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「書物の宮殿」 ロジェ・グルニエ

宮下志朗 訳  岩波書店

宮下氏はグルニエの本を3冊くらい訳していて、これは最新刊。といっても自分は初体験。「宮殿」というフランス語には「味わい」という意味もあって「そっちかな」と宮下氏。でも最終章にサルトルの言葉で「宮殿」出てくるから、ということらしい。9編からなるエッセイ。



詩人たちの国

さっき最初の「詩人たちの国」読んだ。内容は実は「三面記事」のこと。そういう「想像力」に欠けた人の犯罪行為を、作家達は作品に昇華する。それを逆説的に比喩したスタンダールの言葉から。その技使った最大の人はスタンダール自身。あとはカミュの戯曲「誤解」の元の事件(宿屋の宿泊客を殺害していた家の元に匿名で兄(だっけ)がやってくる)というのが気になる。
(2018 04/01)

待つことについて

2番目のエッセイ、「待つことと永遠」途中まで、参照された作品。

ドストエフスキーの銃殺体験
チェーホフ「ワーニャ伯父さん」(台詞を未来形にするだけで期待だけに生きる貧困さが描ける)
ヘンリー・ジェイムズ「密林の獣」(ジェイムズの作品の終始一貫した源泉が待つことなのだという)
「タタール人の砂漠」(ブッツァーティーはスクープを追い続けて困憊する新聞記者からこの作品の構想を得たという)
ウルフ「灯台へ」
ベケット
ブランショ「期待、忘却」
ジッド「地の糧」
コンラッド「明日」(家を出た息子を待ち続けた為に、当の息子が帰っても厄介払いするという短編)
マンスフィールド「ヤング・ガール」
…そしてボードレール。

 私はまるで見世物を待ち焦がれる子供、障害物を憎むように幕を憎んでいた
幕はもう上がっており、私はまだ待っていた
(p29)

「好奇心の強い男の夢」(「悪の華」から)

これを読んだとき、自分はすぐカフカ「審判」の掟の話の最後を連想したけど…
(2018 04/05)

 時間というのは小説の実体そのものなのだから、時間の副産物としての待つことが大きな役割を演じている小説を数え上げていたらきりがない。
(p38)

例えば「感情教育」や「ボヴァリー夫人」、「グレート・ギャツビー」や「スノープス三部作」など…とにかく、この引用文の前半のように言い切っているのが面白い。

一方、エッセイの名手として、こんな愉しい文章もある。

 行政機関、歯医者、医者、精神分析医、マッサージ師といった存在が、待合室なるものの一つのイメージを作り上げてきた。それは退屈し、不安におそわれ、待ちくたびれながらも、別の場所でページを開いたら赤面しそうな雑誌を読んだりする場所でもある。ついうっかりして、記事を話題にしたときも、「いや、かかりつけの歯医者で読んだのだけどね」と言いつくろったりするのだ。
(p42)

(2018 04/08)

グルニエ読み終え、引用以外

引用(たぶん3箇所)は後程。他の気になるところ。

ずっと3人称で書かれる「ボヴァリー夫人」だけど、1箇所だけ、それも冒頭、「「僕らの」教室にシャルル・ボヴァリーがやってきた」と1人称複数が使われている、その視点誘導の巧みさ。

「失われた時を求めて」で出てくるシャルリスのモデルとされるモンテスキウは、描かれた風貌等がまるで違うのに、一読でそれに気づき、作品が有名になっていくにつれて悩みも深くなったという。

作家にとって書くという行為が最も「私的」な時間(ウルフ「自分だけの部屋」など)。

ディケンズが子供の頃働いて苦労した界隈を、ちょうどそのことを織り交ぜて書いた「ディビッド・コパーフィールド」の時期に至るまで避けていたという話題。

太宰、川端、三島と20世紀後半の日本の作家にはなぜ多く自殺する例があるのかという指摘。

グルニエのエクリチュール。ぶつ切れに思いつくままに作品やエピソードを語る。脈略も一見なさそう。章内の見出しもあったりなかったり。この感覚。
(2018 04/13)

「書物の宮殿」引用3つ

 スイングドアのように揺れている文章のあいだから、不安が入り込む。
 こうした作家たちにとって、嘲笑とは、生きる主体と、その生を裁く主体とのあいだで、また、苦しむ主体と、苦しむのを見る主体とのあいだで揺れ動くことなのだ。自分自身を否定しなければ、二つのありようをいっしょに受け入れることはできない。その次に、嘲笑の奥底から、おのれに対する憐憫の気持ちが生まれて、悲しい幸福感がもたらされる。
(p66)

 注目すべきは、それぞれの思考や観念に近づいていく際の、驚きとか、ユニークな角度といったものだ。それに独特のユーモアがあり、彼女はこれを「グロテスク」と呼んでいるわけだが、人生に対する逆説的なというか、奇抜な見方から、そうしたユーモアが生じてきて、それが最終的には否定しがたい真実となる。
(p121)

彼女とはフラナリー・オコナーのこと。

 カフカは、長篇『城』を本気で未完のまま残した。カフカは自分のことを、思い出で作られた荒れ果てた家の持ち主で、小説という別の家を建てるために、その資材を利用する人間にたとえている。けれども、その作業の途中で体力がなくなり、その結果、荒れ果てた家は半分解体され、もう一軒の家は未完成のままになってしまうのだという。
(p130)

一番上の文章に絡めているのはチェーホフ。最後の文章で言えば、自分の場合は、既に荒涼とした風が吹きすさぶ荒野みたいになっている…意識なんてあるのかないのか…
(2018 04/14)

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