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「日本語の森を歩いて」 フランス・ドルヌ+小林康夫

講談社現代新書  講談社

共著者のフランス・ドルヌと小林康夫はじつは夫婦なんだそうな…
共にパリ時代に学んだアントワーヌ・キュリオリの講義をまた聞きにいくところから話は始まる。キュリオリ伝授の発話操作理論の言語学…談話分析を文法レベルまで持ち込んで考えたという感じ?…から 

 発話主体は、ある意味では、つねに発話行為のある種の盲点として存在します。そこからすべてがはじまりながら、それ故にみずからを起点とする関係網を関係としては意識することが困難になります。 
(p16)
 どの日本人にとっても、あまりにもあたりまえで、いかなる不思議からも遠そうな「行ってきます」という表現が、とても不思議なものと映ります。自分の母語による関係網の形成の枠のなかにうまくおさまらないものがあると感じる。そこに日本語ローカルな表現があると見るのではなく、そこには自分の母語にはそのままの形で現れてはいないが、しかし別の回路を通ってつながっているような一般化可能な関係設定が現れているのではないかーそれが探究の出発点なのです。 
(p17)


具体的な内容の中では、「庭の先」と「庭先」の正反対の構造、「て」が結ぶ時間になる前の「時」の関係など興味深い。 
「庭の先」では先は方向性を持ちその「先」に向かうが、「庭先」では「先」に行かない。「口先」「鼻先」などの「の」の入らない表現も同じ。「て」の時は・・・ 

 確かに「て」は、それだけでは文を終わらせることができず、かならず次へと接続していく機能を持っているのですが、単なる接続詞としてはとらえきれない複雑な働きをしています。しかもそれは、「時」と「時間」の区別という根本的な言語の次元にかかわっています。 
(p103)


「て」でその文中の中での「時」を設定し、「ている」の「いる」などのような語と結びついて、実際の発話空間と接続し現実の「時間」を表現する。 述定関係(述語と関係する項の関係)と発話空間の2つが、前者を後者がつなぎ止めることによって様々な言語が成立しているというのが、この本の最も基本にある考え方。

 このように一般的に、日本語はフランス語などと比べて、言語が発話の次元の主体間の関係に大きく依存しています。 
(p200)


これは、日本語においては、先に上げた言語の2つの構造のうち発話空間(モダリティと共通?)の割合が高いということを指摘している。これは前に「記号論への招待」で自分的に半ば保留にしていたのと同じ指摘かな?

  日本語の現象がわたしにおもしろいのは、こうしたふたつの言語のふるまいが共存していることです。同じ言語行為(感謝、お詫び)でも、はっきり言わなくてはならない社会規則と、人間関係を和らげる可能性を与える言語が共存している 
(p218)


 「すみません」等をすぐ言う習慣と、「て」で終わるお詫びの言葉(「どういたしまして」みたいな)の文化と。
最後にこの文章を挙げておこう。

 どんな人も、言語を喋っている限り、世界とのあいだに関係を、しかも自分では意識していないような複雑な関係を、それこそ発話の現在のたびごとに打ち立てているということにあらためて感動したと言いましょうか。 
(p229)


(2016 06/26)

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