「小説の技法」 ミラン・クンデラ
西永良成 訳 岩波文庫
元々は法政大学出版会において「小説の精神」金井裕・浅野敏夫訳として出版→「小説の技法」として岩波文庫から西永良成訳で新版。それを東京駅丸善で購入。確かに最初はフッサールの「危機」から論を進めている。フッサールが近代において見落とされてきたという「生活世界」を掬ってきたのは小説であると。
(2020 03/17)
小説の存在理由と詩の消滅
クンデラの私淑する作家の一人がヘルマン・ブロッホであり、チェコ時代は詩人として出発した。それが以降にも語られる。
(2020 03/19)
「生は彼方に」
クンデラの作品に「生は彼方に」というものがある。読んだ時、このタイトルの意味がよくわからなかった。とそんな時見つけた、沼野充義著「亡命文学論」からヤン・スカーツェルの詩。
カフカもその彼方にある「詩」を見つけたということ。とともに、「どこか彼方に」という詩句は、このエッセイのタイトルそのものでもあるのだが、「生は彼方に」を思い起こさせる。
この詩とクンデラの作品「生は彼方に」について、今度はこの「小説の精神」の収録されている当該エッセイ「その後ろのどこかに」を読む(同じ本に収められた「構成の技法についての対談」では「生は彼方に」の構成、上記アダージョ、プレストについても書かれている)。微妙に上記沼野氏の記述や訳と違う。
まず、ヤン・スカーツェルの詩から。
上の詩の方が、日本語としては巧みな気もするが、「四行詩」ということだから、下の方が原詩には沿っているのか。
カフカ「城」を読んだ体験(ここでは14歳となっているが沼野氏の本と異なる)。これがクンデラの原体験のようだ。
クンデラのいう詩とは、「生は彼方に」で描かれていた「踊る」詩とは違う、いや最初は踊る、眩惑されるのだが、また詩人は新たな人間の可能性を見つける旅に出なければいけない、そういうことか。
…あと、この章冒頭の「亡命者」や家庭内権力の発動(第4節)など、「カフカ的状況」のあれこれが気になる。
(2020 03/24)
第2部「小説の技法についての対談」
比喩は直感的にはゾクゾクするほどわかるが、実際に何を意味しているのかは考えてみないと。後半は普通逆(人間は世界の一部であり)なんだけど、そうでないとすれば…
そしてクンデラは、カフカを実存の小説の端緒とする。この系列に続くのが、ブロッホであり、ムージルである。
(2020 11/07)
第3部「『夢遊の人々』によって示唆された覚書」
この観点からマンの「ファウスト博士」やフェンテスの「テラ・ノストラ」を読むページが続く。
橋が架けられるのもまた終焉の時においてだろう。
P95からの「未完成のもの」は、特に第三部「ユグノオ または即物主義」に対するクンデラの不満だけど、次ページのその不満に対する「探求」なるものは、そのままクンデラ自身の著作術に通じるのではないか。
最後にブロッホ自身が言ったというこんな言葉を。
これは歳を重ねるごとに実感が深くなる…
(2020 11/08)
第4部「構成の技法についての対談」
(第二部と対談の相手は同じ、第三部のブロッホからの課題?から話は始まる)
セルバンテスの頃から、小説は単線的流れをなんとかして打ち破ろうとしていた。セルバンテスは違う話を「はめ込む」ことによってそれに対処した。ドストエフスキー「悪霊」において、同じテーマによる三つの物語の並走という形が生まれた。ブロッホはこの手法の「物語」という同一ジャンルのポリフォニーから、5つの違うジャンルのポリフォニー(長編小説、短編小説、ルポタージュ、詩、エッセー)のポリフォニーとする。さて、クンデラはブロッホに足りないものは「声部の等価性」と「ひとつの声部がなくても小説には支障がない」ということ。
クンデラの若い頃、ピアノ、ヴィオラ、クラリネット、打楽器の四重奏曲なるものを作曲した(当時は小説家になるなど考えていなかった)というが、これがまた七部構成で、異質な要素の構成。
「セルバンテスの宿屋」ヴォードヴィル的要素。「ドン・キホーテ」第一巻で今までの登場人物が同じ宿屋に集まって…本当らしくはない、喜劇的な要素。他の例として、カフカは「アメリカ」冒頭において、ジッド「法王庁の抜け穴」やゴンブロヴィッチ「フェルディドゥルケ」など。クンデラでは「別れのワルツ」や「可笑しい愛」の「シンポジウム」など、これは五部構成。
最後の文章は、既に第6部「六十九語」に入っている…(2020 11/15)
小節線と戯れ、忘却に漂う
(タイトルは適当かつ(クンデラが聞いたら)それこそ「キッチュ」だと言われそうだけど)
ということで、第6部「六十九語」。事典風にまとめている。人間は徹底的に何かをするということが苦手。忘れたり、自惚れたりする。ロックに関する言葉は手厳しいとも思うけど、よく読めば全否定でもないとも思う。
(2020 11/17)
第7部「エルサレム講演-小説とヨーロッパ」
ライプニッツは「おおよそ偶然に見える出来事もなんらかの要因があるのだ」と定式化する。それと対話し、反対方向に拡張するのが、小説。
そして因果関係のほころびには、笑いが生まれる。
この評論集?も七部構成だが、最初と最後が講演でこだましあっていること、第2、4部が対談(同じ対談を分割)、第3、5部がブロッホとカフカの評論、第6部がちょっと異質に見える用語集…3、5がアダージョな音楽的構成、なんてクンデラの他作品のように考えるのも楽しい。
(2020 11/18)