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「ナボコフ 訳すのは「私」 自己翻訳がひらくテクスト」 秋草俊一郎

東京大学出版会


序論概要


この本のタイトルの最後の「私」は、秋草氏ではなくナボコフ自身。ナボコフの自己翻訳に関する論。

ナボコフの自己翻訳。元々の著作は長編では8と8で互角だが、短編や詩になるとロシア語作品が断絶多くなる。「ロリータ」以後ナボコフはロシア語で小説を書かなくなったが、詩はずっとロシア語で書いていた。自己翻訳のうちほとんどがロシア語作品を英語に訳すというもの。これに対し英語作品をロシア語に訳したのは「ロリータ」のみ。またフランス語「への」または「からの」自己翻訳も1作品ずつある。英語→ロシア語の場合、共訳者を立てることが多いが、ほぼ判断はナボコフ自身がしていた。

3人の作家、コンラッド、ベケット、クンデラとの比較。コンラッド はポーランド語では作品を残していない。ベケットは英語-フランス語を両方向とも訳していたことではナボコフ近いが、ベケットは時間を空けずに翻訳したのに対し、ナボコフの自己翻訳は時間が空く場合がほとんど。それも先に述べた通り方向別に数的差異が大きい。改訂も兼ねているという見方もあり。クンデラはそれよりはナボコフ寄り。どちらも作品の他人の訳に不満だったことがきっかけということ、クンデラもフランス語の作品をチェコ語に、という方向ではほとんど翻訳していない。近年多い、多和田葉子らの自己翻訳はベケットタイプ。一方ブロツキーや、ロシア以外ではキューバのインファンテなどはナボコフ-クンデラタイプ。

 私にとって実質上チェコの読者はいないので、翻訳こそがすべてなのだ。
(p14 クンデラのエッセイから)


そういう視点は自分の中になかった…ナボコフの場合はベルリン等の亡命ロシア人社会にいたからほんの僅かだけロシア語読者は増えるのかもしれないが、大枠は同じだろう。

自己翻訳戦略についての問題点。
バルトらによって、特権を奪われ「死」に至った作者が、訳者として甦る…ナボコフの場合もクンデラの場合も、作者自身の翻訳が「忠実」かどうかは疑問が残るという(クンデラに関しては赤塚若樹「ミラン・クンデラと小説」水声社参照(まだ読めていないが))。
どちらの版を認めるのか。ナボコフの場合でいうと、改訂ということで英訳を決定稿とする見方、原典重視でロシア語訳を決定稿とする見方、そしてどちらかをそれぞれ読んで決めようという見方。この本では最後の見方を取る。
そして、「大規模な改作」と「小規模な改作」(前者は「キング、クィーン、ジャック」、「暗箱」、「絶望」、「密偵」、後者はそれ以外…ジェーン・グレイソンの分類)では、今まで研究は前者のみに集中していたので、ここでは後者を主に取り上げる、とのこと。
(2023 02/24)

第一章 ナボコフの「自然な熟語」


例は「密偵」(ロシア語)-「目」(英語)から。
自殺したその男が死後もある男(スムーロフ)に目をつけ観察しているが、このスムーロフが卑劣過ぎて耐えられなくなったとき、じつはその観察しているという語り手がスムーロフ自身だった…という話。
その最後の部分をロシア語版と英語版で比較。

 私が理解したのはこの世で唯一の幸福とは、自らを、他人を観察すること、密偵すること、じっと見つめること-いかなる結論も出さずに-ただ視ることなのだ。
(p52)


これはロシア語「密偵」から。

 この世界で唯一の幸福とは、自分と他人を観察すること、スパイすること、注視すること、子細に至るまで見つめること、巨大な、わずかにガラス質な、幾分血走った、瞬きせぬ目になること以外にないことを私は悟った。
(p53)


これは英語「目」から。

ロシア語版では、「密偵」という単語から派生した「密偵する」という言葉(この一箇所しか出てこない)、慣用句を使って読者にイメージをサブリミナルに刷り込んでいく。英語版ではロシア語版での方法は翻訳不可能のため「私」が目になるという派手なイメージの積み重ね、そしてトリック(eye=I )の開陳という違った手法を持たせている。

 比喩に溺れないよう注意を払って言うなら、それは蝶の擬態にもたとえられるだろう。捕食者の目を欺くため、樹木の表皮や葉に極限まで己を似せる擬態は、ただ生き残るという目的を超えて、ほとんど芸術的な精緻さを見せる。ナボコフのロシア語文体は芸術的なまでにロシア語という樹木に一体化しているため、読者はその本当の翅の模様を見きわめるのが時に困難だ。ナボコフは異国というロシア語の木自体の存続が危ぶまれる状況で、その文体を木の特性を利用した精巧なものに仕立てていった。
 しかし亡命社会を離れ、英語作家として生きていかざるをえなくなったとき、困難は始まった。なぜなら、その文体はあまりにロシア語特有の性質に依存しすぎていたから。それは長い年月をかけて周囲に溶け込む擬態を進化させてきた蝶が、別の環境では擬態が機能せず、生存できないのと似ている。翅の模様-ロシア語文体はそもそも翻訳不可能であり、ゆえにナボコフは一から英語文体を作り出さなければならなかった。
(p55-56)


(比喩に溺れてない?)
と思ってしまうほど魅力的なでわかりやすい喩え、なおかつナボコフをスライドさせやすい蝶を出すところなど…
…ゆえに、ナボコフ自身は他言語の翻訳には英語版を推奨していたらしい。
(2023 02/26)

第二章 短編「報せ」-ホロコーストのあとさき


「報せ」(1934 ロシア語)、「暗号と象徴」(1948 英語 環境とテーマが一致しているとナボコフ自身が言及)、「報せを伝える」(1972 英語 「報せ」の英訳)

難聴という障害のため息子の死を伝えられない「報せ」の老女と、「暗号と象徴」での「言及強迫症」という世の中全てが自分に向けて言及(だいたいにおいて非難)しているとしてしまう症例の息子を持つ老夫婦。どちらも自分に向けられた信号が悪い報せに聞こえてしまう。
それから、どちらの短編もユダヤ人らしい名前や前歴(前に住んでいた都市など)に溢れているという。そして悪い報せと繋げるとそこに浮かび上がるのはホロコースト。今回初めて知ったのだけれど、ナボコフの妻ヴェラ・スローニムはユダヤ人で、ナボコフの父親ウラジミール・ドミトリヴィチ・ナボコフはユダヤ人迫害に抗議したという。

 つまり表面の半透明なストーリーの中に、またはその背後に二番目の(主要な)ストーリーを織り込むという方法によって作られることになります
(p68)


これはナボコフの「ある書簡」に書かれていたもの。ホロコーストのテーマは、「報せ」から「暗号と象徴」へと流れ込む二番目のストーリー…
(ユダヤ人といえば「ディフェンス」の継母は、反ユダヤを匂わせていたという…気づかなかった、もしくは読み飛ばしていた)
(2023 02/28)

第三章 短編「重ねた唇」


パリの亡命ロシア人社会の文芸誌が廃刊の危機にあり、そのため資金はあるけど酷い作品を書く人に対し、裏で「掲載してやるから資金を出せ」という取引があった…というスキャンダルを利用した作品。と聞くとあまり文学的には面白くないと思ってしまいがちだが、さすがはナボコフ、技法的にも内容的にも独創的なものがある。
上の筋立ての中に、スキャンダルの事実の流れがあり、一方では、その被害者?が書いた(酷い)作品がある。「重ねた唇」では小説内小説とその枠小説がその関係と類似の位置にある。

 つまり作家イリヤ・ボリソヴィチと作家ナボコフはまったく逆の、いわば表と裏とでもいうべき方向から『重ねた唇』と「重ねた唇」を創造しているわけだ。これにより、ねじれた関係にある「重ねた唇」と『重ねた唇』がいったいどこまで重なるのか、というのがひとつの焦点になっている。これが、短編のメイン・エンジンだ。
(p89)


ここでいう「メイン・エンジン」という用語(小説駆動力とでもいうのだろうか)で分類などもしてみたい。

 ナボコフは英訳する際に、かつてロシア語でおこなった「犯行」の証拠を入念に隠滅してから、最小限度の変更でトリックの移植に成功している。
(p106)


最上級注目アイテム「杖」、この言葉の有無、ロシア語女性名詞でもある「杖」。女性代名詞で杖と「彼女」(亡くなったイリヤ・ボリソヴィチの妻)とが混ざり合う。そこを英語版では元々のトリックの跡は注意深く消しながら、新たなネタを仕込む、そのような自己翻訳方法のようだ。
続いて注から

 ナボコフを読むうえで異界は有効な「補助線」だが、もし補助線がなくても問題が解けるならそのほうがエレガントな解法だろう。個人的には「補助線」を引くことによってなにが得られるのかが重要な点であり、「補助線」を引くこと自体が目的とされるべきではない、と思う。
(p115)


若島正氏の「ゼンブラの彼方へ」という論文にあった、全てのナボコフ作品に異界を見てしまうと、ナボコフ作品はどれもその意味に収斂してしまう、という論点を継承しつつ発展させている。
(2023 03/01)

第四章 『ディフェンス』-モラルをめぐるゲーム

 しかし物語内のレベルでルージンが無意識に恐れているのは、父称を明かしてしまうことで、相手に父親の名前が発覚し関係を詮索されることだ。この場面で彼はチェス狂いを演じているとさえ言えるだろう。チェスによるミスリードによって父との関係を隠すこと-それこそがルージンが今まさにおこなっている「静かな手」なのであり、後述するように小説の主要なしかけのひとつである。
(p125)


チェスのテーマに隠された、この作品のテーマは父子関係。この後の「賜物」でもそれがテーマとなっている。読んでいる最初の感覚は密室のように閉じられた感であるが、こうやって見ていくとずいぶんと開かれた作品として見えてくる。

 この作品には「一見禁じ手のように見え、可能な手からまったく自然に排除されていた手が正解」ということが多々あるが、それはまさに語り手が自在に読者をミスリードしているからだ。
(p137)


父との関係が噛み合わず、それでも父に負い目がある(自殺の最大の原因はヴァレンチノフに追い詰められたためではなく、ずっと夫人に言われていてとうとうその日が近づいている父の墓参りのためだという指摘があった。それでも自殺の原因としては弱い気がしているのだが(例えばそのために身体が衰弱するとかならわかるけれど)。

 興味深いのは、夫をチェスから遠ざけるためにチェスに異常に敏感になるルージン夫人と、ナボコフの作品にとってチェスが重要なモチーフであることを知っているためにその反復にとらわれる読者が、パラレルになっていることである。隠された狙いは、チェスをおとりにして、ルージン夫人と読者の目をもっと重要なモチーフからそらさせることにある。
(p140)


読者を作品内の一登場人物の位置に置いて、読者を含んだ意図と構成にしている。ルージン夫人は、ルージンという人物を読む「読者」の最初の一人であり、それは決して特権的なものではない、後から多数の読者が続いてくる。
父と子のテーマ。父は子供文学の作家であった。周りからは「二流」作家とされ続けているが、後のルージン夫人はその作品を読んでいる。その彼女がルージンと出会い献身的な優しさを捧げる時、その源泉はルージンの父の作品にある。ここで父と子は邂逅している、という流れらしい。こうした「二流」とされているけど優しい人々というナボコフの隠れたテーマは、前章の「重ねた唇」のイリヤ・ボリソヴィチの時と通じている。

第五章 『ロリータ』-ヘテログロッシア空間としてのアメリカ


「ロリータ」のフランス語。語り手ハンバートは、フランス語が母語、フランス人とオーストリア人の血を引く父とイギリス人の母の間に生まれる。このハンバートを主としてその他の登場人物もフランス語を使うことがある。

 つまり『ロリータ』中のフランス語は主人公の母語がフランス語だから、といった理由だけで配されているのではなく、英語のテクストにおいて一定の文体的効果(フォルマリスト風の言いまわしをするならば「異化作用」)を担わされている。ここに作家が編集者の再三の要請にもかかわらず、フランス語を減らさなかった理由があるだろう。
(p162)


ハンバートはフランス語が母語である、ことは上に書いたが、自分の残酷さを隠すため(そして自分の英語の不完全さを隠すため)に、他人のフランス語の過ちを強調してその口実に使う。

 こうした他人の過ちを詳細に描きだすハンバートの記憶力や語りは、自分の罪を容認し、他人のメッセージの意図、そしてその背後に隠された感情を無視する残酷さを共有するよう読者に誘いかける。
(p173)

 クィルティはその「舌」でハンバートを模すことで(直前に「女性的な声」で、シャーロットをも模しているところが芸が細かい)、結果的にハンバートの過去の罪をすべて暴きたてて死ぬのである。
(p179)

 自分をたびたび卑しい猿にたとえるハンバートは、そもそも作者ナボコフが植物園の猿が絵を描いたという新聞記事によってインスピレーションをうけて誕生した存在だという。自分が入れられている檻の格子しかその猿は描けなかったように、ハンバートも自分のニンフェット幻想に囚われている限り、その言語の檻の格子しか書くことができない。
(p187)


この「あとがき」にあるハンバート誕生秘話は、実はその記事などのウラが取れていないという。ナボコフの創作説もある。それはともかく、「言語の檻の格子」の先の言語を書くにはどうすればよいのか。自分もハンバートを批判できる自信はない。

注6、『ロリータ』の語りにフランス語の時制の影響があることを指摘した工藤庸子の論文「『ロリータ』の〈フロベール的〉イントネーションについて」「砂漠論-ヨーロッパ文明の彼方へ」左右社

注13、エリック・カハーンとの共同翻訳(この本の場合は訳者にナボコフの名前は出ていない)の仏訳。この版では、元々の英語版でフランス語だった箇所(の多く)には星印を付けることで、地のフランス語に埋没してしまうことを防いでいるという。この仏訳や『アーダ』の仏訳は「自己翻訳」として認知されていない、と秋草氏は指摘する。
(2023 03/02)

第六章 訳注『エヴゲーニイ・オネーギン』樹影譚としての翻訳論


『エヴゲーニイ・オネーギン』翻訳は1949年頃から下準備が始まり、1964年に出版された。この時期はちょうどナボコフのアメリカ時代(1940-1960)。この時代は自身の創作(『ロリータ』等)よりも、翻訳物を多く手がけていた。発表年代では先になる『青白い炎』(1962)は、実はこのプーシキンの翻訳があったから生まれたもの(逆ではない)。そういえばどちらも詩とその詳細な注からなっている。

 まずより表層的なレベルとして、ロシア文学の古典へのアリュージョンがある。そしてより高度な、複雑なレベルとして自分自身が作った訳文への自己言及という側面をもっている。つまり、ナボコフはたんなるロシア文学の古典ではなく、自分の「作品」を引用しているのだ。『オネーギン』翻訳は英訳において、そうしたセルフ・リファレンスを促進する役割を果たしている。
(p204)

翻訳の三類型
1、パラフレーズ的なもの(意訳あるいは誤訳)
2、レキシカルな、あるいは構造的なもの(逐語訳もしくは直訳)
3、リテラルなもの(ナボコフの目指す正しい翻訳)
(p213から整理)


ここで秋草氏は『エヴゲーニイ・オネーギン』の注釈でもっとも長い(p207-p211)「チェリョームハ」(p246に写真があるロシアの樹木性の花、今までの邦訳では「エゾノウワミズザクラ」)の注釈、それがナボコフのいう「リテラル」な翻訳の訳語「ラセモサ」に落ち着くまでの経緯、そしてそれらのさまざまな訳語が「自己翻訳」や「創作」にどう現れているか、を丹念に見ていく。

 再読は想起に似ているのだ。これが「環」のロジック-というよりこの論理はナボコフの作品ほぼすべてに共通するものなのだ
(p221-222)

 『オネーギン』翻訳をもとに作風を読み直せば、作家のビブリオグラフィを何重にも区切っているバリアー-英語・ロシア語という言語の壁、五〇年以上の長きにわたる創作期間の壁、詩から短編・長編・伝記など多岐にわたる作品ジャンルの壁、そして創作・自己翻訳・他者翻訳といった壁-をとり払って、ナボコフの本当の意味での「全作品」を一望する視点がひらける。
(p244)


今はナボコフの『オネーギン』の翻訳自体は決定稿として評価はされていない。しかしここで注釈されている語が、後の創作に使われ、その論理が創作に導入されている。

第七章 ナボコフの「不自然な熟語」-エクソフォニー、あるいは「外化」から「異化」へ


タイトルからして、この章は多和田葉子の「エクソフォニー」で始まる。現代の多和田やクンデラの先駆けになったナボコフという視点。
まずは、ロシア語慣用句の英語への持ち込み。これをナボコフの「治外法権」としたジョージ・スタイナーの言葉。

 ナボコフの英文が、ロシア語の「メタ翻訳」である頻度はどのくらいだろうか? ロシア語の意味的連想が、英語のフレーズのイメージや輪郭を先導しているのはどの程度だろうか? [中略]ナボコフの英語のかなり多くが、彼が侮蔑している社会に今や囚われてしまったロシア語詩の、国境を越えて違法に持ち出されたもの、密輸品なのだろうか?
(p262)


続いて、ローレンス・ヴェヌティの言葉を引用している。

 私が示唆したいのは、(「外化翻訳」(原文は英語))は翻訳の自民族中心主義的な暴力を抑制する術を探す限りにおいて、世界情勢の現況で主導的な役割をはたしている英語圏の国家およびそれらの国々と、国際的な他者との間でおこなわれる不均衡な文化的交換に、一矢を報いる戦略的な文化的介在として、今日おおいに望ましいということである。
(p269)

 ナボコフの翻訳と創作の連続性とは、翻訳での「外化」から創作での「異化」が直接引き起こされる点にその特質があるのではないか。
(p269)


注27、ヴェヌティのタームを利用して、ナボコフのロシア語訳「不思議の国のアリス」と「エヴゲーニイ・オネーギン」英訳を比較したヴィドによると、前者が同化された翻訳、後者が外化された翻訳としている。
(2023 03/03)

終章

 七章で見たようなロシア語表現の英語への輸入も、エクソフォニーや「治外法権」といった華麗な呼び名を与えられるようなものではなくて、切断された「舌」が、慣れ親しんだ呂律でしゃべり続ける幻影肢ならぬ「幻影舌」とでも言うべき現象だったのかもしれない。
(p286)


p285-286に掲載されている「なによりやわらかな言語」という英詩の「言語」は「tongue」。この詩は、1941年渡米直後『アトランティック・マンスリー』に掲載されたが、後年の詩集には掲載されなかった。
ジョージ・スタイナーの翻訳論『バベルの後に-言語と翻訳の諸相』…自己翻訳を「ナルシズムに溢れた試み」と批判。ただ先述の「治外法権」も併せスタイナーがどのような立ち位置なのか、そもそもスタイナーをまだ読んでいない自分にはわからない…

 (ロシア語版『ロリータ』の)「ロシア語版へのあとがき」で、「四角ばったわが祖国で検閲が『ロリータ』を通すとは私には想像しがたい」としながらも、ナボコフはこの本がなんとかうまく「旅の詩人や外交官」によって国境をすり抜けてくれるように期待するともインタビューで語っている。
(p288)


タチヤーナ・トルスタヤはソ連時代に父親がベルトの下に隠して持ってきた『ロリータ』を読んだという。そこから始まるナボコフの影響を受けた作家等と秋草氏があげているのは…

ウラジミール・ソローキン、ヴィクトル・ペレーヴィン(ロシア)
ジョン・アップダイク、エドマンド・ホワイト、ニコルソン・ベイカー(アメリカ)
カブレラ=インファンテ(キューバ)、アレクサンドル・へモン(旧ユーゴスラヴィア)
大江健三郎(『賜物』から引用した「さようなら、私の本よ!」を書名に)、丸谷才一、辻原登(日本)

 今の私には『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』という小説は、セバスチャンとVという作者と読者を使って、小説の外側にいるもう一組の作者と読者の交わり-ナボコフの言葉で言えば「調和のとれた芸術的バランス」-が達成される瞬間を、比喩的に描いた小説に読めている。異母兄セバスチャン・ナイトの生涯を探索する語り手Vが、長い探求の末たどりついた結論が「私がセバスチャン・ナイトだ」だったように、ナボコフの小説には読者と作者を(読者と登場人物ではなくて)同質化するような機能が隠されているように思う。
(p290)


「よき作者」と「息をきらした幸福な読者」が出会って永遠に結ばれる…とナボコフは「よき読者とよき作者」に書いている。この自分は息を切らしてはいるが「よき読者」ではないと思われるけれど…

あとがき


この本は秋草氏の博士論文「訳すのは「私」-ウラジミール・ナボコフにおける自作翻訳の諸相」をもとに書き改めたものだという…というか、その審査に当たった面子?が
(主査 沼野充義、副査 柴田元幸、野谷文昭、長谷見一雄、諫早勇一、若島正)
ってすごくない?さすが東京大学…
刊行化には長谷見一雄氏が推薦したという。
秋草氏の大学4年の時の思い出、ナボコフの登場人物がロシア語版と英語版で違う、という「発見」から始まった夏の作業の末…

 それまでもナボコフを読んで、おもしろいと感じたことはあった。だが、今ここにこうしてあるものはそれとはまったくちがうなにかだということはわかった。
(p298)


こういうものをまだ自分は作り上げたことがないな…
(2023 03/04)

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