「不平等社会日本 さよなら総中流」 佐藤俊樹
中公新書 中央公論新社
再生産の幅と補完的経路の閉塞
第3章まで、だいたい半分くらい読んだところ。
ホワイトカラー上(W上)の再生産構造は大まかには変化はない。ただ第二次世界大戦後の高度成長でそこに他の階層から流入する幅が増え、それにブルーカラー(B)からのWへの移動、Bから自営業への移動が補完的に成立し、この時期はなんとなく「総中流」という感じがあった。それが高度成長が終焉をむかえたことによって再生産の幅と補完的経路が閉ざされ、閉塞感が出てきている…と、まあそんなまとめ。
W上が(実際は元々からの立ち位置の絶対的優位がありつつも)実績主義に傾くというのは、まあブルデューのフランスでも同じかな。程度の差こそあれ。
(2014 09/26)
総中流なくして意識のみ有り
後半をざっと読んで、読了させてしまった「不平等社会日本」。「不平等」なのは日本に限らないわけで、「日本の不平等社会」とか「閉塞社会日本」(日本以外でも閉塞しているのかはわからないけど)の方が本の内容を伝えるものになったのかな。副題も「さよなら総中流」ってあるけど、この本の論旨から言えば、最初から最後までどこにも「総中流」など存在しなかったことになる。あったのは「総中流意識」だけ。
後半の中から、著者佐藤氏が挙げる閉塞感を打開するための4つの対策を。
Aではカリスマ美容師のシステム(ブルーカラー系専門職)をホワイトカラー系専門職に応用できないかという論点、Bでは管理職はキャリアの途中で一回は会社の外に出た方がよい(実現すれば希望する人はかなりいると思う。ボランティアとか)という論点、Cは就職という一線の手前が教育、それ以降が職場という画一的な見方を変更していく(Bとも関連する話)、Dは上記3つより難しい問題ではある。機会の平等は(結果の平等と違って)その時点では測定できず後追いでしか判明できないからだ。だからこそ、アフターケアする仕組み(セーフティネットでも補填対策でも名前は何でも良い)が必要になる。
でも・・・ますます実現する気配も姿勢すらも感じられない・・・
「学歴社会を批判する(W上の)人達は「だから自分は管理職辞めます」とは言わない。そういう発言は学歴社会での「敗者」に向けてのいわば毒抜き作用であり、学歴社会を強化する作用がある(上記Cの条件が形成されていないからそうせざるを得ない)」
「自分は会社人間ではない、といっている人間が実は会社人間以外の存在を知らない会社人間である」
というのは痛烈な批判である。
(2014 09/27)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?