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「別荘」 ホセ・ドノソ (後)

寺尾隆吉 訳  ロス・クラシコス  現代企画室


前編はこちら

第二部「帰還」の第8章「騎馬行進」

 ファビオとカシルダの口から出てきた恥ずべき話と同じことを、敷地の死角や人目の届かない屋根裏で、彼らもかつては行っていたのだし、-同じことだが-思い描くこともあったが、それでも、この二人のように悩ましい結びつきに陥ったことはない。ファビオとカシルダを馬車へ押し込むことで大人たちは、彼らを地平線の彼方へ押しやろうとしたのだった。強欲、盗み、復讐、禁じられた添い寝や愛撫、このすべてを大人たちは体験していたのだが、文明人としての暗黙の了解でこのすべてを忘れることにしていたのだ。
(p286)

 生き延びるために必要なのは、型にはまったいつも変わらぬ理想の人間像を保ち続けることだ。人格を欠いているのは、フアン・べレスではなく自分たちなのだ。そんなものは必要ない。
(p294)


ハイキングから帰還して近くの礼拝堂へ来た大人たち一行は、そこでファビオとカシルダと会う。彼ら二人は、マルビナとイヒニオ達とはぐれてここで一年暮らして子供?もできたという。この二人を馬車に押し込んで(この後の二人の行方は知られない…などと作者の横槍(槍といえば今まで縦ばっかりだったので、たまには横も)も入る)、その後の文章がp286。ハイキングの一日とファビオたちの一年がずれているのも気になる。
別荘を原住民たちとアドリアノが占拠したと聞いて、大人たちは使用人たちに武器を持たせて向かわせ、自分たちは首都に戻る。p294はそこでの文章。こういう精神は、戦争へ向かう社会には必ず出てくるもの。しかしそこで、執事の身体をまじまじと見たりしているうちに、彼のうちに何かの人格を見る。そしてこの章最後の馬丁の謎めいた書き方は何なのだろう。気になってしまう。
(2023 03/15)

第9章「襲撃」


どうやら一日ではなく一年だったらしい。前章でファビオとカシルダにいた子供も人形ではなく本物だったようだ。
そして使用人達の襲撃。まず荒野の中の原住民の集落。ここでフベナルとメラニア達を原住民たちから奪還した使用人グループは、別荘へ向かい、原住民たちを殺戮しアドリアノを銃撃する。ウェンセスラオだけは逃亡に成功する。ここで執事以上に悪辣なのが、アドリアノに個人的怨みを持っているようなフアン・ペレス。一方、「使用人全てを悪人に仕立てるつもりはない」と作者の介入があるが、これはのちの伏線にもなるのか。
では「襲撃」とは何だったのか。

 一年前手にした勝利とその後に続くあまりに愚かな失策の連続、そして使用人部隊の襲撃によってもたらされた苦痛と屈辱が、子供たちと原住民の心に等しく深い爪痕、怨念にも似た何かを残していったことを考えれば、別荘ではすべてが変わり果てていた、と私がここで断言したとしても、読者には容易に信じていただけることだろう
(p342)


実はこの文章自体は、次の第10章「執事」の始めの方にあるもの。今まで言及を避けていた?けれど、この小説に深く関わっているのが、チリのピノチェトのクーデター。この小説が書き始められたのはクーデター勃発の一週間後。殺害されるアドリアノはアジェンデ大統領、そしてこの章最後に出てくるギターを奏で歌うフランシスコ・デ・アシスは、ビクトル・ハラが投影されている。では首都に戻った大人たちはチリに権益を持つ外国人?
(2023 03/16)

第10章「執事」(承前)

 孤独な者に特有の不遜な態度で彼は、屋敷も石段も銅像も、そして、庭も失われた境界も、何物もこの無快楽症を覆すことはできないし、自分の内側にある何かをはっきりさせてくれるわけでもない。
(p347)

 柵が再び完成するまでは恐怖を感じなくてすむが、柵が再び出来上がった途端、恐怖がまた舞い戻ってくるのだ。柵を立て直しても、事態は大して変わりはしない。一度崩れた秩序は、たとえ表面上元通りに戻ったように見えても、実のところ異質な秩序の模倣にすぎず、時間的なずれがあるせいで、必ずしも現在にうまくあてはまるわけではない。
(p348)


フアン・ペレスとは何者なのか。この章は「執事」という題だが、執事よりフアン・ペレスの方が存在感がある。
続いて筋は広間の壁画を修復している中、執事と料理長が話をしている。そこで料理長がだんだん人肉への興味をぶちまけ始めると、執事は(人肉云々ではなく)時間概念を話したことを咎める。ここで執事はやがて戻ってくる大人の主人たちが戻ってくるまで子供たちを閉じ込め、時間の概念を無くすため窓を潰して監視体制をとっていたのに対し、フアン・ペレスは大人たちが戻ってくれば大人たちも閉じ込めてしまおう、と思っていた。
そんな中の文章。

 いつも必ず最後には枯渇する権力が、最大の獲物の到着前に枯渇することのないよう気を配っていなければならない! そのためにこそ、こうして壁画の前に立って、修復するふりをしながら、ゆっくり少しずつ、顔や雰囲気、空気、時間や無時間を描き直しているのだ。
(p363)


こう考えるフアン・ペレスとは何者なのか。「修復」はふりをしているわけだから、「描き直して」いるのは、壁画ではない。では何を。この小説自体を? ここにいるのはもう一人の作者か、または作者に反逆しようとしている登場人物か。とにかくこの「悪役」にドノソがとても親しさをも感じている(分身かのように)のは確かだろう。
この章追っていくに従い、人肉食の比重が高くなっていく。邪悪な侯爵夫人(もうこれが誰なのかよくわからないまま読み進める)に騙されて人肉を食べてしまったコスメは行方がわからなくなり、他の下の子供たちも食事を受け付けず「狂気的な飢え」に取り憑かれる。

 すでに家中に溢れていた腐った金箔の包みが、悪臭を放ちながら赤っぽい金粉で大部屋小部屋を満たし、子供たちは、血の猿轡のように空中を漂ってベタベタと顔に付着してくるこの物体が一体何なのかもわからぬまま、もはや包みの山の後ろに隠れる気力すら失っていた。
(p375-376)


金と血が同じ物であるように描かれるここの描写のすさまじさも、チリのピノチェト時代を象徴するものなのだろう。確かこの時代のチリは新自由主義で金回りはよかったのではなかったか。最後にコスメのことを聞きに執事のもとへ乗り込んだアラベラが、その後拷問を受けて捨てられる。ここでは「ゲラ段階の原稿では、拷問を受けているアラベラの内的独白があったが、それは伏せておく」との作者の介入が出てくる。それは作者の現状認識と心理探求と配慮の結果なのだろう。

 英雄的行為には様々な形があるし、一見臆病に見える極端な振舞にもそれなりの英雄心が隠れていることがある。
(p379)


だけど…最後に本が読めないことを悟ったアラベラが、「憎悪のために、生きていられると感じた」とあるのを見ると、結局、人間は、社会は、憎悪でしか成り立たないものなのか、と考えてしまう。
次の章「荒野」は、訳者寺尾氏によると、全体の核であり、ドノソも一番苦労し書き直したところらしい。いよいよ…

第11章「荒野」

 全知の語り手たる私には許されることなのかもしれないが、この地下の話が私の意志を越えたレベルにあるとか、このページには収まりきらないとか、そういった趣旨のことをこの語りに匂わせるつもりはない。
(p384)


「全知の語り手」とは文学批評ではよく使われる言葉であるが、小説作品そのものに出てくるのを見たのは初めて。
前章辺りから作者の介入が増えてきた感があるけれど、次のはどうだろう。

 暗闇が絶対的状態だなどと言っているのは一体誰だ? 僕はそんな意見に賛同できない。今僕が置かれているこの暗闇ほど完全な闇が他に存在するとは思えない
(p389)


上の第10章のゲラ段階云々の時(p379)と同じく《》で閉じられたここも作者かと思って読み進めると、ここは作者ではなくウェンセスラオであることがすぐわかる。《》は、最終局面で作者が急いで書き直した(あるいはそう見せかけた)箇所なのか。
荒野の夏の終わり、秋の始め。南半球だから、ちょうど今頃(3月)くらいだろうか。作品がどう収束に向かうのか向かわないのか、今の時点では全く予想もつかないが、一つ確実なのはグラミネアの綿毛の嵐が重要な要素となること。ここではそれに一つの情報が加わる。大人たち原住民たちは体感的に知っているが、今権力を握っている使用人たちは綿毛の嵐を知らないということ。一年交替でかつ大人たちには絶対服従の彼らには仕方がないことであり、この作品ではグロテスクに戯画化されているが、彼らもまた何らかの構造の犠牲者であることも考えられる。
さて今日の最後のところは、またも作者の介入。

 事態がどうあれ、今や私の物語の主人公も同然となったウェンセスラオが、少なくとも結末に至る前に死ぬはずはないから、当面読者には安心してもらって差し支えはない。
(p408)


あやしい…「いいなづけ」のアッポンディオ神父ならともかく、20世紀バリバリのホセ・ドノソのこんな前振りに騙されてはいけない? そもそも、ウェンセスラオが果たして「主人公」と言えるのか…
まだ続く…

 確かに、ここまで読んできた読者のなかには、すでに物語と呼ぶには長くなりすぎたこの物語の幾つかの段階において、ウェンセスラオの人間像がぼやけ、消失してしまいそうにすら思われる局面を見出した方もおられるかもしれないが、それは大した問題ではない。
(p408)


ないのかい(笑)
どうやらここの文章においては、作者は特定の人物を主人公や視点人物にするとか、構図が最初にあってそこに人物を当てはめて風刺するとか、そういうことではないらしい。
(そうとも言えない箇所も多々あるのだが…)

 芸術家にとってより重要なのは、金色を帯びながら、美しく、感動的に、そっと空から離れていくにつれ、そこに心地よい非現実的空間が出来上がって、最終的に絵の主人公となる。同じように、小説においても、実は純粋な語りこそが主人公なのであり、最終的には迸るこの一連の言葉の波が、登場人物、時間、空間、心理学、社会学を打ち砕いていく。
(p409)


ここで絵が取り上げられている芸術家はプッサン。あやしいところもあるのだけれど、とりあえずこの作者の提言を素直に受け取って進もう。広間の絵のようなものがここで肯定されている感はあるのだが…
(2023 03/18)

第11章「荒野」の残りと第12章「外国人たち」第2節まで

 眠っていたのか、眠ったとすれば何時間、何分眠ったのかまったくわからなかったが、夢か疲労か仮眠か幻想か悪夢か、ともかく、頻繁に往来する動物たちによって空中に切り取られた奇妙な空間の奥から、臭い、熱、血、汚物、性液が漂い、呻き声が聞こえてきた。鳥、鹿、それとも、猫だろうか? いや、アマデオだ。よろよろと三人は立ち上がり、アマデオ、アマデオ、アマデオと必死に何度も叫ぶヒステリックな声が、断続的に聞こえていた呻き声にかぶさった。
(p425)


ウェンセスラオ、アガピート、アラベラ、そしてアマデオの四人の荒野の逃避行。アマデオがいなくなり、この後再び見つかって時には手遅れだった。最後にアマデオは自分が死んだら自分を食べてくれ、と言う(ここの台詞、最後の方に(アマデオが幼児語しか話せないと周りに思わせるために使っていた)幼児語になるのだが、だとすると、今まで見せつけるために使っていた幼児語の方が本来のアマデオなのか? 訳でどう変化しているのかにもよるが)。そしてアマデオが亡くなった後、疲弊した三人でその儀式を行う。ここがこの作品全体の核となる場所。
作者の介入は「元々は、ここで残りの三人の行方はわからなくなった、となっていたのだが、変更して挿話を入れることにする」と書かれ、大人たちの馬車が通る、ところでこの章が終わる…ここ、次の章「外国人たち」の読みかけ(第2節最後)にかかってくる。

第12章「外国人たち」は、外国人たちになんとか別荘地を売却させたいために案内する大人たち…なのだが、もう恒例の作者の介入が始めに入り、バーでシルベストレにこの「別荘」の原稿を読んで聞かせる。当然のごとく?シルベストレは我々とは似ていないと言う。そこで作者が言うのは、解説で引用されている「特別難しくはない」云々であり、この「会見」が終わって元の話に戻る前に…

 この本の基調、この物語に独特の動力を与えているのは、内面の心理を備えた登場人物ではなく、私の意図を達成するための道具にしかなりえない登場人物なのだ。私は読者に、登場人物を現実に存在するものとして受け入れてもらおうとは思っていない。それどころか私は、言葉の作り出す世界のみに存在可能な象徴的存在-何度も同じ言葉を繰り返すが、生身の人間としてではなく、あくまで登場人物-として受け入れてもらったうえで、その必要最低限だけを提示し、最も濃密な部分は影に隠してしまおうと思っている。
(p446)


こんなことを小説中で言い出す作者も作者だけど…
外国人たち…の中では、第三の「いてもいなくても同じ」から「最初はいてもいなくても同じだと思っていた」にだんだん変わっていく外国人の存在感が出てくる様子が楽しい。
その外国人が大人たちに、人食い人種を絶滅させて、グラミネアも絶滅させる、と通告。そこから…
(2023 03/19)

綿毛

昨夜、p498まで、今日残り読み終えて、なんとか3月中に読み終えた。
といっても、構成上綺麗に終わる…ということはまるでなく、グラミネアの綿毛の嵐が訪れる中、開かれた終わり方だということしか、今は言えない。
昨夜読んだところでは、ピクニックが1日ではなく1年だったというのが、子供たちや別荘の変化だけでなく、大人たちの側でも荒廃が起こっているのが目についた。
今日の部分に入ってすぐ、第一部で金箔満載した馬車で逃げたマルビナ(カシルダとファビオを荒れた修道院に置き去りにし、イヒニオは異国に旅立たせた)の馬車の一団がやってきて、ウェンセスラオとバルビナは閉じ込められた塔から解放され、大人たちは裏切りによって叩きのめされ、別荘に戻ってきたところで綿毛の嵐が来る。

 まだ終わりにしたくない。読者の皆様、もう数ページの辛抱だ。この想像空間の惰性になす術もなく押し流されていく私-私たち-としては、この渇望を沈めるべく、もう少しだけ歩みを進めて、沈黙とともに永遠に葬り去られることになる幾多の仕草のうち、少なくとも一つくらいは救い出してもいいだろう。
(p544-545)


そして全ては綿毛に覆い尽くされる。広間で横たわっていた人々はやり過ごすことができたのだろうか…
解説からは、この小説の始めの構想は、リョサの子供たちとドノソの養女が一緒に庭で遊んでいたのを見ていた時。最終の場にもなった広間の壁画は、ドノソが旅先で見た、イタリアのルッカのものが土台となっている、など。
(2023 03/22)

ひょっとしたら、この作品の最後、綿毛の嵐のところは、花粉症の人が読んだらかなり現実味に迫ってくるのかも。グラミネアと杉の植林は似ている部分があると思われる。
(2023 03/23)

おまけ

ということで、一か月くらい経過し、寺尾氏と佐々木敦氏の「別荘」刊行記念対談(ジュンク堂チャンネル)を見た。ここでは3つ。
1、ドノソのミス? 33人のいとこのうち、全く?出てこない人物が一人、それからこの小説ではいとこ達は大きく2つの陣営に分かれるが、そのどちらにも加担している人物が一人。
2、寺尾氏が何度も強調していたのが、ドノソとガルシア=マルケスの二人が一番の虚構を作り上げようとする力がある(ストーリーテーラー)ということ。これが、作品中で作者が「この作品はフィクションですよ」と何回も念を押す理由の一つになっている(他の理由には、あまりに現実の歴史に結びつけられたくなかったというのもある)。
3、1970年代に「夜のみだらな鳥」の訳者鼓直氏が翻訳版権(新潮社)とったけれど、鼓氏は多忙諸々で訳せなかった。それを後年、鼓氏の許可とって継承したのがこの訳。
(2023 04/21)

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