「場所」 マリオ・レブレーロ
寺尾隆吉 訳 フィクションのエル・ドラード 水声社
ウルグアイの作家。寺尾氏曰く、オネッティ、エルナンデスと「ウルグアイの三奇人」らしい。クロスワード作成もしていたらしい。
「都市」「パリ」「場所」の三作を「意図せぬ三部作」と作者当人が名付けている。カフカという祖から、安部公房とレブレーロが引き継いでいる、と寺尾氏。
第一部
前に読んだヤーン「鉛の夜」に似た、普通に都市生活をしていた「私」が、なんだかわからないけれど暗い異世界にいる、という始まり。「鉛の夜」は主に外を歩くが、こちらは部屋から部屋への直接連鎖をひたすら進む屋内編。
部屋から部屋へ進むにつれ、明らかに部屋は劣化し、最後は漏れた水と瓦礫でドアが開かなくなるまでになる。そこで何か別のドアを見つけて開ける、ところで第一部が終わる。そういう流れの中、マベルという女とトンネルを通って、コンクリート壁に挟まれた海に行くところが印象的な間奏曲。
第二部
さて、最後のドアを開けて、何かの「中庭」に出る。ここで様々な人達が、「私」と同じように穴などから出てきて一種の共同生活をするのが第二部。「デカメロン」のように何かから避難(第三部の都市の騒擾から、とも思えてくる)してきた人々が集うヴィラのようにも、またコルタサル「南部高速道路」のような束の間形成された原始共同体のようにも思える。
この小説を形作る原動力が、パスカルのいう(って、本当にそんな言葉あるのか)「この世の悲劇は、常に自分の部屋から出たいというところから始まる」というところにあるとすれば、上の文の「物質」は変革欲求とでもいえるものなのか。小説内によく出てくる「閉所恐怖症」というのもその文脈で説明できる。
「みんなで集まらねばならない必要」とは何なのだろうか。解説ではユングを挙げていたけれど。
結局「私」は、この原始共同体を離れ去ることにする。それにアリシアと子供(何処かからついてきた子供という)がついてくる。やがて農村の一軒にたどり着き、そこで三人の生活が始まるが、「私」には、この生活も、第一部のドアからドアへの連鎖が家から家への連鎖になっているだけと思えてくる。
自分とは何なのか。ここでは、とにかくここから出たいという欲求(パスカルのいう「悲劇の始まり」)そのものでしかない、と考えておこう。
アリシアが連れてきた子供は、最初は全く別の言語を話していたが、この生活が進むにつれ、アリシアと子供はこの未知言語で話し始め、この言葉が終始わからなかった「私」は、この生活とも別れることにする。
第三部
そして第三部。農村はやがて都市になり、ほとんど言語がわからないまま都市の騒擾に巻き込まれる(この辺「エペペ」を連想する)、「モンゴロイド」五人組にリンチを受けたり(ひょっとしたら何かの手術が幻想的体験として描かれているのかも)、巨体の娼婦にがんじがらめにされたり。
最後は瓦礫に捨てられ、何とか出口にたどり着く(ここ第一部冒頭と呼応している)と、元々生活していた都市に戻っていた。自分の部屋に戻って(荒らされていたり、水が漏っていたりと、なんと第一部の「部屋」に相似していることか)、これまでもずっと書き続けていたこの記録をまた書き続ける、そして、書くのが止まらなくなるという。
自分としては特に、第一部の海辺にあった他のトンネルがとても気になる…
自分も含め、これに首肯する人は多いのではないだろうか。
さて、この「場所」読んでレブレーロが俄然気になる存在になってしまったのだが、邦訳はこれだけみたい。晩年の作品なども気になるのだが…
(2022 08/28)