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「原因と理由の迷宮 「なぜならば」の哲学」 一ノ瀬正樹

双書エニグマ  勁草書房

一ノ瀬氏の「原因と理由の迷宮」迷宮シリーズ第2弾(第1弾は原因と結果、第3弾は原因と責任(の予定))。

必然の連鎖からなる自由意思?

さわり読んでみたけど、呼ばれて振り返るのに自由意思(一ノ瀬氏の用語では迷い)が必要というのはちょっと保留つけたい気分。なんだか今の自分の考えは、自由意思なるものは、微小な必然の集まりが連なってできた幻想みたいなもの、という方向に傾きかけている。だから、冒頭のリベットの実験結果から「脳波は先に出るけど、その行動を止めることができるから自由意思は存在する」というのを導き出すのもなんかなあ。止めるのにも脳波の方が先なんでしょ。とも思う。
(2015 01/03)

 過去の出来事はそれの生起(した)確率を1から1より小さい値へと徐々に減じていくと、そう述べることも可能ではなかろうか。なぜならば、私たちは過去の出来事を忘却していくものだからである。
(p42)


こちらも、納得できるような、できないような、そんな主張。恐らくそれは「確率」とは何であるのか自分の中で定まっていないからだと思われる。まあ、主観的には上記文は正しく、客観的には間違っている、と言えたとしても、ここで一ノ瀬氏が言っているのは客観的に見ようとしても確率は減じていくのだ、とそういうことではないのか。
(2015 01/04)

現時点から過去を再構成する視点


「原因と理由の迷宮」を夜に少しずつ。第1章の確率のところもあともう少し。ブラックボックスみたいなのから中身を確認した瞬間に、今まで確率的に中身が何であるのかがなっていたのが、確率1となる。という量子力学のシュレディンガーの猫みたいな話が、過去の何かを思い出す時にも拡大解釈される。今ここには過去というものは存在しないのだから、過去は現時点から再構成される…まあ、それはそうなんだろうけど、とまだ表面的理解に留まっていたけど、二点の光の明滅が人の目には光が動いているように見える、というのは確かに過去と思われていたものが、実は現在からの再構成分だったのだという事例。もう少しいろいろ考えてみようかな。

書き忘れたけど、「過去というのは現在には既に存在しない」とあるけど…果たして、そう言い切っていいのかな。考え方としては賛成だけど、そこに穽(落とし穴)はないのだろうか。自分には自信がない。
(2015 01/07)

曖昧性とソライティーズパラドックス

「原因と理由の迷宮」は確率から曖昧性に。ソライティーズパラドックスって、なんか当たり前のことを無理やりにパラドックスにしている気がするのだけど、昨夜は面白そうな展開になりそうなので、睡眠時間確保の為?直前で止めといた。ソライティーズとはもともとはギリシャ語?で砂のこと。どこからが寒くてどこからが暑いのか、どこからが赤でどこからが青なのか、云々。境界線はどうやって引くのか。
(2015 01/14)

ソライティーズパラドックスの続き。3つの観点と文脈主義。
3つの観点
観点1 論理性というものの経験に即した形。ソライティーズの矛盾を包合する論理性。超整合理論(パラコンシステント・ロジック)や双真理説。
観点2 自然主義的認識論(認識を全て物理現象に還元する)への批判の視点になり得ること。
観点3 応用倫理的側面。人工中絶(どこから人間なのか)など。

文脈主義は曖昧な述語は使用する文脈による、というもの。この一見当たり前なところにもいろいろ楽しい?議論が隠されているのだけど、ここでは曖昧な述語を使用する時に境界線を考えると、そのことにより境界線自体がシフトしたりジャンプしたり(ここでも量子力学的な話?)するらしいことだけ書いておく。
で、著者一ノ瀬氏は文脈主義も完全ではないとし、次に出すのがエジントンの程度理論。という流れになる…あと(p153)でソライティーズについての対応のまとめ表が出てくるのでそれも参照に。
(2015 01/16)

一方、一ノ瀬氏自身は、文脈主義と程度理論(確率を導入)の「ハイブリッド」の説を展開。この説はソライティーズパラドックスを現実に全て認める立場。 
(2015 01/20)

因果性に連鎖は該当しない


「原因と理由の迷宮」第2章の曖昧性を昨夜読み終えた。
そこであったのが標題の議論。ある一つの因果と別の因果を無条件につなげてしまうのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」式になってしまい認められないという。あくまで一つ一つの因果を観察して累積していくしかない。この辺、連鎖しているかのように思ってしまうのは、人間の因果関係理解の傾向を見せているのかも。
結論は、曖昧性のある状況とその対応、曖昧性のある言葉とその対応、と一ノ瀬氏の言う「呼びかけと応答」の繰り返しにより、境界線はゆらぎながら動いていく。C音とC#音の境目も実際の演奏と聴き手との相互の掛け合いで絶えず変わっていくものなのだろう。
(2015 01/21)

五分前には世界は存在していたのか?


「原因と理由の迷宮」(金曜夜読んだ分)から。過去には二つの性質がある。不在性と含意性、前者はそのまま現在には過去は触ることも見ることもできないということ。後者はそれに関わらず過去が現在を規定しているということ。ラッセルは「世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない」(p180)という仮説を立てている。

 知識が知識として存立するためには、そして記憶が記憶として形をなすためにも、時間が経過し過去があることが必要なのである。ならばかえって、この仮説の最大の意義は、どのように極限まで可能性を探っても、過去が一切存在しないという考え方を理解可能にすることはできない、ということを暗示している点にある
(p180ー181)


やはり、過去はあったのか…
しかも先に挙げた過去の二つの性質は、お互いを浸食し合う緊張関係になることもあるという。
(2015 01/25)

ベイズの定理による未来予測

第4章「仮説の確証」。未来予測にベイズの定理を応用しようという試み・・・なんだけど、それだけでは不十分であることを認識した上で合わせ技として使っていくべきではないか。また、ベイジアン・ネットワークを使ったもう一つの応用例として既に起こったことについての確証の度合(要するに過失責任率)ならよいのでは、と一つの提案をして終わる(交通事故の過失割合なんかもこれに近い算定方法なのだろうか?)。これが第3巻になる「原因と責任の迷宮」へ繋がっていく、という流れ。

読み終わりに「古証拠問題」について


というわけで「原因と理由の迷宮」を読み終えた。
本論はなかなか難しかったので議論の大まかな流れを追うだけになってしまった。そんな中、興味深く感じた「古証拠問題」(判断している時点より以前の事象が確証を高める→ベイズ確証では古証拠=確率1となり、よってそれが反映されなくなる問題)解決についてのアプローチ3種。

その1、古証拠の確率は1ではないとする。第1章で確率崩壊仮説を立てた一ノ瀬氏はちょっと批判的

その2、反事実的条件文(もしこの古証拠が現時点の証拠だったとすればそれは仮説を確証したであろう)の問題にすりかえる

その3、古証拠の発見は単独に発見されたのではなく、現時点の仮説との関わりにおいて発見されたのだから、それはもはや?「古」証拠ではない

自分などはその3に惹かれていて、最初に「古証拠問題」の話を聞いた時もその問題自体があんまり認識できなかったのもその点が自分の中にあったのでは?と思っている。
ということで、なんとも無理矢理なまとめ・・・
(2015 01/31)

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