合よく)使われてきたのを逆手にとって取り込んだらしい。 

という中で、選んだのは真ん中のもの。理由は…
(2015 12/13)

(ちなみに、ニュージーランドの「ミスター・ピップ」は2016年末に、アフガニスタンの「悲しみを聴く石」は2017年末に、それぞれ読んだ)

死のにおいと豚の思考の花

今日から「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」を読み始め。三部構成になっていて、始めは物語る魔法使いとなった子供の視点。
こうやってみていくと、クストリッツァの映画の世界はこの地域の現実そのものだったのかな、とも思えてくる。 まずは語り手の子供に「魔法」を伝授したスラヴコおじいちゃんの葬式の場面から… 

 ここでは、死は刈り取ったばかりの芝生のにおいがする。 死は緑茶のにおいがした。
(p32)

上はスラヴコおじいちゃんの葬式の時、下はまた別の葬式の時。下のには玉を振って香をたくとあるから多分正教の葬式だろう。では語り手一家は?母親が語り手に「洗礼した?」と言っているところをみると、深い過去がありそうだ… 

続いては、ひいおじいちゃんの田舎の家の収穫祭の様子。叔父のミキの出征の見送りも兼ねる。先の章のヴィシェグラードの街が「パパは出張中!」だとすれば、こちらは「アンダーグラウンド」…そんな中の一節。

 自分を殺しに来る人間たちのにおいは、かぎ分けられるんだ。パニックと本能が、豚の頭のなかに同居している。そして共同の庭に、わずかに「思考」という花が咲くというわけさ。明るいひらめきの瞬間に咲く、明るい色の花だ!豚はそういう花を摘み取ると、わめき声を上げて駆け出すんだ!
(p53)

妙な「思考」の説明だけど、案外にいい線行っているかも?記憶と本能は脳の奥で繋がっている。思考やひらめきという体験自体は多くの動物で共通していて、違うのはその強烈なひらめきの力に堪えられるかどうか。
人間は脳に厚みがあって考えを構築することができた。が、豚は雄叫びを上げる反応しか取れなかった…人間も切羽詰まれば余裕がなくなり豚と同じように逃げ出すのかも… 
(2015 12/23)

止まらないスタニシチ節(スタニシチュ)

 ユーゴスラビアについて話す代わりに、名前のない王国の話をした。その国には、存在しないものを言い表す言葉と、言い表す言葉が存在しないものとがある。誰かが、それまで名前もないままにこの世界に転がっていたなにかを言い表す言葉を発明してしまったら、その人は罰としてある島に流される。その島にもやはりちゃんとした名前がなくて、そのせいで「ただの島」と呼ばれている。
(p90)

「発明してしまった…」という言い方にどきりとされ、なにがしかの寂しさを感じ、流された人たちは果たして幸せなのかを問う。そして、こういう言い表せない何かを言ってしまうのは子供や弱者に多い。

 ぼくはすぐに取り乱すよ、とぼくは言った。でも取り乱したときには、なにもかもを一番よく覚えておけるんだ。
(p119)

これもさっきの論点に共通するけど、こんな心理学的事象をさらりと言える少年って何者だろうか。ちなみに、そうして覚えた記憶が事実かどうかはわからない。 というわけで、本文はどこまでも止まらないスタニシチュ(スタニシチ的語り)に呆れるばかり…
(2015 12/27)

そんなものなのかなあ…

「兵グラ」だが(笑)、昨日は第二部というか小説中小説に入った。
語り手の家族はボスニアからドイツ・エッセンに渡り生活し始める。語り手がドイツ語を習得する様子がぽつりぽつり語られるが、これは実際に著者スタニシチが体験したこと。「14歳という年齢は言葉を表現媒体として使えるギリギリのところだった」というようなことを言っている。 
そんな語り手は住む人も何もかも変わってしまった故郷の街には戻りたくない、という。そういうものなのか。これは年齢によって違うものなのかも。

さて、第二部の小説中小説だが、もくじとかもある。ミニチュアみたいだが、これまでの第一部のいろいろな話を裏書きして別の面から見ているような感じになっている。 

ナマズコンビと切ないイタリア人技師との物語ほか

「兵グラ」、200ページ半ば。まずはいつも議論ばかりしている名コンビ、ハサンとセアドおじさんと語り手の釣り上げたナマズの話で笑い。
イタリアから来たフランチェスコというダム技師との話では、フランチェスコが男色だということで切ない別れになる。その間の章から。

 プロパガンダっていうのは、メルヘン作家の名前さ。
(p227)

かけ離れているものを結びつけた詩的テクニックであるけれど、想像以上にいい線行っているかも、この文章の指摘。

続いての文章は、語り手とドリーナ川との詩的対話から、ドリーナの独白。まだ読んではいないのだけれど、アンドリチの「ドリナの橋」への含みもあるだろう。

 私には、閉じることのできるまぶたさえない!私は眠りを知らず、誰のことも救えず、なにも防ぐことができない。私は岸辺にしがみつきたいけれど、止まることができない。私は水の呪わしい集合体でいるしかない!(p257)

流れていくしかない、川の流れ。止めることができない、物語の流れ。もし、川が身投げする人を思いとどめることができたとしたら… … このあと、外部読者には全くの絶望的な試みと感じてしまう、ボスニアに次々とアシーヤの居所を聞く電話をかけまくるという章を境目にして、第三部のボスニアへの帰郷が始まる。

 … 今まで書けなかったけど、この小説の自分個人的な楽しみは、同年代(というか年下(1978年生))の著者の描き出す、懐かしのいろいろ。カール・ルイスに始まって、ニンテンドー64とかのゲーム、サッカーほかいろいろ。少なくとも自分の読書体験では、テレビゲームが出てくる(外国の)小説は初めて。こんなのも世界文学になるんだ…
(2015 12/29)

雨が川に溶け込む時・・・

というわけで、年末恒例行事?白水社エクスリブリス読み切り企画、今年の「兵グラ」こと「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」を先程読み終えた。これ書き終えたら、年越しカップ蕎麦作る予定。 

ボスニア紛争とはこんなもの、という視点を村のラドヴァンという元農夫が語る。ちなみにこのラドヴァン、今は何かの事務所を開いて成功しているみたい。

 だけど、俺の村はもう村じゃなかった。だって、村という場所には人がいるもんだろう。俺は家から家へと歩いた。どの家の扉も鍵が壊されていて、住んでいたやつは寝室にいた。寝ているんじゃなくて、寝室で死んでたんだ。ベッドのなかで、赤い枕の上で。全員セルビア人さ。俺たちはみんなセルビア人だったんだ。たった一軒の家を除いて。そこは善良なメフメドの家だった。
(p334ー335)

(善良なメフメドというのには別に皮肉な意味は入っていない、一応)

今までは、別に〇〇人というような意識をお互いに持っていなかったこの地域の人々が迎えた悲劇。 この後、マリヤという語り手の元カノの昔と現在の声、語り手の旧友ゾラン、ファティマおばあちゃんなどが入れ替わり立ち代わりで流れ込んでくる。話が混線状態になってくる。
未完成なものの絵のリストの後、いよいよ終幕、スラヴコおじいちゃんのためのミサ。死者のミサでは二回食事をするという。一回目は死者抜きで。二回目は死者と一緒に墓石の上で。 二回目になって雨が強くなってくる。シーツで曾祖母が叔父ミキを包んでしまうのはここ。そして語り手の携帯電話が鳴る。

 口笛のような音、ザーザーという雑音、そして女の声。もしもし? とぼくは怒鳴るが、なんの反応もない。ザーザーという音は、いくつもの声の土砂降りになる。まるで二百万の受話器を一度に耳に当てているようだ。
(p392)
 たくさんの声の雨の、ザーザーと甘い音のまっただなかに寝転ぶ。どこにいるの? と二百万の声が泣く。気持ちが悪い。もう限界だ・・・(中略)・・・ぼくはここだよ。アレクサンダル? と女の声が言う。そのとたん、ぼくが寝ている場所は川になる。ぼく自身の雨のドリーナ川をついに手に入れた。そしてぼくは言う。ぼくはここだよ。
(p393)

混線状態が時に一つの声だけはっきり聞こえたりする。二百万もの声の川の中でのその発見は、物語を紡ぐ方法を見つけ出したことそのものなのかもしれない。
雨は川になり、また川は雨になる。川・・・物語が決して線状のものだけではない、ということもそこで見出したはずだ。
(2015 12/31)

スタニシチの二作目は、ドイツの話らしい。早稲田文学2015冬号で、この本の訳者浅井氏が対談で言っていた。(補足:2014年出版の第二作目は、東ドイツの片田舎を舞台にした、ディープなドイツを描いたもの)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?