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「別荘」 ホセ・ドノソ (前)

寺尾隆吉 訳  ロス・クラシコス  現代企画室


グラミネアと「人食い人種」に浮かぶ別荘

昨夜読み始めp16まで。今日は第2節に入る。視点人物(ウェンセスラオ)の父親(アドリアノ 医者)が塔に閉じ込められていたり、その視点人物男の子なのに何故か女装させられていたり、図書室の本は(昔祖父が作った見せかけだけの)全て白紙だったり、ハイキングの話が最初に出たのはいつでどこからなのかわからないとか、早速いろいろある…

 夜、消灯時間になると容赦なく声と光は消し去られ、恐怖の予感が漂い始める。その頃になると、槍を組んだ柵の向こうに広がる無限の荒野では、背の高いグラミネアが揺れて茎を擦り合わせ、絶えず響いているせいで昼間はほとんど気にならないそのささめきが、航海者を囲む大海の荒波のように、夜になるとベントゥーラ一家の眠りへひたひたと迫ってくる。
(p15)


その荒野には「人食い人種」がいて…というのが、この一家の別荘をめぐる背景。いつの時代か明言していないこともあり、なにか暗い時空を彷徨うようにこの別荘だけ浮いているような印象。それにグラミネア…ここの前では「人食い人種」が別荘に侵入する(という空想)で出てくるのが、グラミネアで編んだ梯子…グラミネアはずっと出てきそう。

 両親から身を守ろうとでもするように彼女は人の意識から消え、本に挟まった脆い押し花のように、腐るのではなくばらばらに崩れ落ちて死ぬ虫のように、次第に正気を失っていった。
(p27)


両親が子供の身を守るのではなく、両親から大人から身を守る。そして、正気を失う方がこの別荘では格が上がるかのよう。

 人食い人種については、もはや記憶にも及ばぬ遙か昔から受け継がれた伝説として、その存在が何代にもわたって信じられてきたのは確かであり、それが実在しないとなれば、一家は結束を、ひいては権力を失ってしまうことになるかもしれなかった。
(p32)


外の原住民や首都ともつながりはあるとしても、ほぼほぼ閉鎖系なこのベントゥーラ一家の別荘。そこでの概念や権力も押し花が本を開けば脆く崩れるように、崩壊してしまう。
ドノソワールドだな、早速。人物表見ながらあれやこれや探っていくのも楽しい。
(2023 03/06)

グラミネアの起源

 大人たちは、自分たちの型に嵌めることができない人間にこんな仕打ちをするのだ。自分たちと少しでも違った生物を前にすると、こんな目に遭わせてやらねば気が済まないのだ。
(p49)

第1章「ハイキング」のラスト。ウェンセスラオが父アドリアノと、閉じ込められている塔で再開する場面。このテーマはずっと変奏され出てきそうな予感。
ということで第2章「原住民」。のっけから「作者」が「この作品は作り物ですよ」と読者に開陳する。これまでもちらほら「作者」は出てきたが、ここは長めの箇所。

 この物語を読む際に起こる融合-私が言いたいのは、読者の想像力と作者の想像力を一つにする瞬間のことだ-は、本物の現実を装うところからではなく、現実の「装い」が常に「装いとして」受け入れられるところから生じるはずであり、その意味でこの小説は、本当らしさを通して別の現実、現実世界と併存し、それによって、いつでも接触可能なもう一つの現実を構築しようとする小説とは、根本的に違う方向を目指している。
(p51-52)


続いてはやはり頻出し重視されているグラミネアの荒野の由来。ちなみにあとがきによると、ドノソがこの作品を執筆した場所の一つ、スペイン、テルエル州カラセイテの家には、このグラミネアのモデルになった植物が生えていたという。

 毎年夏、ベントゥーラ一家がマルランダを訪れる頃には、グラミネアの穂はまだ緑色で、重くなりつつある頭を優雅に下げ始めたような状態だったが、夏の終わり、彼らが首都への帰路に着く頃になると、辺りは一面背の高いプラチナ色の密林となり、何の実りももたらすことのない羽根飾りを被った穂が絶えず揺れ動いていた。一家が立ち去った後には、秋風の訪れとともに穂の先から綿毛が飛び散って息苦しいほどの渦を巻き起こし、人や動物を完全に寄せつけなくなる。ようやくこれが収まるのは、冬の寒さとともに茎が萎れ始める頃であり、やがて大地は、生命誕生以前の凍てついた状態へと戻っていく。
(p56-57)


物語抜きにして、一編の詩のような箇所。
グラミネアはどうやら、ベントゥーラ一家の先祖が外国人に、「この植物役に立つから、たくさん種子持ってきたから播くといいよ」と言われ、播く前に綿毛が飛び散り、やがて元々肥沃だったこの土地をグラミネアだらけの荒野にしてしまった、ということらしい。
このp56-57の文章、この後の第二部の表題の並びとシンクロしている気も。やはり小説の主役はこの植物なのだろう。
(2023 03/07)

豚の儀式とその後

第2章「原住民」読み終わり。ここで既に満腹感有りなドノソワールド。

 この女のような者たちが、戦用の装束や儀礼用の装飾品を取り上げ、かつての塩山の奥深くに葬り去った挙げ句、その上に豪華な別荘と立派な庭園まで築いて、すべてを忘却、隠蔽したのだ。
(p80)


ウェンセスラオ他一家が五年前に見た地下室の服飾品は原住民のもの。彼らの先祖が行ったこと。原住民たちは着衣の返還を求めたが(もし返却すればまた原住民は勢いを盛り返すだろう)、拒否されて裸体の生活を送ることとなった。そして、何世代か経つうちにそのこと自体が忘れ去られ、今では「この女のような者たち」(アドリアノの妻バルビナ)は、「原住民は裸体だから不潔」とか言う始末。
この小説、作家自身が認めているように政治的な要素も入っている。この別荘の構造こそが、チリだけでなくラテンアメリカの縮図、寓話そのもの。

というこの部屋のことは、父の命令によりすっかり忘れ、五年後のハイキングの時に原住民を見て(振り返ってみたけどどこのシーンだ?)思い出したウェンセスラオ。しかしその部屋を出て原住民の居住地に来てからのことはずっとよく覚えている…と続く展開は、アドリアノが塔に幽閉され、ウェンセスラオの二人の姉が亡くなる事件。
まだ100ページいってないのに謎解きしてもいいのか。これからもこの事件が霞むような怒涛の展開が続くのか。恐ろしや、ドノソワールド。

原住民の儀式は豚を屠って料理するというものだったが、これにどう影響されたのか次姉のミニョンが長姉のアイーダを丸焼きの儀式にしてしまってアドリアノとウェンセスラオに見せる。アドリアノは激昂してミニョンを叩きのめしてしまい、他の家族の者は、まだ暴れ続ける彼を縛りつけて塔に幽閉した、という顛末。
ミニョンは何故そんなことをしたのか、この姉妹だけ肌が薄黒いのは何故か(ウェンセスラオは違う)、そしてベントゥーラ一家の女たちが可愛い子供という時に何故決まり文句で「食べちゃいたいくらい」というのか。などなど。
休憩いる?
(2023 03/08)

ドノソ・ワールドスクエア

第3章「槍」。前章に比べれば静かだけれど、じっくり考えさせられる章。
視点人物が変わり、シルベストレとベレニセの四兄弟。その長男マウロ。この夫婦はベントゥーラ一家の中では開放的というか気にしない質というか、彼らの領地で採掘した金を売り捌くために外国人との交渉を一手に引き受けている。マウロはいとこの中で一番美しいとされるメラニアと親しい。このメラニアの代償?として、別荘地を囲んで柵を成している一万八千六百三十三本の槍(マウロが全部数えた)を、引き抜いて槍をメラニアに見立て共に寝てまた取り外せるように元に戻す、ということをしていた。

 柵から一本槍が欠けたことで、そこだけ微妙に広い空白が生まれ、規則的な槍の配置が乱されていた。不調和の風穴を開けたことでマウロは、まるで無限の窓でもこじ開けたように、見渡すかぎりの荒野が敷地内でひっくり返るような気分を味わった。
(p115)


三年後、弟バレリオもこの作業に加わる。バレリオは槍と同衾し一本だけ空いた隙間から無限を愉しむだけでなく、外の荒野に出てみたいと申し出、隣の槍も抜き始めた。こうなるとあとは次々…

 確かに槍の数は無限で、終わりの見える作業ではない。終わりがないからこそ、そして、わけもわからずひたすら続けているからこそ、この意味不明の単純作業が美しく見えて、来る夏も来る夏も、大人たちに見つかる危険を顧みることのない二人の兄弟を捕えて離さなかったのだ。
(p123)


そうして、物語の主筋であるハイキングの年の一年前、彼らの弟二人アラミロとクレメンテまで誘い、槍抜きを続ける。

 槍のすべてを土台から引き抜いた暁には-どうやって? いつ?-、その一本一本がかけがえのない一要素、一単位に戻り、それでいて、何千という目的に従って、何万通りにも組み合わせることのできる集合体になるかもしれない。今のところ柵という形に繋ぎ止められているため、それ相応の象徴的機能しか果たしていないが、その足枷を逃れてしまえば、この情熱的作業に凝縮された無限の意味が開花し、新たな象徴へと変貌を遂げるかもしれない。
(p125)


もうやめてくれ…(心の声(笑))
「夜のみだらな鳥」ではとにかくカボチャと袋の印象がとめどなかったが、今回の別荘ではグラミネアと槍抜きになりそうな…どこかに「ドノソワールド」ほんとに作って、「槍抜き実体験」コーナーで無限見たい…
妄想はこの辺にしといて、p125の文などは、この小説の縮図のような(この切り口も久しぶり?)感じがする。ハイキングで大人や使用人たちがいない今、新たな象徴が見え始めてくるのだろう。でも、「何千」、「何万」にもなるのか…
そして、兄弟たちは、槍抜きをやりぬくことができるのか(まだ第3章は続く)…
(2023 03/09)

槍を抜いたのは誰?

ハイキングの前日までに四兄弟が抜いた槍は33本。これは「別荘にいる従兄弟の人数だね」と末っ子のクレメンテが言う(このクレメンテ、ほんと6才なのか?)。何かの因縁らしきものを否定したいマウロは隣の槍を抜こうとするが、昔の料理番組かの如く「既に抜いてあった」。

 こんなに必死で取り組んできたのに、おかげで反抗に必要な言葉を手にして個性を確立するどころか、何代も前から運命づけられていた行為を繰り返していたにすぎないのか?
(p132)


ここから、従兄弟たち総出の槍抜き合戦、境界がなくなったら、小さい子供たちはグラミネアの荒野を行進…ウェンセスラオが宣言するには、槍は従兄弟の数33本を残して全て原住民によってもう抜かれていたという…ウェンセスラオに対して年長者たちは策を練り始める。というところ。でも、自分的には、ウェンセスラオの言う通りに原住民が抜いたというより、マウロが直感したように何代もの子供たちが抜いてきた、としてみたい気持ちが。ま、このままウェンセスラオが開放者の役をずっと務めるような筋でもないだろうし。
(2023 03/10)

第4章「侯爵夫人」

(一昨日から昨日読んだ分)
この章はこれまでとは趣きを変えて、ハイキング前日、大人たち(とフベナル)の夜、フベナルがリストを弾く中、主にオレガリオとセレステ(目が見えない)の心中が交互に語られていく。今年年始に読んだウルフの「波」にここだけ似ている感じ。ただ2節になると、フベナルとその仲間(男色)たち?、そしてフベナルが酔って銃を倉庫から出そうとして失敗する様子が描かれる。
ここの表題になっていて、これまでも何回も出てきた「侯爵夫人は五時に出発した」というのが、いまのところ自分には何かわかっていない。よくこの言葉というか表現というかが、リアリズム文学を揶揄する時に出てきていたような(ヴァレリー)。いとこたちの「大人ごっこ」みたいなものだと仮想しているのだが…

 本物のドアが開き、制服に身を包んだ執事がゆっくり重々しい足取りでダンスホールへ入ってきた。召使たちは服装を整え、まるで騙し絵に描かれた人間が今まさに現実空間へ飛び出してきたとでもいった風情で二次元に凍りついた。忌まわしい執事は、床の上で泣き暮れて横たわっていたフベナルに近づいた。月明かりを浴びた執事の姿が銀色の巨大建造物のように聳える一方、他の召使たちはすごすごと騙し絵へ溶け込んでいった。
(p174)


フベナルが騙し絵の中に偽装された倉庫のドアから銃を出そうとして武器が崩れ落ちてくる、駆けつけた召使たちから侮辱される、そこに消灯時間も三度目の銅鑼が鳴る。その直後の文章。フベナルはこの執事にやられると思ったのだが、意外にも「ハイキングの前日だから」ということで放免となった。
(2023 03/12)

第5章「金箔」


ここでは、一家の金箔事業を一手に引き受けているエルモへネスと別荘管理を任されているリディアの夫婦の子供たち(全て双子らしい)、その年長姉妹カシルダとコロンバ。それにファビオとイヒニオが絡む。
その中でも中心人物はカシルダ。コロンバと比較して美しくない(と自他ともに認める)カシルダが、コロンバの代わりにファビオの元へ行く。エルモへネスがカシルダだけを自身の元で簿記等を教えていた、そうして扱っている金箔をどうしても見てみたいと思う(そしてエルモへネスも気づいている…その時カシルダに加えた一瞬だけの力は、まかり間違えば娘を殺してしまうほどのものだった)。章の展開としては、ハイキング当日の金庫を開けて金箔を見るところから始まり、昔に遡るので、読者は最初にカシルダの情念の結果から知ることになる。

 次第に気分が落ち着いてくるにつれてカシルダは、朱色に染まった盥の水に映る自分の顔から美女の仮面が消えていく様子に目を留め、その下からまぎれもない自分の顔が満潮のように押し寄せてくるのを感じた。
(p202-203)


カシルダがコロンバの代わりに行く前に、カシルダの処女を喪失させる場面。カシルダが自身ではなくコロンバの仮面をつけようとしていたこと、そして結果として自分の顔を見たこと。印象に残る文章であるが、結果ファビオには最終的にカシルダであることを明らかにすることになる。

 誰の目に見つめられていなくても暗闇で輝くというのは本当かしら?
(p217)


この章の最後のページ。ここで「輝く」と言われているのは金箔のことだけれど、自分には、人間の情念のことを指してもいると思う。情念は人間の内奥にあるだけではわからない、本人にさえわからない。判明するのは(量子力学での観測のように)誰かがその情念を動かしてしまった時だけだ。そしてこれも観測と同じように、その情念は元の姿から変容してしまう。エルモへネスの力を感じた時、カシルダの情念はどう変容したのだろうか。
(2023 03/13)

逃亡と融合

第6章「逃亡」と第7章「ティオ」を読んで、第一部「出発」を読み終わる。ちょうど文量的にも半分。

 原住民の友人たちが槍を抜いて隙間を作ってくれると、そこから夜の荒野へ駆け出した彼女は、月光に照らされた白い景色を思う存分眺めていることができた。草に覆われた月の表面のように見える大地を子分たちとともに駆け回っていると、あまりに広大で、しかも、まるで突然変異でも起こしたように異質なこの荒野が夜全体を支配しているように見えてくる。
(p236)

 重要な役回りなのか、そうでもないのか、物語のなかでどんな位置を占めることになるのか、まったくわからないけどね…(中略)…話の方向性を変えるチャンスは誰にも平等にある、でも誰もが想像力を備えているわけでもないし、登場人物に力を吹き込むことができるわけでもない
(p252)

 普段より活気づいていたグラミネアは、薄闇の広がりに乗じてかつて柵があったあたりへ攻め込んでいた。楡や柳の間に柔らかい穂先をそっと差し込みながら敷地を次第に侵食し、夜闇と夢が溶け合った瞬間に、その外観すべてを-あくまでフベナルの印象だが-消し去ってしまいそうに思われた。
(p253)


作者登場と、「侯爵夫人は五時に出発した」(子供たちが空想で行う劇)のことを言いつつ、この小説のからくりやドノソの作家論のようなものを混ぜているp252の文を挟む2つの荒野とグラミネアの表現。

第6章は前章の続きを書きつつ、マルビナという新たな人物を視点に据える。このマルビナは嫁いできた嫁と外の男の間の私生児らしく、従兄弟たちにとっては祖母の遺言で、一人だけ遺産相続がなかったという娘。そこから彼女は、他の従兄弟たちより自由でよく見えており、身近なお金を盗むところから、内緒話を聞き込んだり(ウェンセスラオやマウロ達のことも知っていた)、原住民と交渉したり(前章での質の悪い金箔を売りつけることもマルビナの発案)、そしてここでは、カシルダ、ファビオ、イヒニオの逃亡劇を原住民の協力を得て全ての金箔を持ち去り別荘から走り去る。
(この逃亡劇、初めのカシルダたちの算段では残っている馬か何かを使って逃げる予定だったのだが、ピクニックに行くに際して使える動物は全て動員し、そうでない病気の家畜は全て殺していった、とある。大人たちの方は全く戻る気はないように、ここでは思えてくる)。

第7章は、先に述べた「侯爵夫人は五時に出発した」劇の錯乱と、荒野からの原住民の侵入が合体して、対立というより溶け合うような感じで幕を閉じる。原住民の代表は、以前ウェンセスラオが豚の儀式で見た若者だったが、果たして章題にあったアドリアノは降りて一緒になったのか。敢えてそこを明言しない書き方…
(2023 03/14)

後編はこちら  ↓

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