工藤玲那 個展「アンパブリック マザー アンド チャイルド」@塩竈市杉村惇美術館を見て思ったこと、思い出したこと。
7月16日に開幕した、若手アーティスト支援プログラムVoyage2022で、ビジュアルアーティスト・工藤玲那さんによる個展「アンパブリック マザー アンド チャイルド」(会場:塩竈市杉村惇美術館)が催されている(ちなみに隣の展示室で、わたしも個展をさせていただいてます)。
展示室に入ると、カーテンが開け放たれ、外光が入り込む開放的な空間に、ぽつりぽつりと立体造形物が点在している。あえて、展示室の照明も蛍光灯に変えてあり、この「明るさ」「白さ」が印象的だった。わたしは設営中に玲那さんの展示室を見て、その明るさに驚き、自分の展示室が「暗い」ことに気づいた。でも、玲那さんの展示室がひたすらに明るいおかげで、「わたしの展示室のあとに、お客さんは玲那さんの展示室に行くのだ」と思えて、安心して自分の展示室を暗くすることができた。
蛍光灯と窓外の光を受けて、きらきらと光る青白いクリスタルの岩がきれいだった。頂点の部分がトゲトゲに尖っていて、その形は『ザ・シンプソンズ』のバートの顔みたいだと思った。顔といえば、玲那さんの他の立体には、ところどころ顔のようなものが描き込まれている。わたしはなぜか「わ、人面瘡だ」と思った。玲那さんと個展中にかなり話すことができたのだけれども、この「顔」とか「なにかが顔に見える」とかの話もできて、なんとなく記憶に残っている。
普段は立体を作ることが主だった玲那さんだけど、今回は映像作品もかなり出している。展示室に入って正面の映像を見ると、玲那さんの今回の個展の中心的な存在が「母」であることが浮かび上がってくる。玲那さんは河原で食事をしながら、誰かとLINEをしている。そのあとの映像では、数人と食事をする母らしき人物が映り、その人物が誰かとLINEをしていることがなんとなく見て取れる。その映像が映された大きなモニターのかかる展示壁の脇には、ひっそりと縦長のディスプレイがかけてあり、そこには玲那さんと母のLINEのやりとりが映っている。
玲那さんのお母さんのリャンさんは中国出身で、いまは料理の移動販売などをしている。個展開催中にはリャンさんが移動販売車でやってきて、やきとりを振る舞ってくれるらしい。それから、玲那さんとリャンさんの共同制作も予定されてたらしい。でも、リャンさんが滞在していた上海がCOVID-19によるロックダウン下にあったため、そちらはどうなるかという感じだったみたいだけど、どうやら日本への渡航が可能になったようで、玲那さんとリャンさんは、共同制作や、一緒にごはんを食べることがようやくできそうだ。よかった。
展示室正面の展示壁の裏側には、中型モニターの映像があり、さらにその上からプロジェクターの映像が投射されている。壁面は塗り重ねられたジェッソが波のような形を作っていて、さらにその上は砂で覆われていて、荒い質感だ。その白い波形の壁に映された映像の中では、玲那さんが河原のようなところで石を積み上げては壊している。さらに、投射された映像の中にかかるモニターの映像では、リャンさんが海辺のようなところを歩いている。玲那さんは、ひとつひとつ、気になっていたことをリャンさんに質問していく。石について、他者の死や死体について、名前がふたつあることについて。リャンさんには中国名とは別に、日本に来てからつけられた日本風の名前がある。それはお父さんがつけた名前らしい。名前が二つあること、名前が変わることについて玲那さんはリャンさんに聞く。リャンさんが、ひとつひとつ答えていく。リャンさんの言葉を紡いでいこうとする声を聞いていて、それはもはや「母」ではなく「リャンさん」という思考する一個の主体なのだと感じた。
そういえば、わたしは、ひさしぶりに地元に帰り(塩竈市は展示会場であると同時にわたしの故郷でもある)、設営中・会期中、美術館へ、母が送ってくれていた。久しぶりに会う母は、車の中でわたしに玲那さんの母の話をした。
「なんか、工藤さんはお母さんに名前のこと聞いてたけど、工藤さんのお母さんは、名前が変わることって、けっこうどうでもいいって感じだったじゃない。そんなもんだと思うよ」
母はなぜかそのことを強調して話していた。わたしの母も、結婚時に名字は変わっている。その経験のせいかな、と思っていた。でも、東京に帰ってきてから、このわたし自身も、特別な理由から名前が変わっていること、名前がふたつあることを思い出した。わたしの母は、自分自身のことじゃなくて、わたしのことを考えながら話していたのかもしれない。どっちもかもしれない。
「アンパブリック マザー アンド チャイルド」は、開催地である塩竈に伝わる「母子石」の伝説に着想を得た個展だ。「母子石」についての説明は、個展サイトでも紹介されている。
これもまた、東京に戻ってきてから思い出したことで、玲那さんにも話そこねていたのだけれども、塩竈の小学校に通っていたわたしは、小学6年生のときの学芸会で、この伝説を題材にしたお芝居を演じた。玲那さんの展示のおかげで、はるか遠くの記憶が甦ってきたのだ。小学生のわたしは、この家族が人柱に選ばれるのが、白羽の矢が家に突き刺さったためだったことがすごく嫌に感じていた。お芝居の中でそういう描写があったのだ。「白羽の矢が立つ」っていいことだと思ってたのに、その物語を演じたときに、こんなことでもあるんだと思って、なんだか不安になった。わたしはそのお芝居で、父でも母でも娘でもなく、農民の一人を演じさせられた。「ありがてこった♪ ありがてこった♪ これーでわしらは安心じゃ♪ ぴーひゃらどんどん豊作じゃ♪」。あまりにも能天気な歌をあまりにも能天気な振り付けで踊らさせられた。この能天気な農民という役を演じることに「こんな役、嫌だ!!」と感じるほど早熟ではなかったわたしは、ただただこうしろああしろと先生に指図されることだけはものすごく嫌で、でも臆病なのでひたすら消極的に催し物に参加していた。そんな記憶が甦った。
「母子石」の物語の中では、結局はその家の父が人柱になる。玲那さんの展示を見ていて、わたしがふと気づいたのは、父親の不在だ。映像の中に男性らしき人物は映っていたが、それが父かどうかはわからない。わたしが見落としているだけかもしれないけど、父の影のようなものは、リャンさんから間接的に語られる情報としてしか現れない。今回のVoyageを通して考えると、工藤さんとわたしの個人的な会話や、関連企画でわたしの監督した映画上映会後、小田原のどかさんとトークしたなかで、美術や映画、あるいは美術界や映画界をめぐる父権制の問題について、むしろ多くの意見が交わされた。だからこそ、わたしは、この人柱になった「父」がなんなのかを、考えはじめている。個人的すぎてここには書けないし、まだ作品にもできない、わたしの家族や父との関係を考えはじめている。
「母子石」のなかで、人柱になって死んだ父を想い、泣き腫らして、立ったまま石のように冷たくなって死んでしまった母と娘。母にとって、その人柱になった人物とはなんだったのだろう。娘にとって、その人柱になった人物とはなんだったのだろう。自分が石になるまで泣くほど想いをかけられる存在ってなんだろう。
展示は、9月4日までつづきます。ぜひ、見に来てください。展示前に、あらかじめ玲那さんとやりとりをすることはなかったのだけど、会期が始まり、展示を見て、言葉を交わすうちに、こういう作家の隣で展示できて、ほんとうによかったと、ただただ思っています。
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