牛島信明 訳 岩波文庫 岩波書店
長いので前後編で(それでも長い)。
今年読んだ「泥の子供たち」と並ぶパスの詩論(こちらの方が早い)。
「弓と竪琴」の邦訳は、最初は国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書(1980)、続いて訳者も改訂に関わったちくま学芸文庫版(2001)、そしてこの岩波文庫版(2011)。岩波文庫に入れるにあたり、既に訳者は故人となっていたので、ちくま学芸文庫版のあとがきは割愛し、山口昌男の論考を収録。
「ポエジーと詩」
スラッシュや括弧の中は元々?それとも訳者注?
(2022 07/08)
まだまだ1ページ分くらい続くのだが、この辺で…
詩的なるもの…ポエジーが、自然物等を含む状態のものであるのに対し、詩(言葉の詩に限定しない)は、誰かの創作物ではある。
素材を解放することにより、歴史のなかにいながら、歴史を乗り越えることができる。
詩の読者も読み自体もまた多様性を持つ。詩的体験が詩を読む理由になるとパスは絶えず強調している。
おまけ
例えば、アステカの詩は、他の時代の詩作品を参照するより、同時代(アステカ)の建築とか装飾を参照した方が理解しやすい、とあるけれど、どうだろうか。
(2022 08/23)
「詩」から「言語」
昨日読んだ序論「ポエジーと詩」に引き続き、今日は各論一つ目、3つの問いの最初、「詩」から「言語」。
言葉は何らかの辞書に載っているものの総体ではなく、使っている言語行為そのもの、言語と他者(の発見)というのもまた表裏一体。たまに思うのだが、消滅危機言語で話者がとうとう一人だけの言語とかは、実際にはもう言語の態ではないのだろう。
下の文は、内容云々より、ただただ詩人パスの技を堪能する文章。「湿気と沈黙」とか。もう、「論文詩」ってジャンルをパスの為に作ってあげたいくらい…
というわけで? 読みは進んでいないけれど、楽しめてはいる…
(2022 08/24)
詠嘆の展開と、詩と社会の関係史
「言語」の章読み終わり。ただの詠嘆は、聞き手を持たない情感の吐露。その省略されてしまった聞き手になり、そこの言葉を豊かに掘り起こす。それがここでいう〈展開〉なのだ。
その少し前、p71では詩と社会、国家との関係を論じて、社会や国家の頽廃期には偉大な詩人が出てくるという通説は、本当は詩人の層やレベルは一定なのだが、社会の線が低すぎる為に目立つだけなのだ、いう。
このテーマはこのページの注にあるように、補遺Ⅰで扱われるということだから、気長に待つか…
(2022 08/25)
リズム
「リズム」、言語の構成要素をパスは「句」としている。単語ではない。幼児も単語ではなく、句から覚える、というが本当だろうか。その真偽はともかく、ここで言われている他要素との関わり合いの総体が言語、言行為だというのは、p81注のヤコブソンの言葉にもあるように当たっていると思う。
(2022 08/26)
パスの時間論
ハイデガーは、あらゆる計測単位が「時間を実在させる形式」である(p92)と言っている。時間は外在しているものではなく、内在しているものなのだ。
ここと、一昨日からもう一度最初から読んでいるピーター・バーガー「聖なる天蓋」の外在化は、根底は同一なものから派生しているのではと、ここまで読んできて思う。外在化し、自分が外部に立ち上がる(客観化)と、内部と外部の自己にズレが生じる。それが時間というものを生み出す契機となっているのでは。
自己と時間が同一だ、と想像してみる試みが、とても楽しい。
(2022 08/27)
韻文と散文
最初は論文らしく、言語形態の分類から始まるのだが、だんだん詩人パスの側面が見えてくる。自動記述での例の多くが韻文に帰着するというのは、この(p111)の結論を見る限り自明のことになるのではないか。
(2022 08/29)
エリオットとパウンド
この英独とその他の大陸系との比較…確か、「泥の子供たち」でもそういう視点があったと思った。
続いて、エリオットとパウンドの比較。両者とも、英米詩(ラテン文学の伝統の離脱者)からの離脱であるという。
(2022 08/30)
フランス詩とスペイン詩
こちらはフランス詩。詩の韻律にすなわち「詩の音楽性」に対して「戦い」を起こしたという。
そして、こちらはスペイン詩。韻律かリズムか、の線引きだとスペイン語は中間地点にいる。そしてスペイン詩は、舞踏と演説、行進の二つの要素を兼ね備えている。
(2022 08/31)
今日はウィドブロとネルーダについて
(2022 09/01)
「イメージ」
「イメージ」の章に入る。ここでの「イメージ」は映像とかの意味ではなく、「比喩、直喩、隠喩、ことば遊び、地口、象徴、寓意、神話、寓話」(p163)などの言語形態を指す。
最初の分離はパルメニデスが行った。詩は、存在は存在であるし、非=存在である、石は石であるし羽毛でもある、という原理にのっとった表現形態。
(2022 09/02)
しかし、詩を表現するのはことばだけ…
イメージは、違うもの同士を、そのもの自体を変化させることなく、同化させ、一体化したものを人間に提供する。p181の椅子はその例。石は羽毛であり、「彼を彼自身に戻す」(p189)。一旦、自分を「彼」と他者へ外部へ置くことがそれにとっては重要なことのようだ。
「イメージ」の章終了。とともに「詩」の部が終了。
「詩的啓示」の「彼岸」
ここからは人類学的に濃厚になってますます鬱蒼とした思想の密林へ。
詩と神性世界、原始宗教や深層心理学との関わりについて。パスはこういう関わりの傾向を「近代人のノスタルジー」と規定する。
前半部分が意味取れない。後半は興味深い指摘。「泥の子供たち」にあったかな。
〈原始的心性〉論(属人)(ピアジェやフレーザーはそれを批判する立場)と、ユベール、モースの社会制度論。その双方を批判しつつ。
p194にある
また人類学は、人間が異常状態に陥ったり、ノイローゼになったりすることなく、夢と想像に支配された世界に生きうることを示している。
というの、どんな研究があるのだろう。あまり聞いたことない…
p195レヴィ=ブリュール(融即)って?
(ユベールも初だが)
レヴィ=ブリュール(1857-1939)
フランスの人類学者、哲学者。だいたいベルクソンと同年代で、ベルクソンの「道徳と宗教の二源泉」で、このブリュールの著作を批判的に取り上げているという。ブリュールの主著(でいいのか)で邦訳あるのは「未開社会の思惟」(岩波文庫復刻版)で、たぶんさきのベルクソンが取り上げていたのもこれ。そこでブリュールは、未開社会の心性(今は思惟というよりこっちの言葉か)が、前のフレーザーのように未開社会-文明社会と発展していくのではなく、文明社会とは全く異なる心性だと主張。その心性が「融即」。何かが動けば他の何かも動いて影響し合う? 確かにラテンアメリカ幻想文学始め納得できそう。
ベルクソンの批判は、未開社会の心性もそこまで隔絶はしてないのでは、というもの(これに関しては、「未開社会の心性」読んだという稀有な?ブログあるのでそれ参照。
カッシーラーの言語哲学にも影響(カッシーラー自体も不勉強)。
戦前、戦争直後くらいまでは、結構影響力あったらしいが、レヴィ=ストロースの「野生の思考」出てからは、影が薄くなる? ベルクソンとどう違う?(ベルクソンもいろいろ批判されているだろうし)。
(2022 09/03)
神の絶対的不条理と他者
その前のところから。ここでパスが取り上げているスペイン古典戯曲「不信堕地獄」と「悪魔の奴隷」という戯曲の筋が、スペインらしいといえばらしいのだけれど、なんか神の絶対的不条理で自分の中で居座りが悪い。逆にケベードのソネット(p208-209)は、鬼気迫る情景が浮かぶ。
気まぐれな事象が何か別なものに支配されている感覚になる、それが宗教の源泉だというのは、前見た確率変動の話(不確かさの中で予言し、当たったことが記憶的に強化される)と直結するのだろう。
(2022 09/06)
こういう他者、現代文学ではよく出てくる。ドッペルゲンガーものは元より、この間の「前日島」のロベルトにとってのフェッランテだったり、カフカの短編によく出てくる二つで一組のもの達もこういうイメージの具体化なのだろう。
そして、毎夜、夢の中でこの他者と融合する…
「彼岸」はこれで終わり。
(2022 09/07)
「詩的啓示」
このこと自体が正しいのか、はいろいろな立場でいろいろな意見があるだろう。でも、ここでパスの言う、宗教的起源という点からは重要な原体験と言えるとは思う。ハイデガーとパスは実は近いのか。
(2022 09/08)
この文章の「投げ出されている」というのを見れば、パスはハイデガー(この本の表記ではハイデッガー)から基礎を得ているのがわかる。
「詩的濃縮金太郎飴製造機」のパスのことだから、上の文章後半のゾクゾクする表現はザラにある。
永生の死たる宗教や、死の準備たる哲学と異なり、詩こそが死を含む生、生を含む死の実践、充溢の体験なのだ、とパスは言う。宗教や哲学の分野の人がどう思うかはわからないが。そしてその充溢は、他者性を受け入れることで初めて会得される。この前の箇所でパスは、女性への愛(女性読者がいる、などということはパスは考えない? そしてここでいきなり「君」なる呼びかけが出てきて面食らったりする。具体的な誰かへのメッセージなのか、と勘ぐりたくもなる)や、自然との一体感(与謝蕪村の句も出てくる)など。
「詩的啓示」終わって、次は「インスピレーション」の出だし。
詩は何かの翻訳ではなく、ことばの体験自体なのだ、という前提が、前の「リズム」の章にもここにも現れている。
(2022 09/09)
インスピレーション
主にその「他者性」を巡って、近代・現代詩史を。プラトン・アリストテレスからダンテに至る近代以前は、自己ではない他者、自然の声を聞く、一体となることが自然に行われていた。ところが、近代に入り、デカルトが近代的自我を確立すると、その自我とインスピレーションの他者性に裂け目が生じる。
ドイツロマン派(主にノヴァーリス)から、ボードレールやポーなどへ、そしてシュルレアリスムの20世紀へ。このインスピレーションに関していえば、ノヴァーリスとシュルレアリスムが他者性に開いた、その中間は裂け目に苦しんだ、という見立てをパスはしている。
ということで、まずはノヴァーリス。
ここの「人」とは誰を指すのか、パスは考えていく。このノヴァーリスの言葉は、この後変形されて再登場する…
あれ、どこが違うのか、ひょっとして同一? とも思ったけれど、「詩人は」が「詩は」になっている。この「詩」は、「詩的なるもの」と呼ばれているものだろう。
そして、シュルレアリスム。パス自身もそこから胚胎したシュルレアリスムは、ノヴァーリスの後継であり、主体と客体の葛藤を解消していくための冒険である、という。
インスピレーションを、これまでのように扱いに困るものとしてみるのではなく、武器として扱い、そしてインスピレーションによって成り立つ社会の樹立を企む。
後半の〈声の既視感〉については「また触れる」そうなので、そこまで楽しみながら待つとして、ブルトンはなぜ「ほとんど知らない」と言うのだろうか。パスはそこに「インスピレーションの純粋に心理的な解釈に対する、内心の抵抗」がある、という。それは何か。それは〈他者性〉を問いかけとして開かれているものとして定時することを可能にする、そのような戦略ではないか、とパスは考えているようだ。
(2022 09/11)
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